34. 朱に染まる
イヨリ・メシモウに突然の訪問を受けたその日の午後、リンゲンは新たな訪問者を司令官室に迎えた。それは、断じて無礼な闖入ではないものの、リンゲンにとってまったく予期しない人物たちではあった。
歩兵科のエンリコ、騎兵科のティバルト、魔法科のウソン、司令部付参謀のスタンリー。グラン帝国軍東部辺境タジカン域方面軍において実践部隊を統括する部門責任者が、揃って司令官たるリンゲンを訪問したのである。
それが極めて珍しい光景であるという事情を把握していないのは、リンゲンの護衛官兼秘書官として着任したばかりのイヨリのみであった。
イヨリはリンゲンの傍らに侍り、最大限に謹厳な面持ちをこしらえて、事態の推移を見守っている。イヨリと初対面である4人の訪問者は僅かに戸惑った様子をみせたが、すぐに打ち消してリンゲンと相対した。4人とも一様に、模範的なまでに苦渋に満ちた表情を浮かべている。
リンゲンは彼らのその表情から、いまから開始される茶番劇の筋書きをおおよそ洞察し終えていたが、役者としての務めを忠実に果たすことを選んだ。
「その様子じゃあ、良い報告じゃなさそうだな」
「残念ながら、極めて悪い報せです。小規模備蓄拠点として維持していた『東の砦』が、叛乱軍の襲撃を受け、壊滅しました」
4人を代表し、歩兵科のエンリコが申告した。目元に色濃い陰りが差しており、動機はさておきとして、心底から憔悴している様子が伺えた。
「なんだと、そりゃあ、大変だ」
驚愕の報告を受けた、という体裁でリンゲンは声を発したが、説得力が乏しいことは当人も認めていた。ハクソク家の英才教育の内容は幅広く多岐にわたり、その中には一般教養科目も含まれているが、残念ながら『演劇』は範疇外であったのである。
しかし、その報告内容自体はリンゲンにとって驚きをもたらさなかったが、その報告自体はある程度の驚きをリンゲンに与えた。
(……ようやく報告にきやがったか。まる2日間も悪あがきのダマ決め込みやがって……マジで隠しきれると思ってたのかねぇ……情けねぇ)
リンゲンは個人的な独断専行により、東の砦で発生した騒乱の顛末を承知している。その情報の確かさは、目の前にいる人物たちの口から発せられるであろう内容よりもよほど信頼がおけると、リンゲンは確信していた。
リンゲンは社会的な立場を考慮した、妥当な対応を選んだ。彼らにさらなる詳細の提供を求めたのである。
「どういう状況だったか、教えてくれ」
「調査によると、昨日未明、東の砦は突如として叛乱軍の襲撃を受けた模様です。守備兵はよく善戦した様子ですが、衆寡敵せず、叛乱軍に基地の一時的な占拠を許すに至りました。定時連絡のないことに気づいた騎兵隊が装備を整えて現地に急行いたしましたが、すでに叛乱軍は砦に備蓄されていた軍需物資類を略奪狼藉しつくして立ち去った模様です」
「手痛い損害だな。守備兵に生存者は?」
「無念の限りですが、一人もいません」
「そうか。激戦だったんだろう、勇敢に戦ってくれたな。せめて丁重に弔おう、ご遺族への連絡はおれが手配する」
軍規に反して内密の人身売買に加担していたところを反抗されて横死した———などという救いのない真実を遺族に告げる必要はない。リンゲンとしては、現地における指揮責任者として、戦死した部下の名誉を、少なくとも遺族に対しては護るつもりであった。
「……その件につきまして、ひとつ、特にご報告申しあげねばならぬことがございます」
荒れ地の上で亡骸を引きずったような、不快な声がした。
———途端、リンゲンは直感した。
(あ。コイツもアッチ側か、保留じゃねぇわ、完全にクロだ)
肚を酒瓶の底で殴りつけられたかのような衝撃を覚えた。暗く濁った井戸水を手に汲んだような嫌悪感が、リンゲンの腹部を満たした。
