38. 光の使徒ユーリン(8) 約束だから
その夜、途方に暮れた関羽は、ユーリンに相談した。
しょぼくれて露骨に気落ちしている関羽の様子を見て、はじめユーリンは覚悟を決めて戦々恐々と相談に応じたのであるが、その内容が次第に明らかになるにつれて、笑いをこらえて腹筋を疲弊させることになった。
日中、関羽がエレーヌと出会い、惹かれ、歓談し、最後にはソデにされた叙事詩を聞かされたユーリンは、反応に悩んだ。
腹筋は限界に近付いており、鍛えぬいているはずの頬の筋肉も痛みを訴えつつある。
笑い転げて関羽をオモチャにしたい誘惑にかられたが、関羽の落ち込み様が激しく深刻であるため、それはできない。
ユーリンはせめてもの誠意として、関羽の浮気に拗ねたような態度を示してお茶を濁した。
「浮気の首尾がいまひとつだったことを、わざわざボクに相談するかな? 誠実さはウンチョーの魅力であるとしても方向性が未来志向だよ。現代の倫理観じゃ支持率低いんじゃない?」
話題をくだらない言い合い路線に転換できれば儲けもの、との算段である。
このユーリンの捻くれた優しさに基づいた提案は、関羽の沈痛な声によって棄却された。
「儂、どうすればいいんじゃ?」
「ボク、どんな反応すればいいのさ? まぁ、フラれたんじゃない? ……落ち着いてウンチョー、部屋にカビが生えちゃうよ。まだそうとは限らないよ、きっと、そうであるべき現実も可能かもしれない、前向きに前途を洋々しようよ、致命傷は一度だけとは限らないじゃない」
雨季の曇り空のような暗褐色の湿り気が関羽から漂い始めたのをみて、ユーリンはあわてて意味不明な言葉を並べて関羽を励ました。
「エレーヌさんでしょ? 知ってる、知ってる。ていうか有名人。とっても人気あるもの。ウンチョー、覚悟ある? 競争、激しいよ。……ていうか、刺されるならどこがいい? 大事なことだから2人でよく話し合って決めておこう。ボクとしては背中よりも正面から脇腹狙いのほうがロマンチックかな、って思うんだけど」
順手で何かを握った形で拳を固め、何かをぷすぷすと刺し貫くように腕を前後させて、ユーリンは何かの素振りを始めた。
「さぁ、ウンチョー、キミの希望を聞こうじゃないか」
「儂、エレーヌ殿に謝りたい」
「そっちじゃないよ!? でもいいさ、 だったら付き合おうじゃないか! まずはエレーヌさんに絶対に近寄らないこと、約束したまえ、誓いたまえ、速やかにだ」
「謝りたいんじゃが」
「ボクの話を聞けぃ、この誠実な浮気者がぁ! ……ウンチョー、これは『そういう』状況じゃないんだ。キミがエレーヌさんに何かアクションすることが許される状況じゃない」
「しかし、それでは埓があかぬ」
「埓をあけようなんて、不埒な欲望に身を委ねちゃダメだよ。謝りたいってのはウンチョーの希望でしょ? エレーヌさんは謝ってもらいたい、と思っているわけじゃなさそうだ。ウンチョーの観察眼を信じるならば、だけど……まぁ信じよう、コレはキミが主役の物語だからね。かくあれともあれ、女性が拒絶の態度を示したのなら、男の側はまずは退くしかない。どれだけ悔しくてもね。ここは用心しないとだよ」
「そう……であるのか?」
「ご婦人の立場になって考えてみなよ。ウンチョーには、腕力ではぜったいに敵わないからね、存在自体が恐怖の源泉だよ。ウンチョーだってむき身の刃物が枕元に転がっていたら、たとえ敵意を向けられていなくても怖いでしょ? 近くにあることがダメなんだ。男性側の人格や意図の問題ではなく、先天的な腕力の差なんだ。有利の分だけ、男性が譲らないとね」
ユーリンは言葉を区切り、結論を強調づけた。
「男性側が、『譲りにゆずって配慮してしまくってしつくし』て、ようやく女性からすると安心できる存在になれるんだ。親しくなるのはそのあと段階だよ。まずはむき身の刃を鞘に収めなきゃ……別に変な意味じゃないよ。別に変な意味でもいいけど」
「『また遊びにいらしてね、本当よ』って言われてるんじゃが」
