39. 光の使徒ユーリン(9) 夢見の国
そこはひとつの王国であったが、ただひとりの王国でもあった。
精緻な石造りの、調和のとれた美しい街並み。
見上げる先には、蒼い空。
浮かびあがるのは、そびえ立つ白磁の城。
その城は、冷たい輝きを放っていた———まるで孤独に震え、凍り付いたように。
遥か彼方の城下町からその城を遠望する少女がいた。
フリルで飾った薄黄色のドレススカートを可憐に纏い、深紅の艶やかな靴を履いている。
足取りは軽やかで年相応だが、あどけない仕草の節々から、磨き抜かれた曇りなき気品が匂い立っている。
腰まで伸びた流麗な銀髪が、ドレスとの対比でよく映えた。
空色の髪飾りは、少女の瞳の色と同じである。
少女は勝手知ったる顔で、城門をくぐる。
ただひとりの王国であり、ただのひとりの人影もない。
たったひとりの少女は静かに、ただひとりで歩み続ける。
扉を開ける、紙の匂いにむせ返る。
この喉をつくような不快感が、少女はふしぎと嫌いではなかった。
薄暗さに目が慣れる、世界が浮かび上がる。
そこには、無限に広がる書庫があった。
そこはひとつの王国であり、ただひとりの王がいる。
少女は王に、入国と入室の礼を述べる。
「こんばんは、偉大なる孤独な王よ。『今宵も入国のお許しを賜りましたこと、深甚なる感謝を捧げます』……これでよろしいかしら?」
「おお、誰かと思ったが、やはりそなたか。よくきてくれたね、歓迎するよ」
老いたる王は破顔して、少女を迎えた。
少女は驚いたような顔をして、口元を指先で覆った。
「まあ、こんなシケたところに、あたくし以外のどなたをお招きでいらっしゃるの?」
「ははは。シケた場所か、違いない。ここにあるのは、つまらない老人1人と本だけだからね。……昔はもっと来客があって賑やかだったんだがね。近頃はここにたどり着ける精神をもつ者がほとんどいなくなった。人間……ヒト族のなかでは、今はそなただけだ。寂しくないと言い張るのは、ワシの強がりにしかならんね。……今夜は、読んでいくつもりかい?」
「はい。書庫を散策させていただいてよろしいでしょうか」
「ワシの口はそなたの願いを拒む言葉をつむぐためにあるわけではない。もちろんすべてを自由にしなさい」
老いたるただひとりの王は腕を広げて、少女に自由を促した。
たちまち書庫に灯りが満ちて、茫洋たる無限の空間を照らす。
少女は勝手知ったる顔で、書棚をめぐる。
ただふたりの王国であり、ただふたりの人影と、本だけがある。
少女と老人は静かに、ただふたりで歩み続けた。
少女はひとつの棚の前で、足をとめた。
書棚を見上げて、目当ての本を探す。
「そこの棚にそなたが興味を持つのは、幾年ぶりかな」
「ここは本当に申し分なく素晴らしくて、どこまでも不自由な世界ですわね。どんな本でもあるのに、プライバシーの欠片もないんですもの」
「ワシに不平を鳴らされてもなぁ。それにプライバシーを取り沙汰するなら、侵害されているのはワシの方なのだよ。ここはもともとワシひとりの場所なのだから」
「それもそうね。『不躾な言動、謹んで陳謝申しあげ、平にお許しを請うばかりです』……これでよろしいかしら?」
「そなたにそのように畏まられると、なにやら妙な気分になるな。改まらずともよいが、多少のことは堪えてくれい。ワシはそなたを歓迎しているのだが、本を取り出すことが取ることができるのは、やはりワシだけなのだ……さて。今夜はどの本を読むんだい。どれでも好きな本をとってあげよう」
