36. 光の使徒ユーリン(6) 関羽の趣味
解放軍の本拠地、訓練用の広場。
定期軍事教練の冒頭において、ユーリンとエルマンの個人模擬戦闘が展開されたが、大方の予想通り、体躯に優れるエルマンが小柄なユーリンを圧倒し、ユーリンは負傷して休憩処分となった。
まだ教練は始まったばかりであり、広場のそこかしこで喧騒がおこっている。
しこたまにエルマンに打ちのめされたユーリンは、まだ広場の隅に座って、ぼんやりとしている。
傍らには関羽が立ち、慰めるでもなく、励ますでもなく、ただ立っている。
2人とも無心で空を眺めていた。
交わす言葉を探す気もなかった。
それで、不快も不満もなかった。
関羽もユーリンも、その時間に納得していた。
しばらく放心して空を眺めていたユーリンが、弾むように立ち上がって、自分の頬をうった。
強引な行動によって感情の切り替えを意図したものであるが———
「……痛っ」
先刻の模擬戦闘で地面に横転させられた際に顔に負った擦り傷を、自分の手のひらでしたたかに打ち据えて、もんどり打って、また座りなおした。
広場は喧騒に満ちているが、関羽とユーリンには再びの沈黙が訪れた。
ひりひりと焼けつくような痛みに気がつかぬフリをして、ユーリンは言った。
「今日の前進は著しいよ、大戦果と称していい。ボクはボクを讃えよう」
ユーリンの瞳に涙が浮いているのは、強いて負け惜しみを口にした口惜しさによるものではなく、ただ単に頬が痛かったためである。
「ボクの個人的な武芸の力量については……まぁ、できる範囲で鍛錬もできたし、何よりウンチョーから太鼓判を押されたことが大きい。おかげで『すっぱりさっぱりばっさり』で諦めがついた。やっぱ『無いよりマシ』が妥当なとこだね、わかってはいたけれども……ボクはそんなのばっかだな」
きっぱりと、ユーリンは言い切った。
自分に武の才はない———と。
それで気を悪くする様子もなかった。
快晴の蒼天ような目元には、いつもの理知の光が戻っている。
「そして本命のほう。狙いは押し通せた。自己紹介としては『まずまずの、まず』さ。こういう場合はトップと『がっぷり四つで組み合う』に限る。……エルマンさんが『わかってなくても、わかってくれる』タイプのヒトで本当に良かった」
関羽は深くうなずいた。
「やはりそういう狙いか。納得だ。新参者が己の地歩を手っ取り早く固めるには、頭目と直に談ずるのが最短だ。この場合はエルマン殿と正当な比武に臨むことだな。勝敗は問題ではない。そなたの心胆を示すに、十分であった。はじめに余興めいた雰囲気をつくったのは、新参者の不躾な挑戦を抵抗なく皆に受け入れさせるための仕込みだな」
「さすがウンチョーご明察……まぁこれで、ボクにカキタレを夢みる純情系不良男は散らせるでしょ。この警告が響かないようなら、あとは血をみるしかないからね、できれは避けたい……男の血は臭いから嫌いなんだよ……」
ユーリンは、楽し気に冗談を言うような口ぶりで、空気を刺すような殺気を放った。
表情だけは爛漫たる笑顔であるところが、よりいっそうの悲壮感を際立てた。
「やはりそなたも限界だったのではないか」
そんなユーリンをみて心配そうに関羽が言ったが、ユーリンは勝ち誇ったように言い放つ。
「『漏らす』のと『ギリギリ耐えた』では天地の差だよ。糞と便所の話と一緒さ……だからこれはボクの勝ち」
ユーリンの悪戯な笑声につられて、関羽も苦笑した。
湿った抑圧を日干ししてひとしきりの爽快感を味わった後、ユーリンは即物的な話を進めた。
「そんじゃ、仕上げといきたい。ウンチョーの協力がほしい」
「儂の助力か。やぶさかではないが、いまさら必要かな」
「そんなツレないことを言わないで。あっち、あっち。ほら、ほら。あれ、あれ」
ユーリンは広場の一角を指した。
その先では、10名ほどの軍団員がかわるがわるに休息をとりながら、汗をぬぐって、剣を振っている。
