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5. 元美髭公

関羽やユーリンを含む100人ほどの虜囚の一群は、相変わらず周囲を武装した兵士に見張られながら、途中いくどか関所を通過し、ひたすら歩き続けた。


状況を飲み込めないまま、関羽はそれに従った。冴えない凡夫に小突かれながらの移動には不愉快な想いをさせられたが、ユーリンと名乗る少年の喝破するとおり、あたら命を捨て急ぐ必要はない。せめて孫呉の意図のありかを見極めるまでは、粛々と状況を受け入れる覚悟を決めた。


日が傾きかけるころまで歩き続けた後、粗末な造りの砦にたどり着いた。木壁の外側を浅い堀が囲っている。防衛の拠点としては最低限の拵えであることは、関羽にはひと目でわかった。




(衛士はおよそ20人。ここは連絡中継用の駐屯地か)


こうした最小設備の砦は、敵軍の進行を阻止する目的ではなく、自軍の伝令兵や補給部隊の移動を円滑に保つために、駅舎を兼ねた簡易な支城として領内にまばらに構築するものである。むろん軍事機密として秘匿される性質のものだ。


関羽は呉軍攻略の手がかりのひとつとして、この砦の性質を見定めようと観察した。それを遮るような大声で、先導の兵士が叫んだ。


「よく聞け、奴隷ども。しばらくの間、ここに停泊する。みてのとおり逃げ場はない。大人しくしていろ」


関羽にとってはごく貧相な、それこそ吹けば飛ぶような矮小さに感じられるこの小さな砦も、一般の兵卒たちにとっては厳重な要塞として感じられるらしい。関羽とともに歩いてきた虜囚たち群れのアチコチから、絶望に打ちひしがれる嘆き声が聞こえてきた。


「あぁ、もうおしまいだ」「ちくしょう」「帝国軍なんかに捕まっちまったのが運のつきだ」「どうしようもない」

悲運を嘆き悲しむ嗚咽があたりに満ちた。

消沈する虜囚たちを見届け、兵士が告げた。


「この砦のなかで数日待機してから、帝国領内に出発する。それまでの食事や排泄の用便のため、いまからおまえたちの縄を解く。くれぐれも逃げようなどと考えるな。少しでも怪しい素振りをみせた者は、ただちに斬る!」


関羽は、孫権の狙いがまったく理解できず、混乱した。


(赤ヒゲ小僧め、いっまいどういうつもりだ。ヤツの企みがまだたくわからぬ。これではまるで儂に逃げてくれと言っているようなものではないか)


この程度の規模の監視兵で、両手の自由を得た関羽を制することは不可能である。それはこの時代をともにしたすべての人民が抱く確信であるはずだ。美髭公関雲長の勇猛ぶり、一騎当千の評はあまねく人口に膾炙しており、それは誇張ですらなく限りなく真実に近い実情であることは、孫呉にも伝わっている。


疑問の尽きない関羽の心境をよそに、関羽も砦の内側に連行された、両手の拘束が解かれた。信じがたい気持ちで呆然とする関羽に、今度は食事が差し入れられた。穀物と野菜を煮詰めた汁物が、汚れた椀に盛られて供せられた。


食事済ませて気力の回復を実感した関羽は、開き直ることにした。これほどまでに侮られてなお粛然たる姿勢を保つ動機がない。この程度の砦ならば、いつでも関羽1人で制圧できる。してやろう。そう決意した。


関羽の関心は、もっぱら同胞たる虜囚たちに向けられた。関羽の部下である彼ら荊州軍の兵卒たちおよそ100人を引き連れて、如何にして敵地より脱するか。関羽1人であれば容易く蜀の地まで辿り着けるが、これだけの人数を準備なしで統率することは困難だ。まずは地勢を把握したい。日中歩いて眺めた風景は、中原から河北河南、荊州まで広く駆け抜けた戦歴の関羽にとってさえ、まったく未知のものであった。動植物の植生や地形、地質から感じる強烈な違和感が拭えない。意識を失っている間に、よほどの遠方にまで連行されたのだろうか。

疑問はつきぬが、まずはこの砦が孫呉領内の何処に構築されたものであるかを把握する必要があった。


(見張りの兵士どもと世間話でもしてみようか)

