7. 一服なんて、許さない
砦を喧騒が満たしていた。
接収した備蓄食料を開放し、虜囚となっていた人々に振る舞ったためである。あちこちで弾けるような笑声が起こり、賑やかな夜を迎えた。
「どうせお酒も持ってるでしょ。どこに隠してるか教えてよ」
まるで友好的であるかのような表情でユーリンは砦の兵士たちから聴取した。
やがて帝国の兵士らの起居する部屋に隠匿されていた酒類が発掘され、宴の騒乱を加熱させた。
「ささ、ウンチョーも食べなよ。ボク、他人の財産についてはとっても気前が良いんだ」
「悪くない。いや、大変によい」
関羽は形式的に酒に口をつけながら、評した。
ユーリンは酒器を軽く降って中の香りを改めた。
「そうなの? ボクは飲めないからわからないけど、ウンチョーが気に入ったなら、ほんと重畳。喜んでもらえるのは、ボク好きなんだ」
「すまぬ。酒の味ではなく、そなた、いや、ユーリンの差配についてなのだ。見事である」
「うん? そう? 褒めてらえるのも好きだよ」
「儂が陣頭指揮を執ったとて、ここまで兵卒らの士気を高められたか、自信がない」
勝利の余韻の冷めぬうちに十分な食料で腹を満たし、僅かとはいえ酒を呑み交わすことで一軍としての結束を確固たるものにした。兵卒の心をつかみつつ体力を回復させたのだ。敵軍からの略奪品を活用するのは戦場の常道であるが、それだけに効果の大小には指揮官の将器によって大きな差が生じる。ユーリンの人柄と機を逃さない的確な判断力が、何の変哲もないただの糧食を実際以上の価値あるものに変貌させたのだ。
「誠に感服した」
関羽は本心から称賛した。場の流れに任せるままに、ユーリンが事態の収束を主導するのを黙って見届けた判断が正しかったことを噛み締めた。
関羽は砦の見張り兵を、武で圧倒した。そのまま殲滅することも容易かったが、ユーリンはその道を選ばなかった。関羽の武威が砦の兵士らの戦意をくじいた機を見計らい、解放された虜囚らの威勢を背景に事態の鎮静に努めた。手際よく兵士らを逆に捕虜として拘束し、殺気に猛る100名の虜囚には糧食をふんだんに振舞って、熱意を食と酒に向けさせた。こうしてつかの間の平穏を得た関羽とユーリンは、穀物粥と干し肉とわずかな酒を並べて腰を下ろし、ささやかな食事会を開くに至った。
関羽のしみじみとした感慨深げな面持ちを観察していたユーリンは、干し肉を齧りながら疑問をぶつけた。
「ウンチョーてさ、もしかして軍歴ある?」
「ブッ、ぅっぐ、なんと!?」
関羽はむせこんだ。喉を下っていたはずの酒が破裂し、鼻の奥を刺激で焦がした。
「……ある」
有無を尋ねられたため、関羽は有無を回答した。
関羽には、たしかに軍歴がある。
あるにはあるが、ユーリンの疑問は、己の武名の高さに自信をもっていた関羽の不意をついた。
砦の兵士を素手で制圧してもまったく乱れることのなかった関羽の呼吸が、出口を入口を探し求めて肺の中を駆け回った。
ひとり息苦しくもだえる関羽を眺め、ユーリンは率直に言葉をつなげた。
「ふぅん、どれくらい?」
「もうじきに40年に届こうか」
「ブッ、く。けっほけぼ」
今度はユーリンがむせこんだ。胸の奥で干し肉がぬるりと逆流した。
「ウンチョーほんと何歳なのさ。見た目は20くらいとしか思えないんだけど」
「嘘偽りは申さぬ。しかし髭を失ったことで、そこまで若く見られるとは」
話していて、関羽は気がついた。
髭を失った現在の関羽の相貌は、伝え広まっている関雲長像との齟齬があるのだ。それが理由でユーリンは関羽の素性に思い至らないのであろう。関羽はそう推測した。
(そうか、みな儂の髭ばかり見ておったのか)
自慢の髭が己の武名と共に語られることを誇らしく思ったが、すぐに髭を失ったことを思い出して、しょんぼりとうなだれた。
(おのれ、孫権め。儂の首を斬らずに髭を切り落とすとは、いかなる了見か。この関雲長に屈辱を与えることを愉しんでいるのか。生き恥を晒す儂の姿を喧伝し、以て蜀軍の意気を損ねる算段か……なんと迂遠なことを)
関羽には、自身が臨沮において処刑された記憶がある。首の筋と骨を、己の意識と命を断つ、あの冷ややかな熱の奔りを、関羽はまだ覚えている。
しかしこうして自分は今もまだ確かに生き永らえている。
ならば何か都合があって処刑が取りやめになったのであろう。
戦いに敗れ、死すべき時に死ねず、こうして命をなお現世に留め置いていることに対し、関羽には武人としての忸怩たる気持ちがあった。しかし、自分と同じく捕らえられ、まだ命を保っている兵卒らが側にいる。関羽には彼らの命運を己の責任とする義務があった。
通常であれば、領有を争う戦において、ただ従軍しているだけの兵卒は捕らえられても厳しい措置が与えられることはない。彼らは生産して納税する領民であり、領主にとっての財産でもあるからだ。しかし、此度の戦においては顛末を異にするらしい。孫呉が我らを奴隷として拉致することを企図していると知った以上、それを看過することはできない。ユーリンを含む彼ら全員を再び荊州の故郷の地に連れ帰ること———それのみが今の関羽を支える生き甲斐であった。
(しかし真に珠玉の才よ。これほどの逸材がただの兵卒として従軍しておったとは。ここで見出すことができたのはせめてもの幸運か)
ユーリンのことである。
関羽には多くの知己がいる。智に富む者、武勇溢れる者、清廉な能吏、能弁な論者……。そのいずれにも分類できない貴重な才を、関羽はユーリンから感じ取っていた。
機知に富んだ行動力、敵対する人間の耳をも傾かせる話術、可憐な容姿からは想像できぬ豪胆な度胸、兵卒の士気を短時間で奮い立たせる巨大な将器。何よりも、人を強烈に惹きつける不可思議な魅力があった。
他者にこれほどの印象を刻み与える力のある人物といえば、関羽の長い生涯において思い浮かぶのは、ただ一人の義兄の姿のみであった。
(この少年の行く末、ゆめ違えてはならぬ)
「これから如何にするべきか」
ユーリンの将来を思案して、関羽は我知らず、つぶやいた。
その言葉を聞いたユーリンは、意を得たとばかりに顔を輝かせた。
「そう、まさにそれさ。ボクはウンチョーとそういう話がしたいんだ。ウンチョーは解放軍の関係者なの? それとも倒錯的な事情を隠した帝国の人?」
穏やかな魅力を湛えた声に、はぐらかしを絶対に許さない鋭い意思を込めて、ユーリンが口火を切った。