「……『陽子Note』の写本がございますよね?」
少女は躊躇いがちに、その名を口にした。
老人は少し身じろぎしたが、すぐに打ち消して平静に戻った。
そして、目元に憂慮をためて、言葉を選ぶ。
「……もちろん、あるよ……だが……」
「取ってくださる?」
「……いいよ……ほら、これだよ」
老人は手を伸ばし、棚から一冊の本を取り出した。
慈しむようにそれを眺めたのち、その本を少女に手渡した。
少女は手を伸ばし、老人から一冊の本を受け取った。
憎むようにそれを眺めたのち、その本を開いた。
「……っ! ……ぅぅ……ッ」
少女はその本を読むことができなかった。
文字として認識し、文章として解読し、情報として理解し……それでもその本を読むことができなかった。
読みとる端からその内容が頭の中で消失してしまうのである。
少女はそれを許さなかった。
少女はそれを認めなかった。
少女はそれを諦めなかった。
少女は『聖女』に抗った。
流入と消失を頭の中で繰り返す『陽子Note』の記述を、執念で追いかけた。
それはあたかも、冬空を舞い散る粉雪を指でつまみ集めるかのように繊細な作業だった。
そして少女は、その凍てつくような世界においても、十分すぎるほどの温もりをその指に宿していた。
つまみ上げた粉雪が、涙のように、垂れて消える。
少女はその本を読むことができなかった。
少女を支える健気な執念が、忌まわしき憎悪に変貌しかかったころ、老人が少女の肩を優しくなでた。
「無理はよくない、頭を焼かれてしまうぞ。そなたの魔法抵抗力では『法魔法:閲者聖限』を突破することは不可能だ、おそらく永遠に。残念だが」
「……いいわ。あたくし、知っていましたもの。何度やっても、どうせこうなるって。ただ確認しておきたかっただけですの」
よろめく頭を支えるように額を手で抑えながら、少女はその本を老人に渡した。
老人はその本を、大切そうに書棚に戻した。
少女は『陽子Note』をひと睨みし、棚に背を向けた。
もうココの棚に用はないと言わんばかりに、深紅の艶やかな靴を躍らせて移動する。
「……本題にとりかかりたいの。……地理、外交系の資料を何冊か。はるか遠方、異国の情報がわかるものだとうれしいのだけれど」
「前回きたときもそんな感じだったね。まだ『カン』という国を探しているのかい?」
「ええ、そうよ。『ショク』でも『ケイシュウ』でもいいのだけれど、まったく手がかりが見つからないわね」
「それだと、そうだね、地理だとパトリアの頃のものがいちばんまとまっているね。当時とは変わってしまっているところもあるけど、まだ現役で使えるよ。外交となると……古いものはたくさんあるけど、遠方や異国の情報となると、新しいものの方がいいだろうね。いまある本のなかでは、グラン帝国の外交府の文書庫がオススメだよ。なにしろアチコチと戦争しているからね」
「そうね、それがよさそうね。じゃあグランの外交府の文書庫から見せてもらおうかしら」
「容易くてお安いご用だよ」
老人が右腕を左右に振ると、音もなく書棚が左右に移動した。
空いた隙間を通路として、ふたりが歩く。
「ここの棚だよ。また片っ端から、かい?」
「ええ、片っ端から出してくださる? どうするかはあたくしが考えます」