刃を潰した訓練用の剣で、四足獣の造形に見立てて組み上げられた丸太を殴打する稽古に取り組む姿があった。
剣や槍を扱う上で重要な基礎鍛錬である、打ち込みの行である。
重厚な丸太を縛って組み上げられた模型は非常に頑健であり、未熟者が武具で切りつけた程度ではまったく削ることもできない。
反対に、打ち込んだ側が手首や肘を負傷することもある。
丸太の厚みや武具の硬さの衝撃に屈することなく、十分な膂力をこめて武器を振るうことができれば、まずは武器を振れていると評価してよい。
今、その打ち込み行に臨んでいるのは、明らかに未熟者である。剣を握る手があまく、殴打の衝撃を恐れて腕を振り切れていない。足腰の据わりも甘く、ただ丸太を叩くだけで精一杯という様相である。
「『これみよがしのお手本』ってくらいに『これみよがし』に手本をみせてきてよ」
「……容易いが、そんなことでよいのか?」
「ケガ人を出すわけにはいかないからね」
「筆頭の言とは思えば趣があるな。まぁ、よい。心得た」
関羽は鷹揚に承諾した。
関羽がそこに歩み寄ると、自然と場が静まった。誰が指示するでもなく、皆が丸太を叩く腕をとめて、粛然たる面持ちで関羽を迎えた。
関羽の今の身体年齢は、20代前半頃と推定できる。青年期といってよい。未だ功名の欠片もなさそうな、若僧相当の外見である。
しかし、関羽が身にまとう威風は、少なくとも武の空間においては、絶対の畏敬を得る。凄惨な乱世の混乱期を駆け抜け武名を積み上げた、古の大豪傑の貫禄が滲み出るのである。
「……儂も、よいかな?」
関羽が、努めて柔らかい声を発した。万騎を率いる大将軍の格を隠し、ただの無名な一武人としての立場を強調した雰囲気である。
緊張して硬直している人々の中では最も年長者らし人物が、口中の突然の渇きに舌を慌てさせながらも、たどたどしく応じた。
「あ、あぁ……アンタも、やって……みますかい?」
「おお。ありがたい。しからば、しばし場をお借り致す」
にこやかに関羽が礼を述べ、訓練用の剣を握って、獣型に組まれた丸太の前に立った。
たちまち人波が退いて、関羽から離れた。
漂い始めた威圧感に気圧されて、腰が逃げ出したのである。
すると、やや離れたところで素振りや打ち合いをしていた人々も、異変を察知する。
沈黙が輪のように拡がり、関羽に集まる視線が増える。
突如として訪れた静寂が、また新たな興味を招き、それが声なき呼び掛けとなって、訓練用広場の端まで行き渡った。
いまや、招集された軍団員の全員が、手を止めて関羽を見ていた。
関羽は、己を取り巻く周囲に様相に気がついていたが、関心は払わなかった。
ただ大地の上に立ち、握る剣を己と一体化させるように気を通し、打ち込み先の丸太の1点を見つめた。
この時、関羽は、己の全身を構成する骨の本数が、わかった。
剣を振り上げるために伸縮する筋肉の躍動が聴こえた。
これから振り下ろす剣が、これからどうなるか、視えた。
関羽は静かに剣を振りかぶり、上段に構え、溜めた。
(久しい感覚だ。……望んで得た姿形ではないが、心躍るのはやはり否めん。こうも研ぎ澄まされるとは……若き身体というのは、これほどであったか)
虚心であった心の内に滾るものが芽生えつつあるのを自覚した瞬間、関羽は溜めを解き放った。
「―――ッ!!」
時を破裂させるような一閃であった。
陶器を砕いたような悲鳴が、打ち込まれた丸太から上がった。
丸太に亀裂が走っていた。そして―――自重でそれが緩やかに拡大する光景を、皆が沈黙のまま見つめた。やがて四足獣の足を模した支えが、崩れ、壊滅した。
巻き上げられた砂埃の臭いだけが喧かった。
「すまぬ。また損ねてしまった」
ほとんど直角にねじ曲がった訓練用の剣をみて、関羽はひとまず、謝罪した。