ウソン・ボンチュウケ。当地において魔法科の長を務める老人である。正確な年齢はわからない。風雨にさらされた歳月を隠さない深い皺の刻まれた顔のなかに、まるで暗夜に抗う灯火のように煌々たる光を放つ瞳があった。もしも満月が深淵の縁を枕としてうたた寝をするならば、この老人の眼差しのような輝きをみせるに違いない。グラン帝国軍で常用される軍用魔法のことごとくを高水準で行使できる、練達の魔法士である。
「あくまでわが軍内部に留めるべき情報と存じますが、守備兵の多くは果敢なる戦いの果てに死を迎えたのではありません。捕虜として拘禁され、武器を奪われ、挙句無残に殺戮された模様です」
ウソンが淡々と告げた内容は、さしものリンゲンにも少なからず衝撃を与えた。
「……そいつぁ、穏やかじゃねぇな。確かか?」
「現地の状況を鑑みますに、間違いのないことかと。推測するに、叛乱軍めは何か卑劣な策を弄して我が軍の兵士たちを捕え、砦内の一室に押し込め、無抵抗である我が軍の兵士たちを、まるで見せしめのように手にかけたものと思われます」
「わかった。おれもいまから現地に確認にいく。『浄化』もおれが引き受けよう。……イヨリ、ひとっ走り行って、街で花束を仕入れてきてくれ。花屋は大通りの南よりにある。故人向けであると伝えて見繕ってもらってくれ。ただしまだ事情は明かさぬように」
リンゲンは、傍らに控えていたイヨリに詳細な指示を出した。現地での『浄化魔法』も、それに伴う媒介としての『献花』も———実際にそれが必要であるのは確かだが、それ以上に、思考の動揺を抑えるための時間を求めたというのが実情である。
リンゲンの内部で数々の疑問が弾けて渦巻いて混乱を加速させた。
(信じられん。この間、会ったあの連中、そういうことをする性質じゃねぇ。ウンチョウは論外、あのハゲ頭の大将……エルマンだったか。アイツの肚には、そういう残忍さがなかった。軍人のくせに、内側に全く闇がねぇ。周りの兵卒どもも、いい感じのバカで気持ちがよかった。無抵抗の捕虜をわざわざ殺すとは思えん。あー……ホントうちの軍に来ねぇかな。平日はうちで歩兵科任せて、休日は叛乱軍のダブルワーク……それでもいい、来てくんねぇかな)
無理で無謀な妄想が思考に入り乱れたことを自覚し、リンゲンは頭を整えた。
目の前の現実に対処すること。それがリンゲンの今時点の使命である。
リンゲンは、あらためてウソンを眺めた。何気ない佇まいの中に、漆黒を塗り固めたような質量ある気配が漂っている。
(ウソン。こいつ、こんなヤベェやつだったか!? 人を見る目には自信あったつもりだが、なんでいままで見落としてた……クロなんてもんじゃねぇ)
リンゲンの眼底に圧がこもり、喉の奥を乾かすような熱気が腹から吹きあがってきた。
リンゲンは、ウソンを視野におさめたくはなかった。思わず目を逸らしてしまいたくなるほどに、相対するだけでも疲労感を覚えた。
リンゲンの焦がすような危機感を、イヨリの湿り気ある声が中断させた。
「でわでわ! わたくし、ひとっぱしりのパシリに馳せ参じ参りますわ。颯爽たる帰還をお待ちください」
「……おう、頼んだぞ」
イヨリが形だけは立派な敬礼をして、退室した。
リンゲンは、イヨリの発言を耳にした4人の訪問者が一斉に眉をひそめる光景を真正面から眺めて、僅かに溜飲の下がる思いを抱いた。
ウソンが、ひそめた眉のストレッチも兼ねて、形式的に驚いたような声を出した。
「本日中に東の砦の現地視察をなさるおつもりですかな。飛竜というのは、凄まじいものですな」
すでに太陽は空の頂を過ぎて、傾きつつある時刻である。通常の騎兵であれば、とても陽のあるうちに東の砦まではたどり着けないが、飛竜ネヴィエルの機動力であれば、問題なく往復できる。
「ああ。この話が終わったら、すぐに向かう。……んで、今日の夜には帰ってくる。慌ただしいが、おれは現地現場でないと碌に仕事ができないもんでね。まずは状況を確認させてくれや。先の話は、その後にしよう。この件は明日に持ち越しで頼む」
「それは承知いたしましたが、お一人で視察なさるおつもりですか? いま砦の周囲に叛乱軍の姿はないと報告されておりますが、それでも万一ということが」