「ウンチョー、それ、信じちゃダメだよ。いや、ほんとほんと……たしかにボクはキミをイジメるのは好きだけど、いまはイジメてるわけじゃない。……とりあえず、近寄らないことだね。気をつけてね、そこの立ち回りを間違えると、『失地不可避回復不可能』で『典型的なピンチの窮地』だよ? 絶対にエレーヌさんにウンチョーの姿を見せちゃだめだ、そのように配慮すること、いいね。まずは『あなたの意思を尊重して身を慎むことができる男ですよ』と信じてもらわないと、何も手が出せない。待ちが最善だよ」
「しかし、いったい、いつまで」
「それはウンチョーがどうにかして見極めるしかない。エレーヌさんのご迷惑にならないカタチで、キッカケがあればいいんだけど……」
「辛いんじゃが、苦しいんじゃが」
「わかった、なんとかする。もしもキッカケをつくれる状況になったら、ボクが局面打開の手を打つよ。とにかく今は待ちしかないから、待ちなさいな。ボクを信じろ……姑息な知恵を効かせたら天下でもソコソコなクオリティさ。必ずもう一度、ウンチョーとエレーヌさんが自然に会話できる機会をつくるからさ」
「なんで、おぬし、そんなに頼りになるんじゃ?」
「そりゃ助けるよ。だってウンチョー、戦い以外は基本ヘタレじゃん」
ユーリンの痛撃は関羽の胸をえぐいくらいにえぐったが、もはや今日の関羽に痛みは通じなかった。
関羽はすっかり自信を失って心の手綱を手放して迷走しているのである。
手厳しくも適格な助言を与えてくれるユーリンに、感謝していた。
そもそもユーリンの手厳しさが関羽自身の未熟の裏返しであることを、関羽は十分に理解していた。
「……然り」
「それで、肝心の話に戻すけどさ、ウンチョー、それはよもやまさかの本格的な浮気なのかい? それとも遊びでエレーヌさんに粉カケたのかい? どっちの理由で刺されたいんだい? 前者と後者で刺す場所と回数が変わってくるよ?」
意味深な腕の前後運動をアピールしながら、ユーリンが友好的であるかのような笑顔をみせた。
関羽としては、浮気というキーワードには触れず、ただ実直にエレーヌに対する素朴な思慕を打ち明けた。
「……深く考えてはおらぬのだ。ただ、儂の言動がエレーヌ殿を傷つけてしまったのなら、地に伏してでも陳謝したい。彼女の心の温かさを、儂のようなつまらぬ男が損ねることがあってはならぬと感じておる。エレーヌ殿には、より多くの幸を手にしてほしいと願っておる」
「ちょっ、それ、ガチのヤツじゃん。そうなの? ねぇ、ほんとにそうなの? ……ていうか、ウンチョー、年上、好き?」
「年上? ……そうか。うーん、あまり意識しておらなんだ」
実際の成熟度はともかくとして、関羽の精神年齢は老境のど真ん中である。
そんな関羽にとって、30代中頃とみられるエレーヌは、つぼみとしての儚い美しさを超えた花盛りの妙齢に感じられるのである。
しかし、そういう事情をしらないユーリンにとっては、20代の青年期である関羽がはるか年上の熟女に懸想している光景にしかみえないのである。
「ふぅん」
興味のなさそうな口ぶりのなかに、煮えたぎる激情を仄めかして、ユーリンは穏やかに聞きとがめた。
「そうなんだ」
すっかりエレーヌのことで頭がいっぱいの関羽は、ユーリンの声が真冬の氷柱よりも冷たく尖っていることに、気がつかなかった。
「ボク、もう寝るね」
ユーリンはそう言って寝台に潜りこんでふて寝を試みたが、まったく眠気を感じない。
エレーヌが関羽よりもひと回り年長者であることを関羽がまったく意に介さなかったという事実が示すところに、ユーリンは動揺していた。
(年齢差を意識すらしてなかったって、それはつまり、完全な年増趣味ってことじゃん!? え? なに目当て? 包容力? 要る? ウンチョーに包容力効くの? 優しくぎゅっとしたら効くの? 求めてんの? そういうのを、ウンチョーが? なに欲しさ? なにそれさすがに解釈違くない? ヘタレかわいい通過してんじゃん?)