何か手がかりが得られるかもしれない。

僅かな望みであるが、無為に過ごすよりはマシであろう。そう思い至った。


「やあ、ウンチョー。しばらく振りだね」

銀髪の少年、ユーリンが軽やかに寄ってきた。食事を済ませ、頬の血色が先刻よりも鮮やかであった。


「おお、少年」

関羽は、ユーリンとの再会を率直に喜んだ。

「しばしの辛抱だぞ。じきに皆を自由にしてやる」

「へ? どしたのさ、急に。何かオドロキの秘策でも編み出したのかい?」


「そんなものはない」


関羽はきっぱりと言い切った。


「この程度の砦の攻略に、策なぞ不要。老いた身とはいえ、この関雲長ひとりで蹴散らせる」


きょとん、と呆気にとられた顔をユーリンは隠さなかった。

疑るような目つきで関羽の体躯をしげしげと眺める。

「そりゃあね。ウンチョーがガンジョーなのは知ってるけどさ、だいぶ無理があるんじゃない? 武器もなしに大立ち回りだって?」


「心配無用。たしかに往年の膂力は失ったが、儂には数多の経験がある。これしきの危難に遅れをとることはない。そなたら全員を必ず無事に故郷にかえして進ぜよう」

「要するにさ『オレは昔はヤンチャだった』てヤツ? ウンチョーはずいぶんとジジくさいんだね。まさしく『可哀想にまだお若いのに』だよ」

「しかし少年よ」

「まった。・・・ねぇ、ウンチョー?」

言いかけた関羽のことばを、遮った。


「なんだ?」

「ウンチョーはウンチョーでしょ?」


じゃあボクは? の言葉をユーリンは言明せず、にこやかに自分を指差した。澄明な嫌味などという奇妙で器用なことを、ユーリンは容易くやってのけた。


「……すまぬ、ユーリンよ。儂は若いと呼ばれるような齢はとうに過ぎておる。老人扱いされるのは好まんが、あまり若輩のように言われるのは対面がよくない」

「え? ウンチョー、おいくつ?」

「そろそろ60近い」

「ウッッっっすぉ? ……でしょ?」

「まことだ」


何故それほどの驚きを招いたのか、関羽にはわからない。いかに日々鍛錬を重ねて武勇に磨きをかけようとも、老いによる体力の低下は否めない老齢である。容姿顔つきも年齢相応であると自らを認めていた。


しかしユーリンは驚愕と不信の入り混じった表情を隠さない。


「ウンチョーて、ヒューマン族じゃないの? どう見ても20ソッコソコじゃん。もしかしてウンチョーてエルフ? そうみえて器用系で弓とか得意だったりする?」

「弓か。若い頃にいちど学ぼうとしたことはあるが、手に馴染まなんだ。儂には長柄の獲物が性に合っているようだ」


関羽は、空の掌をちらりと見た。今、手元には、一片の刃すらない。長年携えてきた青龍偃月刀の重量を恋しく思った。

しかし己には鍛えぬいたこの四肢がある。数名程度の兵士ならば、徒手で圧倒するのに十分なほどに鍛え抜かれた鉄腕である。見張り兵士たちの隙をみて数本の武具を奪えば、自分ひとりでこの砦を制圧して、捕らえられている皆を連れて荊州に帰還できる。


関羽は、眼前の可憐な少年ユーリンをみやった。


(己の失態の巻き添えとして、斯様な未来ある少年の命を失ってはならない。前途の多難は承知、くれぐれも軽挙はならぬな。我が身命に替えても、彼らを故郷に連れ帰られなばならぬ。慎重に行動を選択せねば)


それは、みじめな敗北ですべてを失った関羽にできる、ほんのごくわずかな償いであった。


ここまで己の決意を固める思考を経たのち、ふと関羽は気がついた。


「待て。妙な言葉をつかったな。『ひゅーまん』だの『えるふ』だのとはどのようなものだ」

「えー、ウンチョーみた感じはボクらと同じ『ヒューマン』じゃん。でも歳はけっこういってるっていうから、もしかしたら、そうはみえないけど、長命種なのかな、て思ってさ。だってウンチョー、みためはどうみてもソコソコのお兄さんだもん。ぜったいボクの父さんより若いし」