「……おもしれぇ心配だな。ユーモアは嫌いじゃねぇが、死んだ連中の埋葬式が終わるまで待ってくれや。それともおれの単独行動に本当に懸念があるのかい?」
リンゲンは右手を伸ばして虚空にかざし、『呪符魔法:質量制御』を発動した。
右手の中指に嵌めた濃緑色の指輪に高密度のマナが注ぎ込まれた。指輪は鈍く発光し、溢れったマナの奔流が、指輪の装飾の朱色の細い茨に収斂した。
次の瞬間、リンゲンの右手は朱色の槍を握っていた。
背丈よりも長い槍を指輪の装飾程度のサイズにまで縮小していた『呪符魔法:質量制御』を解除し、本来の質量にまで拡大させたのである。
神代の遺産———聖帝カイロリンの手によるものと目される古代ルーンが刻まれた不瑕の朱槍が、そこにあった。
「多少のことならテメェでなんとかするさ。それができるくらいには、鍛えてるつもりだ」
「……確かに。司令官殿には無用千万の憂慮でしたな。何卒、この老骨めの不躾な耄碌をご容赦くだされ。御身におかれては万に一つもありえませんな。安心しましたぞ」
ウソンは笑顔をみせた。それはまるで老成した賢人のような柔和なもので、歳若いリンゲンの覇気を歓迎するかのような度量ある態度だった。
リンゲンは寒気を覚えた。先刻まで看取できていたはずのウソンの邪気が、いまは全く感じられなくなっていたためである。目の前にいるのは、ただの人の良い好々爺である。リンゲンの肚が、なんの危機感も訴えない———そのことに、リンゲンの理性がとてつもない危機感を訴え、脳髄に響くような警鐘を鳴らした。
(……ウソン、こいつ、マジでやべぇ。どういうカラクリか知らねぇが、完全におれを欺いてやがる。さっきコイツの内側が視えたのは、たまたまか? それがなけりゃずっと騙され続けてたぜ。何をするために何を隠して何を欺いてやがる……? まさか人目を忍んで陰徳を積んでる照れ隠しなんてオチはねぇだろう……バチクソでやべぇ魂胆なのは疑いねぇな)
リンゲンの内心が、荒々しく苛立った。
リンゲンの専門は白兵戦闘であるが、魔法の行使においても上級の軍属魔法士に劣らぬ水準を自負している。
ゆるぎない血統とたゆまぬ修練によって培った、リンゲンの誇りのひとつである。
それでも、魔法の技量において、ウソンは完全にリンゲンを凌駕している。
リンゲンは、ウソンが行使する魔法の正体すら見極められない———それが事実であった。
リンゲンの焦燥をよそに、ウソンが何気ない様子で話題を転じた。
「ところでお伺いしたいのですが、先刻の女性はいったい? 来客という風でもなさそうでしたが」
「新しく司令官付で着任した。しばらくは小間使いだな」
「ほう。そのような報せは受けておりませんが、何かの行き違いですかな」
「だろうな。おれも連絡を受けていなかった。さっき本人から事情を聞いて、驚いたところだ。たぶん中央が忙しくていろいろ滞っているんだろう。そのうち正されるだろうさ、きっと」
「念のため、ですが身元を検めがほうがよろしゅうございます。中央に確認をいたします」
「……ん?」
リンゲンにとってイヨリは旧知の間柄であるため今更身元を検めるという発想がなかったが、ウソンの忠告自体は至極真っ当である。リンゲンの立場としては、事前連絡なしで着任した自称司令官付の武官である人物の身元照会に反対する理由はない。だが何か見逃しがたい微かな違和感を、リンゲンの第六感が捉えた。
リンゲンは努めて穏やかに、ウソンから貴重な助言を得られたかのような顔をして賛意を示した。———惜しむらくは、リンゲンに『演劇』の素養が皆無であったことである。
「……そうだな。おれがやっとくよ」
「それには及びませぬ。僕めが手配いたします。司令官殿は、一刻も早く東の砦の件を———」
「……そうかい。じゃあ頼んだぜ」
リンゲンが心底から敬愛する兄コウンは、リンゲンの知る限り当代随一の聡明な頭脳をもつ人物である。