エルマンや軍団員たちは信じがたいものを目の当たりにしたショックで言葉もなく立ち尽くし、ただ呆然として砂埃を吸っていた。
ユーリンは砂埃をしっかりと避けたうえで、「してやったり」と大満悦であった。
その日、ユーリンはずっと上機嫌だった。
訓練を終えた後、ユーリンは本来の所属である参謀部に戻り、慌しく日暮れまで精勤に励んだが、宿舎の部屋に戻ってきたときも、満面の満足が満タンであった。
エルマンの配慮によって手配された2人部屋には机と燭台が備えられており、それは主に関羽が読書のために使用しているのが常であった。
「やっ。今夜もたっぷり精が出るねぇ。……なんつて」
「……そなた、ケガの具合は良いのか?」
机に広げた書物から目を離し、関羽はユーリンを迎えた。関羽の参謀部への立ち入りは認められておらず、関羽だけ先に部屋に戻って読書に励んでいたのである。
「痛いだけでケガじゃないって。へーき、へーき。ていうか、痛みなんて吹き飛んじゃったし、忘れた、わすれた」
「上機嫌であるな。そうでないよりも良いことであるが」
「あっはっは。あの大きめの薪割りはサイコーだったよ、ウンチョー。みんなすっかりビビっちゃって、もう快適さがたまらないよ。わかりやすさって、大切だね。……さっきそこで例のスケベ野郎と不覚にも目が合ったんだけど、あっちの方から目を逸らして逃げていったよ。笑った、笑った。いやぁ……『魔羅の付け根』にも知能はあるんだね、意外だったよ」
「痛快を得たのなら重畳だ。これまでの不快を鑑みれば、多少のことは許されよう。……ときにユーリン、この書物の記述について、そなたにいくつか教えを請いたいことが―――」
関羽は机上の書物を手に取った。
それは『パトリア帝国史録』題された本である。解放軍の書庫に収蔵されていたものであり、本来は解放軍リーダーであるリョウケイの私物である。関羽はこれを借り受けて日々読み込んでいる。
……忙しく解放軍の活動に貢献する日々を送るユーリンとは裏腹に、関羽は、はっきり言ってヒマを持て余していた。
生前から無聊を託つなどという怠惰な生活とは無縁であった関羽は堪りかねて、余暇を己の修身に充てるべく、知識の習得に励むことを選んだのである。
数日前、解放軍の本拠地施設を散策する間に書庫を発見し、所有者であるリョウケイに書物の持ち出し許可を直談判したところ、リョウケイは涼し気な口元をほころばせ、快く承諾した。「もちろんです。書物は人の目に触れてこそ価値があるもの。ウンチョウさんにお読みいただけることは、私にとっても望外の喜びです。書庫はご自由にお使いください」
関羽が興味を抱いたのは、歴史書である。生前から春秋左氏伝を諳んじるほどに読み込んでいた関羽は、当地と中原の歴史の違いを学ぶことを望んだ。そうして選び取ったのが『パトリア帝国史録』であり、ここ数日、関羽は一人の時間にそれを手繰って思索に耽っていたのである。
おおむねその事情を把握しているユーリンは、心得た、という様子で関羽の手元の書物を覗き込んだ。
「もちろんさ、ボクがキミの頼みを断ったことがあるかい? ……ってこれ『緑葉の隠者アライデンジム・ガランダール』のパトリア史じゃないか。よくもまぁこんな分厚いものを」
「知っておるのか?」
「むかーし、読んだよ。何日かかったことやら」
ユーリンはしみじみと過去を思い返すようなしたり顔をわざとらしく作り、仕上げに「ふふん」と得意げな態度をとった。
「覚えていることだったら、覚えているよ。だからボクが覚えていることなら、何でもきいてくれたまえ」
おどけた調子で意味がありそうでまったくないことを言ったが、はたり、と何かに思い至り、表情を暗くした。
そして、深刻そうな面持ちで、告げた。
「……残念だけど、少なくとも『カン』や『ショク』、『ケイシュウ』につながりそうな記述はなかったよ。そこはボクの責任であらかじめ伝えておくね」
