9. 盟約
奴隷としてとらえたはずの虜囚たちに、突発的なアクシデントとその後の勢いで占拠されたグラン帝国の哀れな軍事拠点。
自由と酒精を得た虜囚たちの喧騒が、中庭で賑やかに夜を明るくしていた。
粗末な造りの小規模な砦だが、一角には簡易な士官室が設けられている。
その一室で、関羽とユーリンは凍てつくような静謐に身を置いていた。
場の冷気の根本的な責任が自身にあることを認めたユーリンが、困ったような顔をつくって場の空気を崩した。
「まいったなぁ。ここで話を終えちゃったらボクはウンチョーに嫌われちゃうね。『はぐらかしもたぶらかしも』許してくれなさそうな雰囲気だ」
「真に口にし難き事情なれば、無理強いはせぬ。だがユーリン、そなたも語らう機会を望んでいたのではないか? そなたとの交流は愉快なれど、儂は迂遠な段取りを好む性質ではないのだ。いまがその好機である」
関羽は平然として、ユーリンに水を向けた。
それは、話に応じるという合図を年長者の立ち位置から示したものであった。
ユーリンは仕草だけで素直な感謝を表した。
「それは『最も御尤も』といっても良いね。降参だ。ウンチョーはホントにボクの予定を早めてくれるね。さて予定より早いんだけれども、今夜の夜更かしをお誘いしても?」
「無論。酒は尽きたが、話は尽きぬようだな」
「ふふん。実はみなに配る前にくすねておいたのが、まだあるんだ。特別にそれを振舞おう。他人の財を分配する気前の良さにかけては、ボクの右に出る者はいないよ」
待ってました、と言わんばかりにユーリンが得意げな顔をした。
ユーリンは2つの盃を机に並べ、秘蔵していた酒器から酒を注いだ。
そのうちの1つを手に取ると、意を決したように一息で飲み干した。
関羽は無言でそれを見届けると、自身も盃を手に取って、それに倣った。
不慣れな酒精を受け止めたユーリンが少し身体をふらつかせたが、踏みとどまって正面から関羽と向き合った。
「ボクには確信があってね。それは『ウンチョーには嘘をついちゃダメ』だ。正解でしょ?」
「然り。……だがそもそも儂の知る限りにおいて嘘をつかれることを好む人物が思い至らぬが」
「あっはっは。でもなかでもウンチョーはきっとずっとヒトキワもんさ。だから最初に正直に伝えておくね。『ボクはいまから嘘をつく』って」
沈黙。
さすがの関羽も苦笑した。言葉もなかった。ただ愉快だった。
ユーリンは自身の言葉の効能が十分であることに満足すると、真剣な目つきにもどった。
「ボクは『ウンチョーを味方にしたい』し、『ウンチョーの味方をしたい』んだ。それは誓って真実だよ。だけれどもだからこそ、最初からすべてを話すことはしたくないし、おざなりな嘘もつきたくないんだ」
「承った。全ての事情を一刻に明かすは危険を伴うものだ。そなたの警戒心には理解を示そう」
「ありがとう。ウンチョーならそう言ってくれると信じていた。それじゃあ、いまから今夜最初で最後の嘘をつくね」
オッホン、とユーリンはわざとらしく咳ばらいをし、神妙な顔をつくった。
「せーのっ! 『ボクは "大義" のために解放軍に身を投じる』」
途端、ユーリンの目尻に儚い輝きがさした。
関羽は意図的な沈黙をもって、その言葉を受け止めた。それがユーリンの覚悟が秘められた『虚言』であることを感じ取り、厳粛に受け止める姿勢を示した。
ユーリンも息を止めた。が、その事情は関羽とは異なった。ユーリンは苦痛に顔をゆがませて、耐えていた。
関羽は公正な審判者の精神で、その様子を観察した。ユーリンは、汚辱を飲み干すような悲壮な顔つきをしていた。自らが口にした虚言から耐え難いほどの屈辱を覚えいることは、明らかであった。
関羽はユーリンがついた嘘に説明のつかない心地よさを感じた。『大義のため』。真実であれば肯定し高揚するであろうユーリンの言葉であるが、事前にそれが偽りであると明かされていたため、行き場のない感情の昂ぶりが冷風となって関羽の胸中の聖廟を鎮めたためである。