そのコウンがイヨリの赴任について事前に一報すら出さなかった理由が、リンゲンにはようやく理解できた。
4人の訪問者が退室し、すっかり静寂に満ちた司令官室で、リンゲンは顔を揉んで考えを整えた。
それは、多難な前途に立ち向かうための、溢れんばかりの気力の現れであった。
(イヨリ先輩のタイミングは、神懸かりだったな。信頼できる一級の戦士が身近にいるのは、この状況でたまらなく心強い。にぃちゃん、ありがとう)
両腕では抱えきれない大きさの花束を、奇跡的なバランスで抱え持ったイヨリがたどたどしく颯爽と司令官室に帰還したのは、しばらく後のことである。
リンゲンはその光景を苦笑しつつ、歓迎した。
「いったい花屋でどういう注文をしたんですか?」
「リンゲン様もお気に召したんですね。ふふっ、ステキな盛り合わせですよね。これはとっても簡単ですよ、教えて差しあげます。『ぜんぶ、ください』です。取りこぼしが無くてオススメですよ。……ネヴィさん運んでくれますかね」
「いえ、ちょうどよいサイズです。おれが手で抱えてる分には、ネヴィも許してくれるでしょう」
リンゲンは、笑ってソレを受け取った。
リンゲンは、飛竜ネヴィエルの背中から飛び降りた。グラン帝国軍東部辺境タジカン域方面軍において、通称『東の砦』と呼称される拠点を眼前に据えた。朽ち果ててはいない、と評するのが精いっぱいの様相の、古びた小規模の拠点である。周囲には、生物の気配がまるで存在しない。命を宿さぬ荒野のごとき寂しさが満ちている。
「……ネヴィ。おれ都合ですまねぇんだが、一人になりてぇんだ。許してくれ」
飛竜ネヴィエルはリンゲンの言を聞き入れて、静かに羽ばたいて上空に戻った。
地上には、腕いっぱいの花束を抱えたリンゲン一人のみが残された。
リンゲンは東の砦の門前に立ち、一礼した。
それはグラン帝国の式典における、最上様式の謝罪の礼であった。
誰も応える者はない。
もとよりあってはならないが、幸いにして、誰の応えもなかった。
朽ちたる涼風のみが、リンゲンの頬を打った。
その間、リンゲンの頭は、ただ一心に、地に向けられていた。
地を敬っているのではなく、この地に散った同胞の死を悼んでいた。
ただし———
ただし、その頭上には、叛乱軍の掲げる深紅の旗がたなびいていた。
門の横の登楼、その頂に本来掲げられるはずのグラン帝国の国旗を引きずり下ろす格好で、叛乱軍の旗が、掲げられていた。
やむを得ぬ仕儀とはいえ、リンゲンは叛乱軍の旗に対して、首を垂れる構図となった。
リンゲンはその点にはことさらに無感動を貫きつつ、砦の門をくくぐって内部に足を踏み入れた。
たちまちのうちに、暗く昏い影が立ちこめて、リンゲンを束縛した。
リンゲンは、それを一息に退けることもできたが、決してそのような態度を選ばず、ただ慈しむように怨念の揺らめきを身に纏った。
そして、『生命魔法:浄化』を発動し、立ち込める怨念を祓い、清めた。
「……命、潰えるその砌において、御名の痕は輝きを伴にして失われん」
リンゲンの唇を割って、詔祈句が発された。
『生命魔法:浄化』を行使するのに必須ではないが、リンゲンがそれを怠ったことはなかった。
詔祈句定型句は定められていない。
ただ心の赴くままに、清浄なる魔力の奔流に任せて、言葉をつむいだ。
「我が祈りに意味はなく、ただ御身の骸を我が腕のもとに、我は離別を謡い、ただ哀しむ」
砦、中庭。
鼻に香るのは、血しぶきの気配。
リンゲンの視界を、悪霊化しつつある人魂が過ぎ去った。それを捉えるように、リンゲンはマナを操作して『浄化』を試みる。
腕に抱える花束に、未練と無念の重みがのしかかる。
「一心において別れを惜しみ、二心において御名を称え、三心において報仇の決意を新たにせん」
リンゲンは瞑目し、当地に散った同胞の死を受け止めた。
そして、集いし死霊を束ねるように両手で花束を高く掲げ、祈った。
「あばよ。あとはおれが請け負うぜ。死んだ奴らは、逝ってくれ。さよならだ」