「……そうか、礼を言う。だがそれはよいのだ、帰路は気長に探すとしよう。そなたが気落ちする必要はない」
関羽は、ユーリンの通達を厳粛に受け止め、話題を転じた。
「それよりも、儂が気になっているのは———」
関羽は手元の書物の項をたぐり、いくつかの単語を読み上げて並べ、その意味を判じかねることをユーリンに相談した。
それは、生前の関羽が暮らした中原の地には存在しない概念、民族名、国名、指導者名などであった。
ユーリンはそれをふむふむと眺め、関羽の反応をうかがいつつ、融通無碍な言葉運びで注釈を展開した。
「……うん『ドワーフ』ってのは、種族名だ。人型で人語を解するけれども、生態は人間とは少し違う……らしい、ボクも会ったことはない。地表の下で暮らしていて、人間との関わりを避けた生活を営むのが基本らしい。例外もいるけど。特に物質の創造に長けていて、武器の鍛造や装飾の細工や……あとは『自力稼働人形:ゴーレム』の製造ができるそうな」
「……『キルモフ』は主神の一柱だ。大地をつかさどる女神だね……へぇ、ウンチョーの国では『バンコ』っていうの? ……うーん、同定はしかねるね、わからないや。天地開闢? へぇ、おもしろい解釈だね、ボクの知る神話は、『まず創造主の玉座として天が作られ、次に時の流れが制御された』ってノリなんだ」
「……えーと、どれどれ、ふむ『ドワーフたちは古来のしきたりに則り、自身の眼を厚い布地で覆って、金庫を開けた』か。……ああ、なるほど。これはバジリスクの知識を要する記述だね。女神キルモフは、バジリスクという魔物を財宝の守護者として金庫の内側に配置していたそうな。このバジリスクと目を合わせて見つめられると、身体を石に変えられてしまうらしい、キルモフは大地の女神だからね。……それを防ぐために、キルモフを崇拝するドワーフたちは、金庫に足を踏み入れるときは目隠しをつける慣習なんだって。以前どっかの別の本で読んだ気がする」
「……『ルシュイアープ』は文明の名前だ。ドワーフ族の一部の人たちは、地上に出て人間と交流する文明を築いている。それがルシュイアープだよ。これは国名でもある。……うん、行けるよ、本気だせば。……そもそもグラン帝国とは国交があるし、首都にはたまにドワーフの行商がくるそうだよ」
一通り関羽の疑問に答えつくしたユーリンは、一仕事を終えたように満足した。
「どんなもんだい?」
「素晴らしい。おかげで続きを読み進めることができそうだ。感謝する」
「いつも助けられてばかりだからね。せめてボクにできることは何かやらせておくれよ。……もっと他に……何か、ウンチョーの役に立てること、ない……かな?」
ユーリンは瞳に不安を溜めて、関羽の様子をうかがった。
実際のところ、ユーリンは関羽の『故郷への帰路を探すのに協力する』という当初の目標について、芳しい成果を上げられていない。
いつか関羽の失望を招くのではないか———その懸念がぬぐいがたい胸中の憂慮となって、ときおりユーリンの表情をさみしげに曇らせるのである。
そんなユーリンの様子を見て、関羽は励ますように言った。
「そなたが気がかりに感ずる道理はあるまい。そも当地に迷い込んだのは儂の責任で、儂はそなたの協力を仰いでいる立場だ。それに、そなたのおかげで、儂も退屈しておらぬ」
「本当に? 無理してない? ボク、ウンチョーに無理させてない? 窮屈じゃない? いろいろ我慢したりしてない?」
「快適に過ごしているつもりぞ。陣中の暮らしには慣れておるし、見聞を広げる日々で飽きがない」
「ホントに? ホントにボク、ウンチョーの負担になってない?」
「なっておらぬ。儂を侮るな、ユーリン。そなたの都合に合わせる程度、ほとんどは余興の一貫で片付く。……まれにそうでもないこともあるが、先日、村の賢婆殿から措置の術をお教えいただいた。何ら憂慮にあたらぬわ」
