8. 迷子のまいごの関羽くん、あなたのおうちは
関羽は気がついた。
ユーリンの右腕が、ごく自然な仕草の流れの中で、いつの間にユーリンの背の後に隠されていることに。
よく見れば、干し肉を刻んだ刃物が皿の上から消えている。
関羽は、ひそかにユーリンが武装していることを察知した。
(決死の覚悟か)
関羽が砦の兵士から接収した武具も、それとなく関羽の手元から離されていた。
にこやかな雰囲気を損ねず会話を続けながら、関羽の武装を解除するという如才のない立ち回りをユーリンは演じてみせた。
もっとも、刃物の有無で覆る程度の武力の優劣差ではない。それはユーリンにもわかっていることだった。
だが、それでも悲壮な覚悟のもとにできうる限りの手を尽くして、ユーリンがこの瞬間を迎えたことは明らかだった。
この会話の顛末によっては関羽と敵対することも辞さない、とユーリンは覚悟を定めている。
関羽はその状況を察知し、むしろ好ましく思った。ユーリンの豪胆さを内心で称賛していた。
「それについてなのだが、すまぬが儂はテイなる国を知らぬ。史書を紐解けばかつて鄭という国があったことは伝えられているが、今世において左様な号を用いる国を聞いたことがないのだ」
ユーリンが、きょとん、としているかのような表情を作ってみせた。張りつめた空気にまったく緩みはない。
「帝国を知らないって、グラン帝国のこと、だよ? 知らないの」
「ぐらん? いや、やはり覚えがない」
「うっそ。ウンチョーて、どこの出身なのさ」
空疎な言葉の応酬が続いた。
「生国は河東郡の解県だ」
「カトーグン? うーん、知らないなぁ。地理に不勉強なつもりはないんだけど、まったく聞いたことないや。どの辺にあるの、それ」
「荊州や江南、いや、このあたりから見れば、ずいぶんと北のほうだ」
関羽は途中で言葉を換えた。
ユーリンの生来の利発さは認めているが、士大夫としての教育を受けているとは思われぬ。荊州や江南といった地名の意味が伝わらない恐れがあったためである。書物で得られる知識は、時間をかけて修得すればよい。足りぬところは、これから育めばよいのだ。
関羽は、ユーリンとの語らいがすっかり楽しくなっていた。
対等の立場から織り成す屈託のない会話が、久しかった。荊州の留守を預かり、軍事の長としてこの地に君臨してからは、周囲の誰もが関羽を畏れ敬い平伏するような接し方になった。
今の関羽には、理解ができた。自分はいつからか、味方に囲まれながらにして孤立していたのだ。寂しさに苦しんでいたのだ。自分より立場を上にする人物が、関羽の身近にはいなかった。その事実が、長年かけて関羽の強靭な精神力をも蚕食して蝕んだのだ。
孤独に耐える意思力も、独りで道を歩む比類なき才覚も、頂に立ちながら孤独に陥らぬ人徳も、関羽にはいずれも備わっていなかった。
すべてを失った精神の身軽さが、己に欠けているものを関羽に克明に理解させた。
ユーリンに対する暖かな配慮に自然と気が回ったのは、関羽のこのような心境によるものである。
しかし、ユーリンの知性は、関羽が隠蔽した単語を鋭利な知覚で捉えて逃さなかった。
「待って。ケイシューとかコーナンていったね。ボクは、それもはじめて聞いたよ」
「うむ。左様なこともあろう。これから学んで行けばよい。天下は広く、多くの里があるのだ。北には魏、東には呉、そしてココより西方には我らが漢中王が治める蜀が」
「そこだ! どうも噛み合わないと思ったよ。ココからみて西方にあるのは、グラン帝国だよ。ショクという国は聞いたことがない。ウンチョー、ずいぶんと遠くから来たんだね。会話のなかで出てくる地名がまったくボクとウンチョーで重ならないんだもん。まるで違う世界の話をしているみたいだよ」
ユーリンを絞りあげていた痛々しい緊張が、またたく間に溶けて消えた。ユーリンの表情に、本物の笑みが戻り始めた。