リンゲンの抱える花束の奥から燻る煙が立ち上った。
次の瞬間、大輪の火炎が咲きあがり、蒼天を焦がすような灼熱の息吹となった。
リンゲンは微動だにしなかった。
己の腕が焼けるに任せて、ひたすら祈った。
いずれ花束は燃え尽きて、やがて光が消えた。
そして静かな涼風が、奥ゆかしく掌の灰を散らせた。
彷徨えるすべての魂は、空に登り、雲となった。
『生命魔法:浄化』によって、悪霊の発生を予防したリンゲンは、砦の内部を視察した。
中庭の血しぶき、肉骨片、そして地に横たわる遺骸———戦士としての冷徹な観察眼が、冴えた。
(この辺の戦闘は間違いなくウンチョウだな。皮の胴鎧ごと両断してやがる。槍に剣、素手も混じってるな……なにを使わせてもハンパじゃねぇな、白の喧嘩なら、おれより上かもしれん)
リンゲンは、ここで行われた戦闘の経緯を端的に洞察した。
次に、建物の内部に足を踏み入れた。
風の通りが乏しい分、血の匂いが濃く漂っている。
それを辿るだけで、その現場を容易に見つけることができた。
そこは、外部から施錠ができる部屋であった。
少し広めの雑居房となっており、複数名の捕虜を幽閉できるように造られている。
そこに所狭しと、転がっていた。
両腕を固く縛られ、急所の一突きで命を奪われた、リンゲンの部下たちの無念の亡骸である。
一様に苦悶の顔で硬直し、微動だにしない。
虫の羽ばたく不快な音が、リンゲンの鼓膜を逆なでした。
リンゲンは努めて平静を保ち、それを観察した。
ウソンが報告したように、無抵抗のまま惨殺されたものとみて間違いなかった。
リンゲンの胸中に、葛藤と疑問が渦巻いた。
葛藤は、部下を悼むものである。彼らの取り組みを考慮すれば、非業の死が妥当な帰結と結論できる。義務的な哀悼の情を超える程度には、リンゲンの理性は叛乱軍の側の正しさを認めていた。しかしそれでも、ここまでしなくても、という想いの芽生えを否定できない。
疑問は、これの動機についてである。
(ウンチョウを相手にしたんだ、全滅は妥当な決着だろう。だが確かに妙だな。残存兵を生かして捕らえたのは情報を聞き出す意図だろうが、わざわざ拘禁した状態で一室に押し込んて、きっちり急所を斬って始末するとは。用済みなった捕虜を処分したというより、慌てて片付けたみてぇなやり方だ。……恨みつらみでやるんなら、もっとメッタにやって吊るして盛り上げるだろうに。これはまるで、冷徹に、必要になったから、感情抜きで、淡々とやったみてぇだ)
リンゲンの口から、思索の断片が零れ落ちた。
「だが、なぜだ……? 何を必要とした? 口封じか? いや、それはない、このうえ何も隠す気がねぇだろ」
リンゲンは建物の外に出た。
蒼天の日差しと爽やかな風が、心を癒した。
そして、リンゲンは頭上を眺めた。
この砦のもっとも高いところに、これ見よがしに掲げられている『朱色の旗』を。
間違いなく、叛乱軍の象徴として当地で喧伝されているものである。
風にたなびく朱色が、この上なく明白に本件の下手人を表明している。
(襲撃した側がわざわざテメェの身元をいっちゃん目立つところに掲げて去ってったんだ。……帰路におれと遭遇したのは偶然だろうが、そもそも活動を隠蔽しようとする意思が感じられねぇ。むしろ無邪気に見せびらかしてやがる。このザマで何を隠蔽することがある? 画期的な秘密の戦術か? バカバカしい、あの連中にそこまでの地力はない。グラン帝国軍に対抗する術なんざ、噂のルグスの寵人……リョウケイってのひっぱり出すしかねぇだろ、戦術もなにもない……ま、光神の加護ってのもだいぶ信じがたい話なんだが、この際だ、信じよう)
「となると、やっぱ答えはひとつか」
リンゲンは、受け止めかねるという葛藤を前面に押し出した声で、認めた。
———グラン帝国からの報復攻撃を叛乱軍に向けさせるための、見え透いた工作
「やっぱ挑発だよな。……まいったねぇ。叛乱軍をまともに討っても、グラン帝国の得がなんもねぇんだよなぁ」
