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33. 兄への手紙

身体が職場にあるからといって、その身体が職務に励んでいるとは限らない。


(どっから手ぇつけたもんかねぇ……足元がおぼつかねぇってのは、踏ん張りがきかなくてやる気がでねぇな)


司令官室の椅子と机とリンゲンは使っていたが、その用法が適切ではなかった。寝台代わりといわんばかりに椅子に浅く腰かけ、机を足休めの台として、あおむけに寝そべっている。

この日、リンゲンは朝からずっとこの姿勢のままだった。


『飛将』の異名で知られるリンゲンは、自身に課せられた職責を果たそうとする十分な意思を有していたが、その性質がデスクワークには不向きであるという致命的な欠点は否定できなかった。


今、リンゲンが足を乗せている机は、リンゲンの『グラン帝国東部辺境タジカン域の駐屯軍司令官』という公的な立場に対して組織から支給されたものであり、リンゲンの事務処理能力の発揮を期待して支給されたものではない。


(殴って(しま)いなら殴りにいくし、危険を(おか)せってってんなら身体くらい張るんだが……身内の不正ってのはどうやって対処すりゃいいんだ? どっかにそんな教本があるなら読んでみたいもんだが、書いたヤツのツラが気になって読めたもんじゃねぇな)


リンゲンにとって、自身の任地である軍司令部は敵地に等しかった。リンゲンが当地に赴任してすぐに直感したのは、所属する軍組織の腐敗臭であった。先日、その汚濁の根源のひとつを目の当たりにし、リンゲンは心底から自分の組織に失望したのである。しかし、それを動機に職責を放り出すようなことは、したくなかった。ハクソク家という名門の血脈に生を受け、努力を絶やすことなく積みあげ、順当にあらゆる成果を手にしてきた英雄リンゲンにとって、『困難』とは解決すべき課題であり、自身の進路を決める指標ではなかった。


(司令官ねぇ。カタチだけ務めて適当に手じまいする予定だったんだが、そういうわけにもいきそうにねぇな。……なんにせよ味方になってくれそうなヤツを探さねぇと何にもできねぇが、現状、上層部連中がほぼクロなんだよな。どいつもこいつも()()()やがる)


———司令部付参謀のスタンリーとオーラフは間違いない。事務局も……会計係のコルトン、記録係のノーマンも加担してるな、すっかり汚れてやがる


リンゲンは、相対する人物の性質を直感でとらえることができる。これは、形而上(けいじじょう)の理に関与する魔法領域———『魂魔法』『太陽魔法』『精神魔法』『法魔法』を複合的に習得していることによる副産物のような技能であるが、リンゲン自身としては「好きか嫌いかは(ハラ)で決める。見えねぇもんに理屈はいらねぇ」と認識していた。


そのリンゲンの(ハラ)が、裁定を下していった。

それは理屈には拠らないが、きわめて正確な現状認識であった。


———情報局も駄目だな、局長のヴィルマーと主任のマウリスは完全にあっち側だ。軍団のほうも……歩兵科エンリコ、ヤンゼン、騎兵科ティバルト、ヨルグ……こいつらは東の砦の件、マジで隠蔽する気かねぇ、呆れたぜ……となると、はっきりしねぇのは魔法科のウソンくらいか、魔法抵抗力が高すぎて何もわからなかっただけだが、こいつは保留か。……ったく、たかが600人そこそこの方面軍で、よくぞここまで込み入ったことになりやがったな。いくらド辺境だからって、中央も手ぇ抜きすぎだろ。おれが言えた義理じゃないが、やる気なさすぎだろ、まるごと全軍現地から引っぺがして、総とっかえしちまえよ、関係者全員すっぱり処断して……ってその場合、おれが中央の連中にアタマ下げることになるのか!? ってかそもそも中央が信用できねぇな、この状況


堪りかねてリンゲンは、つぶやいた。


「めんどうくせぇ。マジで辞めて叛乱軍に就職してやろうか」


その時、突如として部屋の扉が開け放たれた。


リンゲンは慌てて姿勢を改める気振りもみせず、椅子に埋もれたままの首をわずかに起こして、扉をみた。

リンゲンの靴底と鋭い眼光が、無遠慮な闖入者を真正面から睨みつけた。


その途端、憤懣で膨張していたリンゲンの全身が、萎んだ。

リンゲンは唖然として脱力し、言葉を絞り出して、突然の訪問者に呼びかけた。


「イヨリ、せん……ぱい?」

「お久しぶりですね、リンゲン様」


そこには、リンゲンのよく知る女性が立っていた。豊満な肢体を将校用の軍服に押し込み、質量のある頭髪を無造作に束ねて瀟洒な髪飾りで彩っている。意思の強さがみなぎった顔立ちに、柔和な笑みが浮かんでいた。リンゲンよりも年上だが、絹のような肌の艶が実際よりも彼女を歳若くみせている。


