辺境伯ヤマダタロウの初恋
――今思えば、あれは遅ればせながらの『初恋』だったんだろう。
『辺境伯ヤマダタロウの初恋』/未来屋 環
朝6時に起床。
ここに来てから目覚まし時計なるものを見たことはないが、そんなものがなくとも自動的に目が覚める。
長年染みついたリーマンの悲しき性か――そんなことを思いながら、枕元に置いた眼鏡に手を伸ばした。
身支度を整え自室のドアを開けると、今日の新聞とティーポットがワゴンの上に用意されている。
俺はワゴンを自室に入れて新聞を読み始めた。
こうして活字を目で追いながらお茶を飲んでいると、これまでの生活となんら変わることはない。
――いや、違うか。
紙面を埋め尽くす情報の数々は、かつての俺の常識と大きくかけ離れている。
やれどこどこ王国にドラゴンが襲来しただとか、なんちゃら帝国の英雄がダンジョンを踏破しただとか……まるでゲームの世界のようだ。
俺の名は山田太郎。
記入例ではよく見かけるが、ありそうでなかなかない名前だ。
出身は埼玉県、特筆すべきことはない人生を送り、30歳を過ぎてすぐエリアマネージャーになった。
別に仕事ができたわけじゃない。
朝から晩まで馬車馬のように働き、同期は皆辞め俺しか残らなかった――ただそれだけのことだ。
しかし、そんな俺を待っていたのは、これまで以上に過酷な労働環境だった。
エリアマネージャーというと聞こえはいいが、要は残業代がつかず、残業時間も青天井ということだ。
人手不足をカバーするため、数少ない部下の残務はすべて俺が引き受けていた。
その日、俺は早朝から深夜までろくに飯も食わずぶっ続けで働き帰宅した。
玄関のドアを開けた瞬間、心臓の拍動が煩いくらいに全身を揺らして、俺はそのまま倒れこみ――
――そして、気付けばこの世界にいた。
何が起こったのかはわからない。
元の世界で死んでしまったのか、それとも長い夢を見ているのか――しかし状況が変わることはなさそうなので、俺はここで生きていくことにした。
喜ぶべきか悲しむべきかわからないが、元の世界に未練はない。
両親は早くに亡くなっているし、仕事ばかりしていたお蔭で浮いた話も何ひとつなかった。
心残りなのはあんなに会社に尽くしたのに退職金を1円も受け取れなかったことくらいか。
ひとまず通りかかった人に話しかけると、それがたまたま王宮に務める兵士だった。
彼に王国まで連れて行ってもらい(どういう仕様かはわからないが、言語はすんなり理解できた)王宮仕えの仕事をもらった。
それからとんとん拍子に出世して、今ではとある地域の辺境伯を任されている。
こんなどこの馬の骨かわからない奴を取り立てるなんて、この国は大丈夫なのかと最初は不安だった。
しかし、後々わかったことだが、どうやらこの国の王は異世界転移者(俺のような者をそう呼ぶそうだ)を重用することで現在の地位を築いたらしい。
ダイバーシティを重んじることでイノベーションを起こしてきたということか。
そう考えると異世界もなかなかに興味深い。
幸い優秀な部下に恵まれたお蔭で今は平穏な日々を過ごしている。
そういう意味では、あの過酷なエリアマネージャーの経験も悪くはなかったのかも知れない。
――さて、そんな順風満帆な生活を送る俺にもひとつ悩みがある。
それは、結婚問題だ。
こちらの世界はお見合いが主流らしく、一定の地位を築いた俺の元には日々数多くの縁談話が舞い込んでくる。
しかし、生まれた世界すら違うアラフォー男に嫁がされる相手のことを考えると、あまり気が進まない。
すると、或る日王都で開催されるパーティーへの出席を命じられた。
そこには国中の貴族たちが集まるらしく、億劫だが王命とあらば行くしかない。
そして――そこで事件は起こった。
「グレイシア、私はおまえとの婚約を破棄する!」
目の前では高飛車な男がやたら上目遣いの女を抱き寄せ、一人の女性を睨み付けている。
俺は目を疑った。
こんな公衆の面前で婚約破棄するなんて、正気だろうか。