仕掛けた側の意図があからさまであったとしても、グラン帝国軍としては、威信をかけてその挑発に乗らざるを得ない。
これは、リンゲンの構想する当地でのグラン帝国の宣撫方針を瓦解させる展開であった。
当地に司令官として赴任して以来、リンゲンは叛乱軍の活動記録を調査していた。
その内容を把握するにつれて、リンゲンは叛乱軍に好意的な理解を示すに至っていたのである。
叛乱軍は、当地の住民の生活に資する存在である———その事実をリンゲンはあっさりと認めた。
叛乱軍の主な活動内容は、グラン帝国の行政の及ばない辺境地域における治安維持や魔獣狩り、生活基盤の整備などである。
グラン帝国軍と交戦して双方の流血をみることもしばしばであったが、その発端はすべてグラン帝国軍が迂闊に当地住民の尊厳を損なったことに原因があった。
襲撃によってグラン帝国軍の物資強奪を試みることもたびたびであったが、リンゲンとしては、「軍の物資とやらの中にさらってきた人間は含まれてるのか?」と嫌みの一つでも言いたくなるような心境である。
これらの事情を勘案し、リンゲンとしては
「他の地域に影響ないうちは放っておけ。そもそも山間のド田舎の魔獣狩りを務める体力はタジカン域方面軍にはねぇぞ。代わりにやってくれてんだから、やらせとけよ」
という方針を固めつつあったのである。
グラン帝国軍東部辺境タジカン域方面軍の現有兵力では、叛乱軍の殲滅は困難である。
かといって、現在の叛乱軍の規模と活動内容を鑑みるに、殊更に中央からの援軍を求めるほどの脅威ではない。他の戦線のほうが明らかに優先度は上である。
そもそも、交戦を避けられて山地に逃げ込まれた場合には手が出せず、無理をしてグラン帝国の支配域を広げるほどの税収も期待できない。
———叛乱軍を討伐して得るものより、失うもののほうが多い。
それがリンゲンの下した結論であった。
それが、揺らぎつつある。
リンゲンは、頭を抱えたくなった。
叛乱軍がこのように短絡的な挑発工作を仕掛けてくるとは、まったく予期していなかったのである。
「おれの見込み違いだったのかねぇ」
無論、リンゲンとて叛乱軍との本格的な交戦に至る可能性を考慮しなかったわけではない。 だがそれは極めて蓋然性の低い展開であると見積もっていた。
ここまで叛乱軍は、発足以後、非常に理性的かつ合理的な活動に終始しており、グラン帝国を極力刺激しないように慎重に振る舞ってきた。
―――その活動方針が変わるか、あるいは、グラン帝国にとっての脅威になるほどに規模を拡大するか
そのどちらか、あるいは両方が生じるまでは、叛乱軍を容認し、尊重するのがグラン帝国にとっての最善の道であると、リンゲンは考えていたのである。
その道筋を、リンゲンは失いたくなかった。
「ま、さすがに杞憂か。人間、そんな急に変われるもんじゃない。しばらく様子見でいいだろう」
これは一過性の事故のようなものである。
リンゲンは、そう思い込もうとして、不意に空を見上げた。
空に曇はなく、蒼く透き通るような快晴である。
そして、その蒼さに見覚えがあった。
(ウンチョウにくっついてた、あの嬢ちゃん……)
蒼天のごとき澄んだ瞳、流れるような銀髪、人を惹きつける美貌―――会話をすれば何かわかったかもしれないが、その機会はなかった。
否。あの時、リンゲンは明らかに避けられていた。
まるでリンゲンの目に自分が触れることのないような立ち回りに終始していた。
(ウンチョウのことがなければ、まったく印象に残せなかったかもしれない。巧みにおれを避けてたな。そのくせ、一線の臨場だけは譲ってねぇ……器用なこった。……うーん。あの場で隠れようとすること自体は不思議ないんだが、何かひっかかるな)
太陽は傾き、色味に朱を混じえつつある時刻てである。
空の蒼さに、朱が滲む。
まるで太陽の輝かしき燐光が、穢れなき蒼天を血で染めようとしているかのようであった。