「なんだ、そういうことか。わかったよ、納得できた。わからないけど、わかったよ。もうホント怖かったんだから」
ひらめきに顔を明るくさせたユーリンが、得意げに床に水を垂らして絵を描き始めた。それは地図であった。むろん即興の手描き図としての荒々しさは否めないが、地形の要所を的確に捉えた実用的な地図であった。
ユーリンは、さらさらとこともなげに、まるで馴染みの童謡を諳んじるかのような気安さで、手早く作図を終えた。
「これがタジカン平原、ボクらはいまここ。北には不踏山脈、東はリンバルン森林、そして西がグラン帝国領。帝国の首都はこのへんね」
お手製の地図もどきをツンツンと指で指しながら、関羽の反応を伺いつつユーリンが解説を加えた。
軍略家としての関羽の直感が告げていた。
(これは精確な地図に違いない)
即座に判定を下した。
ユーリンの言が真である、と。
「なん……と、面妖な。儂はいつの間に左様な遠方にまで移送されたのだ」
関羽は呆然とした。
ユーリンが手早く描いた絵図のどこを眺めても、関羽の知る地形も国名もなかった。
この砦にたどり着くまでに目にした風景、植生
思い返してみても、関羽の知る大地とはまるで様相が異なっていた。
関羽は慄然とした。
(ここはたしかに、儂の知る地ではない)
ここはいったい何処であるのか?
否、何処であるかは今まさにユーリンが図示した。関羽が知りたいのは、関羽が生涯を過ごしてきた中原や荊州の地はいずこであるのか? という位置関係である。関羽の認識する天下の構図において、関羽が現在たっている土地は存在していなかった。ならば、いま関羽がたっている土地からすれば、魏や呉、蜀の地まで存在しないことになるのではないか。
(儂はいったい、いまどこにいるのか)
久しく味わったことのない感情が、関羽の裡に湧き上がった。それは恐怖といってもよいものだった。自分の知る世界がいつの間にか消失し、痕跡すら伺えない。とてつもない喪失感と寄る辺なさが押し寄せ、関羽を心を凍てつかせた。
が、関羽はひといきでそれを振り払った。
「左様か。この歳になって迷い人の心地とは、笑い話にもならぬな」
恐怖が消え去ったわけではない。
関羽の不動の精神力が、現実を真正面から見据えさせたのだ。
漢王朝の版図の彼方に異国があることは、関羽も知っている。ならばここはその異国のいずれかであろう。地があり、脚があり、己があるのならば、為すすべはいかようにもある。
帰路はこれから探せばよい。
「飛竜に咥えられて山脈を越えたどこか遠くから運ばれてきたとしか思えないよ。ずいぶん深く眠っていたみたいだしね。ボク、はじめウンチョーは死んでると思っちゃったもん」
ユーリンは、関羽が帝国兵に捕らえられて虜囚の一群に加えられた場面を詳述した。
「覚えてないのはムリもないさ。ウンチョーてば草むらで死んだように眠りこけているところを、生きてるならもののついで、くらいのノリで縛りあげられて連行される奴隷のタシにされたんだ。売っぱらって酒代マシマシにする算段だったんだろうね。もっとも、とてつもない赤字になったみたいだけどね」
それがすっかりまったくこのザマさ、とおどけたようにユーリンはしめくくった。
もののついで、で捕縛した身元不明の浮浪者が、まさか単身で武装した兵士を制圧し、小規模とはいえグラン帝国の軍事拠点を勢いで占拠するとは、帝国兵の誰にも予測できなかったことであろう。
「謎がすっかり解けたよ。ウンチョーてば、すごく練達な戦人の趣があるのに、まるで所作がなんだかズレてんだもん。まるで初めてこの世界を歩いているみたいに、この地域の事情をまるで把握してないんだね」
「ふむ。だが、儂が嘘偽りを申しているとは疑わぬのか?」