「いいよ。順番に並べるね」
書棚の前に、どこからか机と椅子が現れた。
老人は立ったまま棚から本を取り出し、順に並べる。
少女は椅子に座り机から本を手に取り、順に読む。
その時間が永久に続くかと思われたころ、老人の動作がとまった。
書棚の陳列物がなくなり、手持ち無沙汰になったのである。
少女は黙々と読み続ける。
背表紙で飾られた豪奢な本がある。
紐で綴じられただけの紙の束もある。
1枚きりの書面もある。
少女は、机に乱雑に広げられた資料と向き合い、不屈の眼差しでそれを読む。
老人は、懸命な少女と机を挟んで向き合い、優し気な眼差しでそれを見守る。
その時間が永久に続くかと思われたころ、少女の動作がとまった。
「どこにも『カン』手がかりはないですわね」
「世界は広いからね。ワシの知らない大陸や国も、きっとたくさんあるんだろう」
「……あたくしが困っているのですし、アナタが何か良いお知恵を出しても良いのよ?」
少女は恨めしそうに老人をみた。
老人は愉しむように少女をみた。
「ははは。そうだね。探し物が見つからないときは、キーワードを変えるのがいいんじゃないかな」
「キーワードを変える? 『カン』を探すのをやめるということ?」
「何か理由があってその国を探しているんだろう? つまりそなたはすでにその国と『縁』を結んでいるはずだ。その縁から枝分かれした小さな情報を拾い集めて、違う角度から眺めてみると、もしかしたら糸口になるかもしれないね」
「『縁』ですか」
少女は首をかしげる。
言葉の意味は知っているが、老人の意図するところがわからない。
「そう、例えばその国の名前ではなく、文化や習俗について手がかりはないかな。なんでもない情報が大きな結果につながることもある。これは年寄の得意な昔話だが『某国に潜入した異国の密偵が、不意に数年ぶりに嗅いだ故郷の食べ物の香りに感動の涙を流して、怪しまれて正体を露見させた』というエピソードがあるんだ。……哀れな食い意地と侮るなかれ、食べ物の好みにも人の営みの系統があられる。そして食べ物というのは、地理や気候と密接に結びついている。もちろん、信仰や生活習慣、衣服、言語。……国を作るのが人である以上、人のすべての営みが国への手がかりになる。そなたが手にした『縁』のなかで、手がかりを手繰れそうなものはないかな」
「……驚いた。たしかに、あるわ、手がかり。……さすがね、お爺様」
少女の空色の瞳に、理解の陽射しが差し込み、尊敬をこめて老人をみた。
老人はそれを気持ちよさそうに受け止めたが、すぐに困ったように表情を変えた。
「褒めらるのは気持ちがよいものだが……白状すると、ワシも似たようなことを試みたことがあってな。いまの発想も人から教えてもらったものなんだ」
「見つかったの?」
「いいや、諦めた。ワシも知恵を絞ったのだが」
未練などない、とことさらにアピールするように老人は感情をこめずにいった。
少女も、応じる。
「……そう」
「だが、それはワシの話だ。そなたの物語ではない。それにそなた、ワシと同じ失敗をするつもりは毛頭あるまい? だったらうまくいくだろう」
「ええ、当然よ。アナタとは違うもの」
きっぱりと割り切る。
けれども拒絶ではない。
少女は敢然とした顔つきで椅子から立ち上がった。
老人は、寂しそうにたずねた。
「もう帰るのかい?]