相手の女性から名誉棄損で訴えられてもおかしくない、あまりにもリスクある行為だ。
そもそも今婚約破棄を宣言したということは、今この瞬間までその対峙する女性と婚約していたということだろう。
それなのに腕に他の女を抱えたままで……これでは浮気を自白しているようなものだ。
この世界に来てもうすぐ2年経つが、こうもカルチャーショックを受けることがあろうとは。
まぁこいつは父親のザラッド侯爵とは比較にならないポンコツという噂だから、これがこの世界の常識というわけでもあるまいが。
「おまえはやたらと理屈っぽく愛嬌もまるでない――私を支える資質に欠けた女だ。私の婚約者としては、ここにいる彼女のような魅力ある女性が相応しい」
それにしても、なんと気の毒なことだろう。
俺はたった今婚約破棄された女性に視線を移し――そして、呼吸を忘れる。
これまで婚約破棄の現場に立ち会ったことがないので、何が普通かはわからない。
それでも、大勢の前でこんな辱めを受ければ、大抵の女性はショックを受けるだろう。
しかし、グレイシアと呼ばれたその彼女は――凛とした雰囲気を纏ったまま、背筋を伸ばし相手を見据えていた。
その長い睫毛は決して震えることなく、ましてや涙を浮かべることもない。
まっすぐ伸びた金色の髪は、まるで彼女の気質を表すかのようにきらきらと光り輝いていた。
グレイシアは何一つ申し開きすることなく丁重な礼をし、顔を上げたのちに「承知いたしました」とだけ答える。
その声には確かな気高さがあって――
――その瞬間、俺はグレイシアに恋をした。
***
「グレイシア、この焼き菓子はどうかな。この前他国で聞いたレシピをベースに作ってもらったんだ」
「ありがとうございます、タロウ様」
にこやかに微笑みを交わし合い、私たちは二人でお茶を楽しむ。
あたたかい空気に満ちた穏やかな時間。
つい半年前まで、こんな日々が私に訪れるなんて想像もできなかった。
――私はグレイシア。
伯爵令嬢として生を受けた私は、半年前に当時の婚約者ロイ・ザラッド侯爵令息からいきなり婚約破棄を突き付けられ、すべてを喪った。
兆候はあった。
自分で言うのも悲しいが、私には可憐な容姿も愛嬌もまるでない。
身体の弱い父に代わり領内の業務に奔走する私のことを、ロイは冷ややかな目で見ていた。
「本当におまえは忙しない。気品も何もあったものではないな」
そう鼻で笑われ、喉の奥に錘を詰められたような気持ちになったことを覚えている。
勿論ロイへの想いがなかったわけではない。
私なりに彼とはそれなりの関係性を築いてきたつもりだった。
しかし、彼が女性を抱き寄せながら私を憎々しげに見据える様子に、それまで積み上げてきた感情は一気に霧散する。
『冷めた』と言うべきか『醒めた』と言うべきか――とにかく私の心には何も残らなかった。
裏切られたことに対する一抹の悲しみと、両親にただ申し訳ないという気持ち。
それらに塗り潰された私の頭はまっしろになり、その場ではただ婚約破棄を了承し、引き下がることしかできなかった。
――そんな私に声をかけてくれたのが、ヤマダタロウ辺境伯だ。
初めて逢った時の印象は、静かなひと、だった。
異世界転移者である彼は漆黒の髪に茶色い瞳を持ち、色素の薄い私たちとは異なる姿形をしている。
私とは10歳以上歳が離れているはずだが、そんな隔たりを感じさせない物腰だ。
「私はヤマダタロウです」
「閣下、恐れ入りますが、なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
「お好きなように……と言ってもあなたも困るでしょうから、ヤマダでお願いします。呼ばれ慣れておりますので」
「はい、ヤマダ様」
簡単な挨拶を終えたあと、静かな時間が続く。
私の相手はさも退屈なのだろうと思ったその時――彼は私の家が持つ領地にどんな特産品があるかをぽつりと訊いてきた。