「あはは。ウンチョーて、ウソをつくときには『よっしオレは今からウソをつくぞー』て勢いつけないとウソできないタイプでしょ」
「ふはははは。そうだな、そのとおりかもしれん」
関羽の緊張が、またたく間にほどけた。
「儂は虚々実々の駆け引きはからきしだ。何度煮え湯を飲んどことか数えしれぬ。そこが儂の欠点なのだろうな」
「違うよウンチョー、ボクは心底からキミを高く評価している。キミは詐術と必要としないだけの能力があるんだ。武力もそうだけど、本質は精神の方だね? 『あまねく危難よ、ドンとコーイ』でしょ? だから自己を隠す発想がウンチョーからは猫の毛ほども見えやしない、嘘偽りから程遠い在り方さ。……正解?」
関羽と敵対せずに済んだ喜びから、ユーリンの舌が、よく回った。
「たしかに、己を偽る虚言は恥と心得ておる。大義の道を志して以来、努めて己の誠に背く言葉は口にせぬように戒めてきた」
「タネを明かしてしまうと、ボクは少し精神魔法に心得がある。ほんとに少しだけどね。せいぜい『独学にしては、よくできました』程度さ。幼少期に鍛錬なんてしてないからね、伸びしろがほとんどない」
ユーリンは儚げな目つきをした。口調の裏側に、寂しく悲しそうな色が見え隠れした。
「でもまあ、多少なりとも会話をすれば、相手に魔法が通るか否かくらいは直感でわかる。ウンチョーにはまるで歯が立たないよ、メンタル強すぎでまるでピクリとも揺るがせる気がしない。ウンチョーに虚実のコラボレーションなんてまるで要らないね、実だけでまるで無敵さ」
ユーリンは関羽の圧倒的な武勇を目の当たりにしている。それでもなお関羽の強さの本質は、その精神であると喝破した。肉体それ自体の比類なき頑健さを認めたうえで、それを運用する関羽の心の在り方こそが貴重であると捉えていた。
「魔法と同じだね。威力よりも運用がだいじ。ボクはそう信じてる」
「マホウとは、この地の者が扱う方技の如きものか。おぬしが人の心気を手繰る技巧の妙を有していることは先刻みせてもらった」
「ホウギ? まあツールだよ、道具だよ、手段だよ。ほんの少しだけ見えないものに干渉して、便利な利便をお手元にお届けするんだ。といってもボクの魔法は、基礎の四大元素の他には、せいぜい『人に話を聞く気にさせる』『感情のトンガリの向きを整える』くらいだ。どうあってもボクにはそれが限界らしい」
自分に対して、冷ややかに突き放すような言い様であった。
場の空気が重量を得て暗くなった。
か、それを振り払うように、ユーリンが努めて朗らかに言葉をつなげた。
「大魔道と呼ばれる人たちは、嵐を招いたり死者を蘇らせたりできるらしいけどね。そこまでいくと現実的なおとぎ話に片足突っ込んでるよね」
誤魔化すように笑って、おどけた。
関羽は一連の話の中で、意味を測りかねる言葉をいくつか耳にした。だが、そんなものは些細なことであると理解していた。
問題はそこではない。
関羽は次に己がなすべきことを確信していた。
「ううむ、それは俄には信じられぬな」
「あれ? ウソ?」
ユーリンがわざとらしくことさらに驚いたような顔をつくった。どこか甘えたような響きがある。
「ウンチョーてば、ボクのことは信じてないの?」
(ここだ)
幾多の戦場を渡り歩いた関羽の研ぎ澄まされた感性が、ここが機であることを明確に見極めた。
「いや、信じよう。儂にさしたる智慧はないが、長く生きておるゆえ、見えることも多い。ユーリン、お主は策謀も虚言も得手としているが、敵とみなした者にしかそれを用いぬように心掛けておるな。そして儂を敵とする理由が、まるでない。何か大望のために味方を得ようと画策しておるのだろう?」
ユーリンが虚をつかれて、表情を硬直させた。
にこやかな表情として顔を覆っていた目に見えない薄皮が、ゆっくりと剥がされた。
「ウンチョー、ほんと、何歳?」
その口先は、少し不服そうだった。