「ふうむ。さように若く見られるものであるか」


関羽は不思議に思った。どうして老境に差し掛かる今になって、若く見られるのか。


若い頃から、関羽は実年齢よりも年長であると誤解されることが多かった。身体からあふれ出る気迫と威厳が、関羽の印象を強烈に巨大化させていたためである。関羽としては、それに悪い気持ちは抱かなかった。恐れ畏怖されることは、戦働きを生業とする関羽にとって、有利に作用した。自尊心も多少満たされた。いつしか関羽は自身の印象をより鮮烈に高めるべく、髭を伸ばすようになった。どれほど忙しくとも、日々の手入れを欠かすことはなかった。『美髭公』という異名は、関羽にとって何よりも喜ばしい称号であった。


そう、髭である。

この長久の歳月を経て艶やかに垂れ伸ばされた美しい髭を目の当たりにすれば、関羽を若年者と誤解することはありえない。


関羽はユーリンの誤解を打ち消すために、微笑みかけながら、自らのアゴに手をそえ、いつもどおりに髭を撫でた。

いや、撫でようとした。

顔のやや下、喉元の何もない宙空を、関羽の手がむなしく滑った。


関羽は自らのアゴをゆっくりと撫でた。そして、自らのアゴが間違いなくそこに存在していることを慎重に検証してから、自慢の髭があるはずの空間をまさぐった。わしゃわしゃ。そこには何なかった。静寂が張り詰めた。


『美髭公』関雲長の髭が、失われていた。


何かを言いかけて不可解な仕草をした関羽をみて、ユーリンは首を傾げた。

「どしたの?」

「……ない」

「ん? なにが?」

「儂の髭が、ない……のか……?」


呆然として、関羽がつぶやいた。(まなじり)から光が失われている。


「うん……ない、よ? 」


挿絵(By みてみん)


ユーリンは、ただならぬ気配を察した。


ユーリンが関羽と出会ったのは、今日の昼である。反乱軍の捕虜として仕立て上げられて両手を縛られ連行される道すがら、昼の休息場所として開けた野原で一団は腰を下ろした。そこで発見されたのが、草むらの中ですやすやと眠りこけていた関羽である。そこに人間が落ちていることをまったく予期していなかった帝国軍の兵士たちは、はじめ驚愕をもって関羽の巨体を観察していたが、やがて、もののついでと言わんばかりに関羽の両手を縛りあげて、連行する虜囚の群れに加えてしまった。奴隷として売却し、予定外の追加収入として計上するためである。


ユーリンはその一連の顛末を、この不運な青年に同情しながら間近で眺めていた。そのときの記憶に基づいて、歯切れ悪くも誠実に証言した。


「ボクと出会った時から、ウンチョーに髭はなかったんじゃあ……ない、かな? たぶんだけど」


関羽の全身に稲妻が奔った。

瞬く間に、燃え滾る炭火のような顔色に変貌し、汗が沸騰して蒸気と化した。

怒りで視界が狭まり、眩暈に見舞われ、膝がよろけた。


「ウンチョー!?」


心配したユーリンが駆け寄ろうとするのを、関羽は片手で制した。


「……儂から、離れていろ」


言い終えると、関羽は巨大な嵐となって疾走した。

力なく座りこけている虜囚たちの横を颶風となって駆け抜けて、ぼんやりと見張りの任を務めていた帝国の兵士に詰め寄った。


「な、なんだ。おまえは! 勝手に走り回るな、そこに座———っ!!」


突然の関羽の接近におどろいた兵士が声を荒げるが、その口元に関羽の拳が叩き込まれた。

即死させずに歯の数本を吹き飛ばす程度の威力にとどめたのは、次の言葉を聞かせるためである。


「おい、貴様、あの恥知らずの小僧をココに連れてこい」

「……あっ、ぐが………、ふぁ?」


出血にあえぎながら、帝国の兵士がかろうじて呼吸をつないだ。

ただならぬ様子に気づいた虜囚たちが、怯えながら固唾をのんだ。


「孫権!! 貴様にも髭はあろう。男としての仁義はないのか!!」


砦を押しつぶすような関羽の怒号が、響いた。

殺気だった見張りの兵士たちが、剣や槍を携えて一斉に駆け寄ってくる。


「儂の髭を返せ!!」


関羽は落涙の鬼神と化した。

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