リンゲンは我が目を疑い、もつれる舌を叱咤して強引に言葉を発した。


「なにしにき……いや、その……なぜ、こちらに? にぃちゃ……兄貴と一緒に西方に赴任されていらっしゃったはず……では」

「まぁ、いつもお優しいリンゲン様! さっそくわたくしのご心配ですか? ですがご安心ください! 今度こそは軍令違反ではありません。わたくしを東部辺境タジカン方面軍の司令官付にするため、コウン様がいろいろと手を尽くしておられました。『弟のことをよろしく頼む』と仰せつかっております。リンゲン様もわたくしにお任せください! ……で、わたくし、何をすればいいですか?」


苦悩や深謀とは生涯において無縁であると一見してわかるような朗らかな声で、その女性———イヨリは応えた。


リンゲンが姿勢を正して椅子に座りなおしたのは、年長者であるイヨリに失礼な態度で接するのを避けるためではなく、脱力のあまりに自分の身体が床に転げ落ちるのを避けるためであった。

リンゲンは机にしがみついて重力に反抗し、上半身の姿勢を維持した。


「なん……で、です?」

「さあ?」


首を縦方向にかしげるリンゲンから問いを受けて、イヨリは横方向に首をかしげた。


「……先輩、兄貴から何も聞いてないんすか?」

「ちゃんと聞いてきましたよ! 『弟のことをよろしく頼む』って。あとは『ちゃんと現地にたどり着けたら、連絡しろ』と。……ですのでわたくし、コウン様にお手紙を書きたいのですけど、この街の郵便施設ってどちらにございますの?」

「……一応、軍事情報なんで、軍の逓信(ていしん)を使ってください、事務局で、ホントいちおうですが。……あと『よろしく頼む』は挨拶みたいなもんで、指示じゃないです。兄貴がわざわざ手を尽くして先輩をコッチに押しつ……向かわせたのは、どういう狙いがあってのことなんです?」

「コウン様のお考えなんて、わたくし、考えたこともありませんわ!」

「先輩! 一応、兄貴の秘書官だったんでしょう……? ほんといちおうくらいは……」


リンゲンは、観念したように力なくうなだれて、机に伏した。

が、すぐに不屈の意思で気力を回復させ、きょとんと不思議そうな顔をしているイヨリに告げた。


「……おれも兄貴に連絡したいことができたんで、あとで一緒に事務局にいきましょう。そうしましょう」

「まあ、素敵ですわ! ぜひそういたしましょう。 ……ところでリンゲン様、その立派な机、使っておられませんよね。わたくしがお手紙を書くのにお借りしてもよろしいでしょうか? 」

「……そっすね。どうぞ」


グラン帝国軍東部辺境タジカン域方面軍の司令官リンゲンは、司令官室の椅子と机をイヨリに譲り、おとなしく部屋を出た。

そして、敬愛する実兄を、心中で呪った。


(にぃちゃん……まさか、おれがキレて辞めようとするのを見越して、イヨリ先輩をコッチに押しつけたんすか……先輩をひとりで残しちゃおけないって、そうなるように……)


司令部の回廊を、リンゲンは力なく散歩して時間をつぶした。




イヨリ・メシモウ。

幼少期にハクソク家の当主に才を見いだされ、庇護を受けて養育された女性である。リンゲンより6歳年上であり、リンゲンの実兄であるコウンとは同年代である。形而下(けいじか)の理に関与する魔法領域に適性を有しており、自身の身体能力を強化する『肉体魔法』、物品の性質を制御する『呪符魔法』の2系統を得意とする。近接白兵戦闘において非常に優秀であり、軍属魔法士であるコウン・ハクソクの護衛兼秘書官としてグラン帝国軍に所属していた。


———彼女に学問を修めさせる機会は、なかったのですか?

———十分な環境は用意したんだけどね、なんというか、適性だろうね。残念だね


かつてコウンがハクソク家の当主に素朴な疑問をぶつけたが、祖父からの回答は「彼女の長所に目を向けろ」という主旨ものであったらしい。


「その時のお爺様の顔といったら……若い酒の味を変えるのに今でも便利だよ、思い浮かべるだけで口の中に渋みが広がるんだ」


数年前、イヨリの世話に疲弊した実兄コウンを、リンゲンが若いブドウ酒を伴って労った際に明かされたエピソードである。


「それはその、大変でしょう? 他の人に交代させたりはしないんすか?」


率直に不思議と思ったリンゲンは、はばかりながらその場で兄に尋ねた。

兄の回答は、明快であった。


「まさか! 彼女の長所に目を向けてごらんよ」




しばらく時間を潰したリンゲンが司令官室に戻ってきたとき、リンゲンの机はまだイヨリに占拠されていた。

リンゲンが入室しても、イヨリは気がつかない。眉根に天険の山脈をこしらえ、己の文才の限界と向き合う苦悩の文豪のような顔をしている。


リンゲンは無感動のまま退室し、食堂で茶をもらってから、のんびり戻ってきた。大きめのポットと2つのカップを盆にのせている。


リンゲンが再入室すると、イヨリは執筆を終えて窓の側に立ち、感慨深けに景色をみていた。


「さっき、ネヴィ様が空のおさんぽから帰ってきましたよ。はわぁ、今日も美人さんですねぇ。コカトリスを咥えてました。美味しそうですね」


リンゲンの相棒である飛竜ネヴィエルが自身の食事を確保し、空を舞って優雅に帰還したことを告げた。


飛竜は、軍事大国グラン帝国においても極めて稀な存在である。イヨリは過去に幾度も飛竜ネヴィエルと対面しているが、久方ぶりにその姿を眺めて、懐かしさを覚えたのである。