静けさが2人を包み込んだ。2人は互いを見据える視線を、決してそらさなかった。見え透いた虚偽の言葉が、2人の間で真実の連帯感を醸成していた。
感情を持ち直したユーリンが、まるで理由もないのにそうしたかのような仕草で、目元を手でこすった。関羽は、違和を認めない演技に努めた。
「この砦を接収したのと、捕まっていた人たちを助けたのは、まぁなんというか、そのための手土産かな。たぶん明日にでも解放軍の連中がココの砦を襲撃にくる。むろん狙いは物資の略奪と人員の勧誘だね。ボクはそれに合わせてココに忍び込みたかったんだ。そんなワケで、帝国軍の奴隷狩りで捕らえられた哀れな虜囚ごっこをしているところに、ウンチョーと出会ったんだ」
照れ隠しのような口調で、ユーリンが明かした。
「フツーに志願して連中に仲間入りしても、下っ端からの幕開け待ったなしだからね。それだとボクの『目的』には都合が悪いんだ。ボクの虫唾が最高潮になっちゃうんだけど、あえて言葉にするなら『解放軍の幹部から早々に一目置かれたい』んだ。……うへ、ホント、やだ。二度と言わない」
嫌がっているのが大げさであるかのようにわざとらしい嘔吐仕草を演じたが、それが真実の嫌悪であることをユーリンの目の暗い光が雄弁に物語っていた。
「そなたの言う 『解放軍』 とは、どのようなものなのだ?」
「帝国に対抗して人民を解放しよう、というのがお題目らしい。実際そのために各所で身体を張って血を流しているね。活動はだいぶ熱心だ。大多数の構成員は、その理念に心から心酔してる酔っ払いどもなんだろうね。ホントにご立派だよ。認めるよ、解放軍には一応 "大義" があるって」
ここまで話してから、関羽に状況を説明するためにはもうひとつの要素についても触れておくべきであるとユーリンは気がついた。
「帝国……正式名はグラン帝国だね。この国は長いこと北方で領土拡張中で、ココらへんの地域を人足が採れる畑だと思っているらしい。ココらへんはあまり地味が豊かでなくってね、余剰産物といえば人間くらいしかないんだ。そんな唯一の名産品をときどき "徴税" にくるのが通例なんだけど、この砦に集められたのは、そのオマケだね。現地の帝国兵がコッソリ非正規でやってる副業だ。だからいろいろと手際がスカスカなんだ……ボクや解放軍が事前察知できたくらいにね。解放軍としては、実績を喧伝しつつ略奪できるチャンスなわけで、この砦をノリノリで "解放" にくる見込みだ」
声に込められた皮肉の響きを、ユーリンは隠そうとしなかった。
「そこで解放軍にボク自身を可能な限り高く売り込みたかった。そんな絵図が昨日までのボクの計画さ。捕らえられた人たちにちょっとずつ精神魔法をかけなおして廻っていたんだ。もっともボク自身の魔法力じゃ効能がタカがしれてるから、帝国兵がかけた魔法にこっそり相乗りして、ボクの号令ひとつで感情の方向性をズラすことができるように仕込んでおいた。この人数なら、一瞬の熱狂でも十分だからね」
ちらりとユーリンは士官室の外を見た。奴隷として捕らえられていた人々は、解放された自由を得た。いまはその喜びで浮かれ騒いでいるが、夜明け後には陽気を振り払って現実と向き合わなければならない。帝国軍の拠点はほかにも多数ある。威信をかけて虜囚の叛乱を鎮圧にくるか、不祥事として闇に葬られるか、無傷で全員が故郷に帰ることができるのか。懸念は山積している。
しかし、現時点のユーリンの関心ごとは、もっぱら眼前の青年に注がれていた。
ユーリンは関羽に向き直り、一部の隙も無く真摯な表情を見せた。
「ウンチョーにはボクといっしょに解放軍にきてほしい。非礼を承知で伏してお願いだ、ボクの存在感を高めるために、ボクの従者のフリをしてほしい。ボクがとっても高嶺であるように演出したいんだ。そして実際にボクに力を貸してもらいたい。ウンチョーの剛勇を借りられれば、ボクのやりたいことにきっと手が届く!」
己の口から捻出した言葉の苦しさに、ユーリンは顔をゆがめた。出会ったばかりの関羽に対して、供になってほしいとの申し入れである。形式的にせよユーリンを主として、従者の立場から命運を共にすることを求めている。