「帰るわ。そろそろ朝ですもの」
「そうか、もうそんな時間か。ここにいると時間の感覚がなくってね……次はいつ来るんだい?」
少女は、言いたくないことを言うような顔で言う。
「しばらくは来たくないわね」
老人は、聞きたくないことを聞いたよう顔で聞く。
「……ここにくるのは嫌いかね」
「そんなことないわよ。ここもアナタもすごく好きよ。……ただ、ここに来ると、どうしても目覚めのコンディションがカエルのゲロ以下の味になるだけよ。だから頻繁には来たくないの」
「気の毒に……昔はそんなことはなかっただろうに、どうしてだろうね」
少女は両手で自分の身体を抱く。
傷口に触れて、痛みのあることを確かめるように。
「……昔はまだ子供だったから、違和感がなかったのよ。いまはもうダメね、身体のほうがいろいろ反応しちゃて、モゲそうになるわ。待っていれば落ち着くけど、それまではネズミのクソのような姿勢で横たわるしかないのよ。これって少なからず惨めよ?」
「すまないね。ワシが助けになってやれるのは、ここの世界だけだ。……といっても、ここの世界でできることも、ワシの知っていることを話したり、あとは棚から本を取り出すくらいだがね」
老人は納得したように深くうなずき、真摯な目で少女をみる。
少女は納得したように腕を緩めて、自分の身体の戒めをとく。
少女は老人に歩み寄って、頬にキスをした。
「とっても助かってます。あたくしがいまのあたくしなのは、お爺様のおかげよ」
少女のその言葉を耳にして、老人は何かを言いかけた。
言いかけて、言いあぐねて、迷って、言うこと諦めて、言った。
「またいつでもおいで。いつでもワシはそなたを歓迎するぞ」
そこはひとつの王国であったが、ただひとりの王国でもあった。
少女はその王国の住民ではないが、たったひとりの王の、きわめて希少な友人のひとりであった。
ユーリンは、窓枠から差し込む朝の陽射しで目を覚ました。
床に転がったままのだらしない姿勢で、新しい一日の訪れを迎える。
かつでセムトク村の集会場として使用されていた家屋は、現在は解放軍の参謀部が利用している。
昨晩、同室の関羽に啖呵を切って部屋を飛び出した以後、ユーリンは職場に戻って床に横たわって夜を明かしたのである。
屋根と壁のあるこの場所は、床材の固さを差し引いて評価したとしても、粗末な生活に慣れているユーリンにとっては安息の寝所といえた。
しかし、この日のユーリンの目覚めは、健やかさからは程遠いものであった。
こみ上げる嘔吐感と眩暈、全身を圧迫するような強烈な違和感、尊厳を掻きむしるかのような現実感が、ユーリンの表情をカエルのゲロのようなものにしていた。
「……うぅ……っ、うっへぇ、……今朝は、また……ヒトキワだな」
ユーリンは頭を抱えて、力なく背を丸めて縮こまった。
それはまるで、ネズミのクソのような姿勢であった。
部屋を照らす日差しが、次第に暖かくなる。
空が蒼く透き通った快晴であることが、床に寝そべるユーリンにもわかった。
しばらくすると、ユーリンの体調は『ヒトキワ最悪』から脱して、『だいぶ酷い』程度にまで回復した。
頭の靄が薄れて、思考が次第に明瞭になる。
非現実な幻影の残滓を退けて意識を現実世界に呼び戻し、今日のタスクについて思いを巡らせた。
(やること、やること……壊れた装備の廃棄手配、西の拠点に向けて輸送計画の作成、必需品買い付け用の現金出庫申請……あと何かフォルカさんが話があるって言ってたな、なんだろ?……あとは、魔獣討伐依頼の精査……グリフォンなんてそうそう出るもんじゃないと思うんだけどなぁ……あと、そのための人員アサイン、そんなところか。……輸送計画がいちばん大変かな。でもまぁ、なんとかなるし、へーきへーき)
解放軍の参謀部員としての直近の職務を総覧し、負荷を検討し終えたところで、ユーリンはいよいよ最重要の懸念に意識を向けた。
(……ウンチョー……怒ってるかな……)
身体を竦ませ、悶えるように床に自重を圧しあてた。
ユーリンは少しの間、自分の体重で自分の身体を圧し潰す自罰行為を試みたが、やがて成算がまったくないことを認めるに至り、脱力してあおむけに転がって腕で目元を覆った。
(あんな態度、とらなくてもよかったな……ふつうに朗報なんだから、安心させたげればよかっただけじゃん。なにしてんだろ、ボク……嫌われたら、どうしよう)
どよどよとした、どんよりメンタルで、ユーリンは落ち込んだ。