悶々として寝台に転がるユーリンをよそに、関羽はいまだ自分探しの思索に沈んでいる。
そんな関羽の姿を眺めて、ユーリンはむくれて膨らんで苛立ちを覚え、心を萎らせて落ち込んだ。
(もう知らない、勝手にすればいいじゃん?)
ユーリンはすっかり機嫌を損ねて、そっぽを向いた。
―――ボクとの仲のことがいずれエレーヌさんの耳にも入るから、発展の見込みはたぶん無いよ
という残酷な事実をいつ関羽に伝えるべきであるか、ユーリンは悩むのを放棄した。
翌日、ユーリンは厨房を訪問した。
むろん欠食児童として飢餓解消を目的としたのではなく、偶然にも参謀部のスタッフとして厨房を訪問せざるを得ない仕儀が生じたためである。
———あれ? フォルカさん、ここ、ここ。この食用塩の在庫、ここの現物棚卸って、前回の集計からずいぶん期間が空いてますよね。いや、空いてますって。……でもボクは不安です。なのでボクが厨房に確認にいってきますね。……いえ、ボクがいってきます。いってきますから。……今日、いまから行ってきますよ、いえ、忙しくないです、それじゃいってきます
組織が保有する資源の管理は、参謀部の最重要の任務の1つである。
総人員1000名を超える解放軍『至高なる天空』の有機的な活動を可能にするために、物資の需要や実際の出費、流入量や在庫管理、輸送計画とその手配などに緻密な頭脳労働を要する。
現在のユーリンの主な役割は、この物資資源の管理、並びに関連する手配業務全般である。
穀物や塩などの必需品のほかに、衣類や日用品、武器防具や医療薬品、輸送力としての荷車や馬の稼働状況までをも網羅的に数値化して掌握し、無駄なく過不足なく、必要な物を必要な量だけ必要とする場所に存在させること———それを維持するために心血を注いでおり、ユーリンの加入以前はこれら業務のすべてをフォルカが担当していたが、少しずつユーリンがそれを引き受けてフォルカの負担を減らしつつあるのである。
当然、ユーリンが関羽の恋愛相談をうけた翌朝に厨房を訪問したのも、その役割の一環であることは疑いない。
ユーリンは、参謀部のある集会所から厨房用の家屋まで駆け足で飛び込むと、食材棚の在庫には目もくれず、エレーヌをつかまえて話しかけた。
「こんにちは、エレーヌさん」
肩で息を吸いながら駆け込んできたユーリンに、エレーヌは驚きを隠さなかった。
いつものように栗色の髪を後ろに束ね、白い調理着を身にまとっている。
「あら? ユーリンさん、どうなさったの?」
「……えーと、その……今朝のごはんも美味しかったです……と、それをお伝えしたくって、それで、ボク、きました」
ユーリンは困ったように目線を泳がせ、頬を指で搔きながら、いつになく不自然な調子で会話を切り出した。
厨房を訪問した表向きの名目のことは、すでに頭から消えている。
「まぁまぁ。そんな肩で息を切らして。うれしいわ、ありがと」
エレーヌは、けぶるような笑みとともに、ユーリンの言葉を慎ましく受け止めた。
「じゃあ、これはお礼よ。コレもお口に合うと良いのだけれど」
エレーヌは棚の水差しから液体を杯に注ぎ入れ、ユーリンに差し出した。
透明な、けれども微かな濁りのある液体が、水面をゆらめかせている。
エレーヌの配慮によって差し出された杯をみて、なぜかユーリンはそれを挑戦的だと感じた。
「……っ、……では、遠慮なく……」
受けて立つ、という心境で勇を奮い、ユーリンはそれを口に含んだ。
たちまち味覚の混乱をきたした。
ほのかに香り立つ柑橘類の爽やかな酸味を、甘さだか塩気だかわからない混濁した刺激が際立てていた。
口に含むと味わいに迷い悩み、飲み干すと喉の心地よさが立ち昇る、いままでユーリンが体験したことのない、なんとも奇妙な飲み物だった。
しかし、まるで杯から直接生命力を補給しているかのように、身体にはすんなりと滋養が取り入れられるのが実感できた。
先刻までの方向性の定まらない感情の奔流は、ユーリンの中から消失していた。
素直に堪能して、感想がぽろりとこぼれ出た。
「むはー、これは『ふしぎ美味しい』ですね、なんとも名状しがたい、それなのに身体にしみ込む、優しそうな風味で……」