この破談必死の破廉恥な交渉に、ユーリンは、賭けた。
「対価は、『なんでも』だ。悲願を遂げたあと、ボクに残ってるものなら、なんでもあげるよ。ボク自身の余生で賄えるのなら、全てを捧げても良い。ウンチョーを得られるのなら、それでも安すぎるくらいさ」
取り縋るかのような懸命さで、ユーリンは訴えた。はちきれんばかりの激情を、泣き出さんばかりの緊張で押しとどめ、こぼれる無音の悲鳴が瞳を潤ませて輝いている。
その眼差しには、関羽の琴線に熱い血潮を滴らせるほどの気迫があった。自身のすべてを奉納する覚悟で交渉に臨んでいる者に特有の、気高い懇願であった。
(如何に応えるべきか)
関羽は、悩んだ。
これまでの関羽の生涯において、義は常に関羽の指針であった。義に従いさえすれば、道に迷うことはなかった。
しかし今は違う。義と情が関羽の心を左右に引き裂こうとしている。
(儂にはやらねばならぬことがある。速やかに義兄上の元に帰陣し、頭を垂れて罪を認め、死を以て償いを遂げねばならぬ)
荊州失落。重要拠点を喪失し、蜀の戦略の根幹を損ねた関羽の罪科は死を賜った程度で償い切れるものではない。しかし『償い切れぬ』などという理由で己の不始末から逃れる発想は、むろん関羽には微塵もない。関羽の命は、漢中王劉玄徳に頭を垂れるために脈をつないでいるのである。それは全てを失った関羽に残された、最後にして唯一の『義』の道であるはずだった。
しかし、今ここで新たな標を認めざるを得なくなった。そして、その標に惹かれつつある自分を、関羽はおぼろげに自覚しつつあった。それは侠客長生としての、懐かしい『情』であった。
関羽は鷹揚にうなずいた。なぜうなずいたのか関羽にもわからない。ユーリンを安堵させようとしたのかもしれない。
関羽はユーリンを真正面から見据え、告げた。
「譲れぬ3つの条件がある。その約定を違えぬと誓うならば、しばしこの身を以てそなたに合力してもよい」
ユーリンの表情が、天を飾る星々よりも遥かまばゆく、煌めいた。はじけそうになる喜びを押しとどめて、神妙にうなずいて関羽に言葉の続きを促した。
「一つ、『儂の故国への帰路を探すことに協力を惜しまぬこと』。儂はこの辺りの地理にはまったく不案内でな。そなたの協力を得られると頼もしい」
「それは、もちろんさ。ウンチョーの故郷……カトーグンだっけ。もちろん、あらゆる手を尽くすよ。手が届く限りの資料書籍、博識な老人、遠方に詳しい旅商人、帝国兵への優しい尋問……ことごとく取り得る遍く手段を惜しみなく駆使することを、ボクは誓う」
ユーリンは胸に手を当て、誓約した。
「一つ、『帰路が判明し次第、儂は如何なる状況においても、故国への帰還を最優先とする』。よいな? 如何なる状況であっても、だ。そなたに合力することはやぶさかではないが、儂には天命がある。何としても故国に帰り着かねばならぬのだ。これは儂の身命よりも重大なことである」
「……わかった。受け入れる。もしかしたらウンチョーにとっての幸運がボクにとっての不運であるかもしれないんだね。その場合は仕方がない、ボクの天運と思って受け入れる。如何なる状況でも、半ベソかいてお見送りするよ」
胸中に広がった寂寞たる光景を包み込むように、ユーリンは力強く微笑んだ。
「一つ、『この関雲長、大義に反する行いには加担せぬ』。儂は己の矜持を曲げはせぬ。くだんの解放軍や帝国がどうあれ、そしてユーリンそなたの本懐がどうあれ、だ」
「うん。だからこそボクはウンチョーを味方にしたいんだ。絶対に、絶対に。ウンチョーにはそうであってほしいし、ボクもそうであるウンチョーに認められたい」
盟約の成立を、2人は確信した。
契りを認める誓紙は不要だった。
ただこの瞬間の2人の言葉と心こそが、決して綻びることのない証として銘記された。
「ありがとね、よろしくね。ボクたち、これからもとっても仲良くなれると思うんだ」