4. すっきり雲長
中年兵士が去っていったことを見届けて、少年が口火をきった。
「さて、大胆で勇敢なお兄さん。ボクとちょっとしたお話をしてみないかい? ボクはお兄さんに言いたいことがあるし、お兄さんはボクから聞かされるべきことがあるはずだよ」
両手を拘束されて自由を奪われている現状をまるですっかり忘れ去ったような明るい口調で、少年はおどけて脅すような表情をみせた。
「傾聴してくれるよね。首と胴のつながりに愛着があるんだったら聞くべきだね。ね」
「ふむ。儂はどうやらそなたに助けられたようだな」
「そゆこと。不利なときは戦うな、ってね。たぶんどっかのナンカに書いてあるんじゃないかな? ボクは読んだことないけど。ともあれしばらくはおとなしくしていようよ。こんなところで斬り伏せられても、誰かに誇れる武勇伝にはならないさ」
自分たちの境遇が厳しい虜囚の身であることを、温かい口調で冷ややかに突きつけた。
「然り。そなたの見解が正しかろう。改めて礼を言う」
関羽は平静を取り戻し、少年と向き直った。拘束されたままの両手を前に掲げ、深々と頭を下げて謝意を伝えた。
少年は満足そうにうなずいて、屈託のない喜びの表情を顔からあふれさせた。
少年の輝くような純朴さが、関羽の荒んだ心に、まるで澄明な涼水ように染み渡った。目には見えない貴重な恵みを、分け与えられた心持であった。
(ふふふ。本当にうれしそうな表情をする)
関羽は、改めて己の境遇について思案する。
どうやら、意識を失っている間にいずこかに輸送されてしまったらしい。平坦な平原が広く続き、遠方にはなだらかな丘陵がみえる。荊州の地に根差して以来、領内の散策を怠ったことはないが、見渡せる風景は、関羽にとって見覚えのない景色であった。
周囲には、関羽と同じように拘束された男たちが、思い思いの姿勢で地に腰を下ろして休んでいた。みな一様に疲れ切った顔をしている。稀に関羽と視線を交わす者もいるが、それに気づくと、すぐに顔を横にそらしてしまう。大胆なひと悶着を演じた関羽と少年から距離をおきたい心理が見て取れた。
(孫権め……いったい何を企んでいる? 儂を兵士たちとともに行動させるとは)
何故処刑の計画が中止とされたのか、関羽からはうかがい知れない。だが、理由として考えられるのは魏呉の間で何らかの不和が生じた可能性である。魏国と共謀して関羽を打ち取り荊州の地をかすめ取った呉国であるが、魏呉の間には積年の係争が積み重なっている。手を取り合っているのは、一時的な関係に過ぎないことは明らかだ。何か魏呉の間で不和の火種が再燃しているとするならば、呉国としては蜀との関係の回復を企図するために、関羽の命を丁重に保全する動機が芽生えることだろう。
しかしそれにしても、荊州軍の兵卒たちと関羽をともに行動させる必要性がない。関羽が兵卒たちを扇動して統率し、叛乱を計画する可能性もある。
関羽を一般の兵卒と同様に扱うことで、屈辱を与えようとしているのだろうか。しかし蜀との関係修繕をもくろむのであれば、関羽を粗雑に扱い痛めつけるのは呉国にとって望ましい結果には結びつかないはずだ。
関羽は、自身が奴隷同然に扱われている己の現状を理解し、理解できないことを理解した。
思考に沈む関羽を引き上げたのは、少年の声であった。
「ところでさ……お兄さん、名前、教えてよ」
「なにっ!?」(儂の名を知らんだと)
関羽の血が沸騰し、全身を熱く縛った。天下に武名を轟かせて以来、覚えのない屈辱であった。
しかし、それを発露はしなかった。すぐに鎮静を取り戻した。
(儂は、なんと愚かなのだ。傲慢な心持ちを捨て去ろうと決意したばかりではないか。世の広がりに果てがないことを思えば、儂の名の届かぬような辺境もありうるではないか。この少年は辺鄙の出自なのだろう)
「それでは名乗らせていただこう。姓は関、名は羽。字は雲長。漢中王劉玄徳を義兄に頂き、荊州軍総司令の職分を預かる身である」
「その、ごめん……なんて? ボクの知らない言葉が多くて、耳を滑っちゃった。もっかい、もっかい。お兄さんの名前、教えて?」
「……関、羽。雲長である」
「カン・ウーン・チョウ?」
「……雲長でよい」
字は本来、親しき間柄の者同士で互いを呼び合うものである。
初対面の少年に字呼びを許すことについて、関羽のなかで強い抵抗が芽生えたが、飲み込むことにした。
(あとは死するばかりの身上において、いったい何の矜持を守ろうというのか)
関羽は自嘲し、少年と対等な精神で向き合うことを受け入れた。
「そっか。ウンチョーだね。よろしく。ボクはユーリン。ユーリン・クゲビト。ユーリンて呼んでね」
爽やかな笑顔で、少年ユーリンは名を告げた。
軽やかな陽光を思わせる心地よい名乗りであった。
たちまち関羽の中のわだかまりが溶けだ。
武名の高低や字呼びの是非に拘泥することが、実にくだらないことであると感じた。
「ふっ、ふふふっ」
心境の大胆な変革を自覚し、関羽はこみ上げる笑いを口からこぼした。
「どうしたんだい、ウンチョー? 楽しいことを独り占めは良くないよ、ボクにも教えてよ」
「いや、失礼をした。ユーリン、そなたは大した人物であるな」
「? 褒められるのは好きだけど、理由がわからないのはなんだかモゾモゾするね」
「すまぬ。そなたはどうやら儂が己の悪癖を改める機会を与えてくれたらしい。なんとも固着した宿業のように思っていたが、砕いてみればそう頑固なものでもなかったな」
関羽は、まるで生まれかわったような心地よさをかみしめた。
幾十年も己を呪縛していた強固な鎖が、その実、空疎なまやかしにすぎないことを知ってしまった。
孫権の眼前で処刑される今際において己が何を悟り得たのか、その正体を、ようやくながらにつかみつつあった。
(儂の心が、生んだのだな)
関羽の生涯には、数多の敵があった。戦いの繰り返しであった。多くの戦いにおいて、関羽は己の武勇を振るって勝利を得た。繰り返し幾度も戦い、戦い抜き、勝利することで———また新たな敵を得ることができた。
(味方を得ることもできたはずなのだ)
その模範たる人物を、関羽はよく知っていた。義兄として仰いだ。そう、仰ぐだけに過ぎなかったのだ。
「そなたのおかげで気づくことができた、感謝する」
もしかすると、まだ間に合うのかもしれない。
何もかも手遅れであると諦めていたが、もしかすると、まだやり直しができるのかもしれない。
関羽の胸中に、希望の灯が宿った。
己の身体を突き動かす、不屈の気力が湧きあがった。
ユーリンは不思議そうにひとり滾る関羽をみて、首を傾げた。
「出会いは概ねサイアクだったわけだし、これからボクたちきっと仲良くなれるんじゃない? あはは、だってこれ以上ウンチョーなぐったらボクの手が割れちゃうもん」
両手にフーフーと息を吹き付けた。