殿方にこのようなことを訊かれるとは思わなかったが、こういう話題なら幾らでも話せる。
話している内に、段々と彼の領地はどのような所なのかが気になってきた。
不躾にならないよう気を付けながら水を向けると、彼は熱心に話をしてくれた。
それをきっかけにお互い口数が増え、話が弾む。
彼の話は私にとって興味深いものばかりだった。
――しかし帰り際、彼はばつが悪そうに口を開く。
「今日は折角お越し頂いたのに、すみませんでした。退屈だったでしょう」
「とんでもございません、ヤマダ様の領内統治のお話、とても勉強になりました」
「……実は、これまで女性との接点があまりなくて、何をお話したらいいかわからないのです。仕事ばかりの人生でしたし、生来の話し下手で。ましてや――」
そして、少しだけ目を伏せて続けた。
「――あなたのような素敵な方に逢ったのは初めてなので、緊張してしまいました」
思いがけない台詞に私は言葉を喪う。
ただの社交辞令――初めはそう思った。
しかし、懸命な表情で放たれたその声は少し震えていて、はっとする。
――あぁ、この方には嘘がない。
そう気付いた瞬間、まっしろに塗り潰されていた私の心にふわりと花が咲く。
その花の名前を、私は知っていた。
「……ヤマダ様とお話ができて、本当に楽しかったです。ありがとうございます」
胸の奥からあふれた言葉をまっすぐに伝え、礼をする。
そして顔を上げた時、彼の頬はほのかに赤く染まっていた。
その日を境に、彼は度々声をかけてくれるようになった。
料理長の新しいレシピを試したいから、異国の貴重な果物が手に入ったから、領内で新種の紅茶ができたから――そんな誘い文句がなくても行くのにと、少しやきもきしたこともある。
しかし、彼は「おいしいものを食べるなら、一人よりあなたと一緒がいいから」と控えめに笑った。
その包み込まれるような穏やかな愛情に、私の心は少しずつ確実に温度を上げていく。
いつしか私たちは「グレイシア」「タロウ様」とお互いを名前で呼び合うようになり、彼は「母親以外に名前で呼ばれるのは初めてだ」と微笑んだ。
或る日、私たちはタロウ様所縁の貴族が主催する晩餐会に出席することになった。
ふたりで向かう初めてのパーティーに心が躍る。
タロウ様も心なしか嬉しそうだ。
その晩餐会はとても素晴らしく、ふたりの良い思い出になるはずだった。
――そう、或る人物に出くわすまでは。
「なんだ、グレイシアじゃないか」
タロウ様が席を外したので、夜風を浴びようと一人バルコニーに出たところで呼び止められる。
その聴き覚えのある声に、思わず私は身を硬くした。
振り返ると、そこにはかつての婚約者ロイ・ザラッド侯爵令息の姿がある。
「……ごきげんよう」
「随分と他人行儀じゃないか、元婚約者だというのに」
鼻で笑ってそう言い放つロイの姿に、私の心がひやりと冷え込む。
――今思えば、何故私はこんな人と共にいたのだろう。
その冷たい眼差しは明らかに私を蔑んでいた。
見つめ返す私の瞳に何かを感じたのか、ロイの表情が歪む。
「相変わらず可愛げのない女だ」
私は無言で踵を返し、その場を立ち去ろうとした――ところで、いきなり腕を掴まれた。
気を許していない相手に触れられたことに怖気立つ。
完全に私の身体はロイを外敵と認識したようだ。
「おい待てよグレイシア。話の途中だろ」
「離して頂けませんか、ザラッド侯爵令息。待ち人がいますので」
「――待ち人? おまえに?」
ロイがせせら笑う。
あぁ、本当に品のない笑い方。
「おまえにそんな相手が見付かったのか? 良かったなぁ、物好きなやつがいて。どうせろくな相手じゃないんだろうが」
その一言で私の導火線に火が点く。
私は振り返り、ロイを睨み付けた。
「――な、なんだよ」
「私のことはなんと仰って頂いても構いません。ですが、お相手の方を揶揄するようなことは慎んで頂けませんか」
ぴしゃりとそう言い放つと、ロイの顔色が変わる。