ユーリンはまじまじと杯を眺めて、ふしぎ美味しい液体を興味深く観察した。
そして、コレに通じるしびれるような衝撃を、少し以前にフノーゼ村で堪能したことを思い出した。
「これ、もしかして『陽子Note』ですか?」
エレーヌは驚きに目を見張り、そして嬉しそうに顔をほころばせた。
「……すごいわね、ユーリンさん……『スポドリ』がヨーコ様のレシピだって気づいたのは、あなたがはじめてよ。ヨーコ様がお伝えくださったスイーツって、どれもみんな気品があって華やかだから、これはちょっと印象違うのよね。でも、わたしはこういう素朴な一品にこそヨーコ様の魅力がつまっていると思うの。だからこれはあえて内緒にしてるんです。きっとヨーコ様はみんなが『スポドリ』を身構えて飲むことなんて、お望みではないから……」
そこでエレーヌは言葉を区切った。
わざとらしく咳ばらいをして、にじみ出た幾ばくかの寂しさを打ち消すようにおどけるような調子をつくる。
「……では、お待ちかねの種明かしとお約束のお時間です———ただいまご賞味いただいたのは『スポドリ』。レモンの皮を沈めて香りをつけた白湯に、テンサイの煮汁と塩を加えました。喉の潤いになって、元気がしみこむでしょ? わたし、これは慈しみの味だと思っているの。大切なひとの身体をいたわって、そっと護るための優しさを溶かしたような香りでしょう? ……なんてね」
『なるべくなるだけ、誇らしげに高らかに』エレーヌは『スポドリ』を紹介した。
古の聖女ヨーコが提唱したお約束条項集の記述『スイーツを供したなら、必ずそれの魅力を伝えなさい! なるべくなるだけ、誇らしげに高らかに』に準じている。
しかし、そこに高慢な印象は、まるでない。
希少な陽子Noteの履修者である自身を誇るのではなく、調理人として美味しいものを提供できた満足感がエレーヌから漂っているためだ。
エレーヌは、ユーリンが『スポドリ』を美味しいと評したことに、ただ一心の喜びを抱いているのである。
「気に入ってもらえてよかったわ。いまのあなたみたいに、『気持ちよく飲み干して、なんだか不思議そうな顔をして、元気になってもらう』こと……それがきっとヨーコ様の想いなんです。……といっても、あなたは元気すぎるみたいだから、少し落ち着くくらいの方がいいかもしれないわね」
ユーリンの胸に、じんわりと暖かいものが広がった。
古の聖女ヨーコ———異界の賢人、聖帝の祝福者、豊穣の神アマサオンの寵人……多くの異名と逸話を有する偉人であるが、最も人々から愛され親しまれているのは『スイーツの創始』という歴史的な業績である。
『陽子Note』に記されたスイーツを愉しむことは天下万民にとっての至上の歓喜であり、数多のスイーツに込められた甘美な技巧を噛みしめることで、人々は聖女ヨーコの慈愛を知ることができるのである。
神代の聖女の秘跡が、エレーヌ一個人を通して、いまユーリンの手元に再現されている。
その神秘的な光景を目の当たりにして、ユーリンは———不覚にも感動で目頭が熱くなった。
(あはは……すごいや……)
ユーリンは脱力して現実を受け入れ、心中でつぶやいた。
スイーツは万民のためのものであるが、『陽子Note』の履修が許される者は、多くない。
聖女ヨーコの手による神代の大魔法『法魔法:閲者聖限』と『法魔法:使途塞縛』の二重制約が施されており、時空を超えて『陽子Note』の履修資格者を厳選している。
つまり、聖女ヨーコに認可された人間のみが、『陽子Note』の認められたページのみを読解し、その手でスイーツを作成することが許されるのである。
ユーリンは過去に『陽子Note』の写本を手に持ったことがある。
だが、それだけだった。
それだけによりいっそう、聖女の愛を再現できるエレーヌの御業に、精神的に打ちのめされた。
「……すみません、エレーヌさん。とつぜん押しかけて、こんなものまでいただいて……うぅっ……んー、……ええい、『恥と迷惑はノリとついでで掻き捨て』るもの……失礼を重ねますね! エレーヌさん、いまおいくつなのか……お伺いすること、できちゃったりして……?」