不敵に関羽は笑った。
それは、人の無数の信頼を束ねて背負うことができる、屈強な男の姿であった。
「そっか。……よかった。信じる。ボクは何も持ってないからね、せめて心だけは惜しまず伝えるとしよう。好きだよ、ウンチョー。キミと出会えたことは、きっとボクの天佑だ。この想いを抱くことは、ボクの生涯で最良の幸福だと実感できる……と、あれ? おかしいな、なんでボクはこんな暗い調子で……? せっかく憧れのリョウケイさんのもとで、解放軍に貢献できるようになったのに……?」
ユーリンの感情が理由もなく揺らぎ、震えた。
涙のような液体が目尻から垂れて、あたかも悲しんいるかのような様相であった。
はちきれそうなガラス細工のような儚さが、危うく崩れかかるユーリンを辛うじてつなぎとめていた。
わずかな星粒の欠片の礫で、たちまち崩れ落ちそうな気配である。
「ユーリン!」
ユーリンの異変を察した関羽が、声を緊張させた。
ユーリンが怯えたように肩を震わせる。
「……っ! ……なに、ウンチョー……?」
「……あらためて礼を言う。そなたと出会わねば、今の儂はなかった。儂は……僅かであるが、変わることができた。この頃それを実感しておる。故に、面映ゆくはあるのだが……もしも今の儂を誇らしく思うのであれば、それを成したそなた自身を誇るがよい。……人は、己を変えることができるのだ。そなたも、そなた自身を変えつつあるのだろう。戸惑いも多かろうが、時間をかけて、己を受け止めるがよい」
関羽は真正面からユーリンと相対し、誠心を込めて誠意を伝えた。
ユーリンの胸中の困惑が安堵に変わり、こぼすようなひと泣きが器からあふれた。
あふれるものが出尽くしたとき、ユーリンは平静を取り戻した。
「……ごめんね。驚かせた……もう、問題ない。ちょっと混乱しちゃっただけなんだ。……そうだね、このごろ急にいろいろ変わって、ボクも疲れてたのかな」
「多忙が原因であろう。慣れぬことも多い。焦らずに順応すればよいのだ」
恐慌が去ったことに、関羽は胸をなでおろした。
関羽は、リョウケイと対面後のユーリンの豹変について、努めて意識しないように意識してきた。
おそらくマホウが関連する事象であるため、原因も対処方法も関羽には皆目見当がつかない。
解放軍にはマホウに長けた者がいるかもしれないが、ユーリンの秘したる内面を他人に打ち明けることはできない。
変化の方向性そのものは好ましいものであるため、解決を求めるほどの危機感が生じなかったという理由もある。
しかし、いまのユーリンの様子をみて、改めて気を引き締めた。
(無理をしているのは、やはりそなたではないか)
解決を急ぐことはできない。
だが油断もできない。
その事実を認識し、関羽は己の中に銘記した。
しばらくは静かな時が流れた。
ユーリンは寝台に身体を横たえたり、起こしたりしながら、机に向かう関羽の背中を漫然と眺めていた。
関羽は書物に目を凝らしていた。丹念に字句をおいかけ、時折悩むように眉をひそめ、項を前後しながら読み進めた。
不意にユーリンが、関羽の背中に声をかけた。
「……好きなの?」
「ん?」
「読書」
「ふむ。そう言われてみれば、昔から書を読む慣習があるな。若く貧しいころも、月灯りを頼りに借りてきた書を読んだものよ」
しみじみと昔を思い返すように関羽が答えるのを、ユーリンは胡散臭そうに眇め見た。
ユーリンの知る限り、関羽はまさにいまが若いころなのである。
しかし、その点に触れるのは避けて、ユーリンは話題を広げた。
「へぇ。……じゃあさ、他には? どんなことしてるのが好き? ……いまさらどけれどもさ、ウンチョーのこと、教えてよ。趣味とか好きなものとか」
「ふーむ? そういわれてみると、そうさなぁ……」
それは、ユーリンとしてはさほど強い興味に基づいた問いではなかったが、答えあぐねて悩む関羽の姿をみて、にわかに関心が高まった。