――あぁ、どうやら怒らせてしまったようだ。
でも、後悔はしていない。
タロウ様のことを侮辱されて黙っていられるものか。
私の腕を握る手に力が籠った――その瞬間
「私の婚約者に何か御用ですか?」
落ち着いた声が澱んだ空気を一閃する。
振り返るとそこには、厳しい眼差しのタロウ様が立っていた。
「……は? 婚約者?」
間の抜けた顔で問い返すロイの手を振り払い、私はタロウ様に駆け寄る。
「グレイシア、大丈夫?」
「はい、ありがとうございます、タロウ様」
そう返して振り返ると、ロイの顔がさぁっと青くなった。
「その黒い髪――まさか、ヤマダ辺境伯……!?」
「いかにも、ザラッド侯爵令息。お父様には大変お世話になっております」
タロウ様がにこりと口角を上げる。
しかし、その目はまったく笑っていなかった。
「それにしても不思議ですね。私が聞いた話では、あなたは勝手に元婚約相手と婚約破棄した挙句、他の女性に入れ込み情報漏洩や散財を繰り返したことでお父様が激怒、今は謹慎されているとのことでしたが――」
私は思わずタロウ様の顔を見る。
ザラッド侯爵はロイに少し甘い面もあったが、さすがに看過できなかったのだろう。
「……いや、たまには気分転換と思って」
「そうですか。まぁこれから大変ですから、確かに息抜きは必要ですね」
「え?」
要領を得ない表情のロイに、タロウ様は淡々と告げる。
「お父様からうちの軍隊であなたを鍛え直してほしいとのお話を頂いたのです。折角ですから、戦場の最前線を体験頂きたいと思いまして――準備は整えておきますから、いつでもどうぞ」
「――あの男、帰り際は随分と元気がなかったな」
帰りの馬車の中でタロウ様が洩らした言葉に、私は思わず苦笑した。
「そうですね。それにしても軍隊のお話は本当ですか? 彼に務まるとはとても思えないのですが」
「あぁ、侯爵から頼まれたのは本当だけど、断ったよ。ポンコツに来られても困るし、そもそもグレイシアに酷いことをした奴をうちの領地に入れたくない」
きっぱりと断言したその横顔は、多少の苛立ちを含んでいる。
誰かが私の代わりに怒ってくれるということは、こんなにも嬉しいことだろうか。
「但し、その代わりといってはなんだが、侯爵にはもっとハードな地方貴族の軍隊を推薦しておいた」
「えっ、そうなんですか?」
「なに、死にはしない。そのくらいは痛い目を見てもいいだろう」
そこまで無表情で言い終えたあとに、タロウ様は私に視線を向ける。
その瞳にはいつもの穏やかな色が戻っていた。
「さて、そんな輩のことは忘れて、私たちは楽しいことを考えようじゃないか。そう、たとえば――再来月に控えた結婚式の話とか」
タロウ様が私の手を取り、優しく両手で包み込む。
骨ばった男らしい手は、先程ロイに触れられた私の身体を浄化してくれるようだった。
思わず笑みが零れた私に、タロウ様が「――どうした?」と首を傾げる。
「いえ――私は本当に幸せだなと思いまして」
すると、それを聞いたタロウ様が、嬉しそうに表情を崩した。
「――幸せなのは、私の方だよ。だって、初恋が実ったのだから」
そのまま触れるようにキスをする。
瞬間、ほのかな初恋の色が私の心を彩った。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
本作は『山田太郎という名前のイケメンが出てくる話』というテーマで書いたものです。
当初は自分が好きなタイプのイケオジにしようかとも思ったのですが、リアルの仕事が忙しかったせいか、気付けば前半が社畜リーマン物語に……(´・ω・`)
でも折角なので冒険してみようと、普段書かない婚約破棄モノとミックスしてみました。
仕事ができるひとは異世界でもかっこいいのではと思いながらまったり書いたので、まったり楽しんで頂けましたら幸いです。
お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。