ユーリンとしてはヤケクソの心境で『なるべくなるだけ、精いっぱいの見栄をはって』勇気を奮ってエレーヌに質問したが、やはりみじめで卑屈な印象はぬぐえなかった。
エレーヌは、目をぱちくりとさせて困惑を表した。
ユーリンの問いが、唐突である上に脈絡の欠片もなく、意図もわからない内容であったためである。。
ユーリンは、予期されたとおりのエレーヌの反応を真正面から受け止めて、必死に目つきだけでエレーヌに回答を懇願した。
エレーヌは穏やかな表情のままユーリンを少しの間、観察し、理解に至った。
「……年齢……もしかして、ウンチョウさん?」
「え? ……あ、はい。そう……です……やっぱり、わかっちゃいます?」
「さすがにわかりますよ。わたしのイジワルにウンチョウさんが困っているのをみかねて、ユーリンさんが様子見にきた……そんなところかしら?」
「……えーと、うん、そう、そうなんです」
エレーヌの推察は大筋では正しかったが、ユーリンの賢明さを過大評価して誤解していた。
しかしそこは話の本筋ではないため、ユーリンはあいまいに首肯した。
「ご認識のとおりです。すみません」
「謝らなければいけないのは、実はわたしのほうなの。ウンチョウさん……とっても素敵で頼りになりそうな方でしたけど……なにかといろいろ心配だと感じたの。だから強引にわたしの流儀を押し通しちゃいました。ショック療法ね。強引だったとわかってるんだけど、ウンチョウさんとは良いお付き合いにしたいから。……ウンチョウさん、自分のことに気づいてくれるといいのだけれど……」
エレーヌは頬に手をあてて、心配そうに考え込んだ。
眼差しは優しさにあふれており、真剣に関羽の行く末を憂慮しているのが、ユーリンにもわかった。
「……きっと気づくと思います。ウンチョーはダメなヤツですけど、すごいヤツです。……ご心配には及びません」
ユーリンは、一刻も早くこの場を離れたいと思った。
エレーヌの目の届かぬところに、我が身を隠してしまいたかった。
ユーリンは焦燥を堪えて努めて穏やかな所作を保ち、エレーヌに退居を告げる。
「ボクはこれで失礼します。大変お邪魔を致しました」
「またいつでもいらしてね」
「きっとお言葉に甘えさせていただきます。……あと、チョコレートクッキー、ありがとうございました。最高のスイーツでした」
内心の荒廃を悟られぬように、ユーリンは微笑を湛えた。
エレーヌはユーリンの焦燥に気づく様子もない。
ユーリンの観察眼は、このひとときに交わしたエレーヌがすべての言葉が、彼女のまごころのみから発されたものであることを、認めていた。
しばらくユーリンは殊更にゆっくりと歩き、厨房から見えない距離まで進むと、まるで自分が多忙な身の上であることを急遽思い出したかのように勢いよく走り出した。
その日の夜。
宿舎の部屋の内で、ユーリンは関羽の胸ぐらをつかんで凄んだ。
「ええい、ボクとキミの間には、盟約がある。キミほどの男と対等の誓いを交わせたことは、ボクの生涯における最大の幸運であると、改めて認めようじゃないか」
裂帛の気合を全身からあふれさせて、ユーリンは関羽を賞賛していた。
関羽はとつぜんの展開に状況を飲み込めず間の抜けた顔をさらした。
夜遅く参謀部から帰ってきたユーリンが、いつものように机で書物を読み進めていた関羽を突然羽交い絞めにし、呆気にとられる関羽をつまみ上げて引きずって部屋の中央に正座させたのである。
「そなた、どうしたのだ?」
関羽の発した当然の素朴な疑問は、ユーリンの怒声にかきけされた。
「聞けぃ、この意気地なしめ。だから……だからボクが真実を告げてやる、あの夜に誓ってボクはキミに嘘はつかない、心して聞きやがれ……残念ながらまだキミはフラれてはいない、いずれすぐにフラれるとしてもだ! ただしまだ水準に達していないッ! エレーヌさんの出した試練を乗り越えたまえ。それができないなら、大人しく浮気は断念しろ。わかったら今日はサヨナラだ、バーカ!」
一息に言い放ち、ユーリンは関羽を放り棄てて部屋を出て行った。
荒々しい足音が遠ざかり、部屋には静寂が戻った。
残された関羽はひとり、わけもわからず正座を続けたが、ユーリンはその夜は戻ってこなかった。