大抵の即物的な課題に対しては的確な最適解を導出できる頭脳を有するユーリンであるが、課題が自分のことに及ぶと途端に日頃の明晰さを著しく損ねる傾向にあることを、ユーリン本人はいまだ自覚していなかった。
そして、この類の課題の解決には、神代の夢見の叡智もすらも無力なのである。
太陽が高くなり、素肌が暑さを感じる時刻。
関羽はセムトク村の端の木陰で、空と山をにらみながら、護身用の細身の剣を傍らに転がし、座り込んで考えていた。
タジカン域東部の山脈のただ中の盆地にあるセムトク村は、周囲の遠景すべてが緑でおおわれており、いずれの方角をみても代わり映えのない風景が続いている。
関羽は、そのつまらない景色を睨むようにして、己と向き合う時間を過ごしていた。
(わからぬ。わからぬが、儂が悪いに相違ない。それだけは、わかる)
前夜のユーリンの態度を思い返していた。
ユーリンの発言の内容は理解できるものであった。
関羽の招いたエレーヌの不興が関羽の憂慮しているほどには深刻ではないらしいという報せは、関羽にとって喜ばしく、安堵できるものである。
理解できないのは、それを告げたときのユーリンの態度である。
ユーリンは、明確に関羽に対して憤りを示していた。
それが何に対しての憤りであるのか、関羽には見当すらつかないのである。
(おおかた儂の愚かさが招いたことなのであろう。……またしても、またしても、か。……無上の師を得て、間近にて人心の機微を学ぶ機を天より与えられているというのに……。儂は、いまだに変われぬのか)
関羽の胸中に暗澹たる失望がわきあがる。
荊州失落―――己自身に対する深い後悔を伴った、苦しく、つらい味わいのある酸味が口中で舌を焼いた。
(人は、容易くは変われぬものか。それでも儂は、儂は、いまさらではあるが……)
その時、関羽の耳が異変をとらえた。
戦塵にまみれた生涯を送った関羽が聞き違えることのない、音である。
「馬か……こちらに向けて駆けておるが、脚が重く、乱れておる。これは、馬に無理を強いて走らせておるな……変事か!」
関羽は咄嗟に護身用の細身の剣をつかむと、セムトク村の入り口から飛び出して、遠方に延びる道を睨んだ。
推定年齢20代、全盛の身体の関雲長の視力は、その光景を容易にとらえた。
目を凝らしてみれば、彼方には馬がいる。
こちら向けて全力で疾走している。
馬上の騎手の顔は蒼白である。
身体のあちこちに傷があり、特に腹部からの出血が激しく、衣服を赤黒く染めている。
そして、その騎馬を追うように、後方には別の影があった。
馬の様相から察するに、ソレから逃れるために脚を酷使しているのは疑いない。
関羽は、ソレを観た。
ソレは関羽の知識にはない、奇妙な生物だった。
(あれは、獣……いや、鳥か? 面妖な風貌だ)
鷲のような顔であるが、虎のような四肢があり、鋭い爪も有しているが、背中には大きな翼もついている。
実際に地を駆けながらときおり羽ばたいて、滑空する鳥のように飛行している。
鋭くおおきな嘴を威嚇するように打ち鳴らしながら、鱗のついた尾をうねらせている。
尾の先端は、蛇の頭部のような口と牙がある。
図体は馬よりもはるかに大きく、牛に牽かせる車よりも目方がありそうである。
関羽は大音声で叫び、遠方より懸命に駆け寄る騎手に問うた。
「如何に!?」
騎手は、セムトク村の入り口に立つ関羽の姿を認めると、すがるように叫んだ。
「―――っ、助けてください!」
「心得た」
関羽は道を騎馬に譲って脇に移動し、護身用に携えていた細身の剣を構えた。
「いささか心もとないが、1体のみであれば、これで事足りよう」
騎馬は減速せずにそのまま関羽の横を通りすぎた。
疾風とともに血の臭いが、散った。
関羽は、駆け抜けて去った騎馬には目もくれず、前方のソレと相対した。
ソレは、四肢で地を駆けている。
走る様子は、まったく虎と同じである。
しかし、ソレには鷲のごとき嘴と、翼があった。
太く強靭な後ろ足で地を蹴って跳躍し、翼を広げて上方から滑空し、前足の爪をむき出しにして、関羽めがけて突進する。
大きな翼を2度羽ばたかせて、勢いを加速させて襲いかかってきた。
(羨ましいな)
関羽は、ソレの翼が空をつかんで飛ぶ様子をみて、呑気な感想を抱いた。
そして、構えた細身の剣を一閃する。
それと同時に関羽は身体を素早く横転させ、ソレの前足の爪をかわした。
絹地を引き裂くような悲鳴が、空を衝いた。
―――ギィ、エエエェッ!