関羽を困らせつつ内心を掘り返すのが、思いのほかに面白そうだと予感したためである。
「おや? もしかして、慎重な取材を申し入れてもいいかな?」
ユーリンの巧みなインタビューによって、関羽のプロフィールが明らかにされた。
――――――
【ウンチョーのプロフィール(取材者ユーリン)】
姓:関
名:羽
字:雲長
目標:漢室復興
趣味:漢室復興のための自己鍛錬(武芸、勉学など)、碁、酒
――――――
思わず漏れ出そうになる「うっわぁ……」という声を抑え込んで、ユーリンは「わぁ」となるべく明るめの声を出した。
努力で身につけられるあらゆる技能に長じるユーリンであり、演劇の手腕も実際に優れているのだが、関羽のコレはユーリンの努力の厚みを貫通する威力であった。
さすがの関羽も、ユーリンの「わぁ」が穏当でないのを察した。
「何か物申したげな様子であるな」
「……うん、まぁ、……うーん」
「似合わぬ躊躇いはよせ。儂とそなたて今更何を憚るのだ?」
「……だって、ねぇ……これは、あんまり……」
「申せ」
「……うん、わかった」
ためらいがちに、ユーリンは言った。
「ウンチョー……もしかして、趣味、ないの?」
沈黙が訪れた。
ユーリンは、恐る恐るという表情で関羽の反応を伺っている。
面白全部で関羽の内心を懸命に掘り返したのであるが、その結果として、とんでもないものを発掘してしまったのである。
関羽は、タジタジとうろたえながら、反駁した。
「……いや、ある。鍛錬も好きであるし、碁や酒も嗜む」
「鍛錬って……何のために?」
「無論、大義のためだ。漢室復興を成し、太平の世をつくる。そのために儂は武を修め、学を磨くのだ。碁を嗜むのもその一環よ、思考の冴えを育むのが狙いだ」
「あのね、あのね、ウンチョー、あのね……目的があってやってたら、趣味じゃないんだよ。それは義務っていうんだよ。引き算したら『酒』しか残らないじゃん」
「な……なんと……? いや、まさか、そんな……?」
「だって、じゃあ、目的を達成したらどうすんのさ? もしもカンシツの復興を成し遂げたら、何をして過ごすつもりさ?」
「………………酒でも飲んで暮らすつもりだが」
ユーリンは「うっわぁ……」と、ほとんど悲鳴のような声を漏らした。
関羽は、泣き出す3歩手前くらいの表情になった。
「それほどか!? 左様な顔をされるほどに、それほどか!?」
「だって……今みたいに若いうちなら、まぁ、いいけど……もしもこのままで歳をとって、たとえば60歳の老境近くになって『本当の趣味は飲酒だけです』って発覚したら、『ドンづまりのツマラナさ』だよ。……もしも仮にそういう人生だったら、けっこう悲惨じゃない?」
ユーリンの言葉は、関羽の急所にあたった。
効果は抜群だった。
関羽は目の前が真っ暗になった。
「そうだったのか……儂、そうだったのか……」
衝撃のあまりに混濁する意識のなかで、不意に関羽は思い出した。
飛竜ネヴィエルの温情によって空を舞い、天を抱いたあの日。
関羽を空に連れ出した、彼女の哀れむような意思を……
———自分を自分で探せないうちは、子供だよ
———こりゃ相当に拗らせたんだねぇ
———自分の好きなこと、ちゃんと自分で探したのかい?
関羽の中で、恐るべき推論が成り立った。
それはこの期に及んでは、認めたくないことであった。
(まさか、もしかして、ひょっとして……儂は、ツマラナイ男なのか?)
関雲長(精神年齢61歳。前世は武人。没後は軍神兼商神)は、いまさら己を知り、心の内で慟哭した。
茫漠たる目を天に向けて硬直する関羽に対して、ユーリンは哀れむように、励ました。
「ゆっくり探せばいいじゃない。せっかく時間はあるんだし。ウンチョーの故郷とはいろいろ文化も違うだろうし、楽しいこと、いっぱい見つかるんじゃないな」