ソレの大きな嘴から、苦鳴がもれる。
関羽の一閃は、ソレの片翼を根本から切断していた。
バランスを失ったソレは墜落し、頭部をしたたかに地にうちつける。
それでもすぐに虎のような四肢で身体を支えて起き上がり、己の背中から噴出する血しぶきに怯むことなく、関羽に向けて殺意の眼差しを向けた。
前足の太い爪、人間の腕よりも長く鋭い嘴、蛇のような牙のある尾―――ソレは翼を失った今も、人間を仕留めるのに十分すぎる武を有していた。
「美事な闘志よ。恨みはないが、儂はその方の敵である。美しき者よ、いざ尋常に参られよ。この関雲長の武が迎えようぞ」
関羽は、ソレを美しいと感じた。
美人や宝飾に対して抱くのとはまったく別種の基準―――戦人としての審美眼が、生物としてのソレの造型を高く好意的に評価したのである。
―――全身之戦意の化身よな
ソレは、ひたむきな存在であった。
関羽は、それを眩しく想い、尊敬した。
関羽は、動かない。
立場上、ソレを敵であると見做してはいたが、憎しみはないのである。
もしもソレがこの場から逃げ去ることを選ぶのならば、関羽はソレを追わないつもりでいる。
故に関羽からソレに斬りかかることはない。
ただ迎え撃つのみである。
数秒、静寂が訪れた。
関羽はソレを睨み細身の剣を構え、ソレは関羽を睨み前脚の太い爪を構えた。
関羽の後方、セムトク村で喧騒がおこった。
負傷した騎手の到着を驚きで迎えたのである。
関羽の五感の一部が、ほんの僅かに後方に意識を向けた。
その由々しき緩みが惹き金となった。
ソレは、後ろ脚で地を蹴り払い、関羽に跳びかかった。
両の前脚を振りかぶり、嘴にも力を溜めている。
己の翼を斬り落とした関羽の剣に対する怯えは、まるでない。
たとえ両前脚を斬り落とされようとも、残る嘴で関羽の心臓をつらぬくのみ―――その揺るぎない覚悟が込められた、決死の跳躍であることを、関羽は悟った。
関羽は細身の剣を振り下ろし、ソレの右前脚の関節部分に刃を通し、両断した。
ソレの鋭い嘴が、まるで槍のように突き出されるのを、後ろに跳びのいて回避しつつ、振り下ろした剣を返して斬り上げ、ソレの左前脚の筋を断った。
ソレは前のめりに地に伏し、喉を唸らせた。
ソレは四肢で身体を起こすこともできなくなった。
関羽の身体はソレの左前脚の届く距離にあるが、ソレは爪を振りかざすこともできず、嘴のある頭部を持ちあげることも叶わない。
勝敗は決した。
そして、その程度の事情で殺意が潰えることなど、ない。
ソレは、蛇のごとき頭部をもつ尾を旋回させて、関羽の喉元を狙った。
関羽はそれを正面から真っ二つにして、ソレの最後の咆哮を受け止めた。
「さらば」
関羽の細身の剣が、ソレの鷲のごとき頭部を、斬り落とした。
関羽の胸中に、一抹の寂寞が去来した。
しかしそれをすぐに振り払い、関羽はセムトク村に戻る。
「……さて、あの騎兵の様態は……?」
関羽はソレに背を向けて、足早に駆けた。