英雄リンゲンに飛将の異名を与えた飛竜ネヴィエルの存在は、グラン帝国軍内でも有名である。人間による使役を受け入れる貴重な飛竜は、人々の最大限の羨望と垂涎とを集めた。


もっとも、リンゲンは飛竜ネヴィエルを使役しているつもりは毛頭なく、ネヴィエルとしても同感であろう。そこの認識違いも、リンゲンが軍の中央部(ボケじじいども)と対立する要因の1つであった。


―――貴重な飛竜をもっと有効活用するべし、個人が保有すべきではない、軍組織が管理監督して最大限の活用の体制を整えるべし


戦術的には当然はあるが現実的には不可能な提案を、リンゲンは断固として一蹴した。……し続けてきた。


「飛竜ネヴィエルは、私、リンゲン・ハクソクが個人的な交流によって育んだ絆を理由とした、私個人に対する飛竜ネヴィエル自身の好意に基づいた気まぐれな助力を与えているに過ぎません。彼女自身にはグラン帝国に与する意思はないことをご認識ください」


「ムリですって。無謀です。アイツはおれ個人の相棒です。ほかの人間に心を許すはずがないです。機嫌を損ねるだけです」


「嫌ですよ、試しません。死体の山を作るだけですし、そもそもおれが嫌なんです。自分の恋人を他人に貸すようなマネは絶対にしません、そうでしょう? ……といっても、そういうのが好きな方々を咎める気はありませんか。……いえ、そんな意味では。だって、みなさまに恋人がいらっしゃるとは思えな―――失礼、みなさまとしては、恋人のおつもりでいらっしゃるのですかね。いえ、ミリも興味ないです」


「譲らねぇよ、バカかテメェは。……は!? 予算審議で検討……? ……っ!! ……売らねぇよ、殺すぞクソどもが……次、そのハナシもってきたら、おれはマジで他国(ヨソ)いくぞ。は? ……知らねぇよ、ハクソク家(いえ)のことなんて……兄貴も親父も従兄弟も叔父貴も自分でなんとかするだろ、知らんわボケ。は? ジジイ? ……アイツ相手に勝ち筋……ある? それはちょっと知りたいわ……」


幾度かの不毛かつ無理解な応酬の末、本件はハクソク家当主である『ジジイ』の強引な介入によって沈静化した。


―――退役済みのクセに強引に割り込んだ僕がいうのもあれどけどさ、強引なのはやっぱりよくないよ、やめなって。北の霜妖魔と蛮族とゾンビ、騎馬民族、南のリザードマンとオーク、西のカルティストとエルフたち……忙しいでしょ? やめときなって。これからもハクソク家(うち)は最大限協力するからさ。え? だって、このごろ首都がだいぶ手薄じゃない? そりゃ気になるよ。だって、(もろ)すぎるよ、僕個人から見てもね、容易く陥とせそうだと思っちゃったし……うんうん、だから、僕が護ろうかなぁ、て思ったんだ。そんな怯えないでよ、君個人を責めているわけじゃないんだ、ホントだよ……だけどやっぱり強引なのはよくないよ、僕ももうしないからさ……


本件の顛末を耳にして平静を保ったグラン帝国軍の関係者は、ハクソク家の縁者のみであったというが、それを裏付ける統計的な調査はない。


その当事者であるリンゲンは、本国の喧騒からは程遠い東部辺境の司令部の一室で、立ったまま茶をすすっていた。


「コカトリスが……美味しそう、ですか。西方って、そんなに食文化がアレなんです?」


他人(ひと)が召し上がっているのを見ると、なんでも美味しそうに見えてしまいます。そのお茶、美味しそうですね。わたくしもいただいてもよろしいでしょうか」


「……どうぞ」


リンゲンは茶器の乗った盆を机に置きつつ、椅子に腰を降ろして、自分の机を取り戻した。


茶の香りが部屋に満ちた。

平穏な時が訪れた。


しかし、リンゲンの筆運びは、はかばかしくなかった。


「リンゲン様、コウン様にお伝えしたいことがたくさんおありなのですね。さきほどから、ペン先が少しも動いておられませんわ」

「なんていうか、言葉では表せねぇからな」

「本当にご兄弟仲がおよろしいのですわね。わたくしいつも感激しておりますのよ。コウン様も常々リンゲン様のことを気にかけておられましたし、ほんとうに麗しいですわ。わたくし、いつも特等席で大見物でございますの。してやったりですわ」

「そりゃ、どーも」


リンゲンは、兄コウンに問いただすつもりだった。


―――何故、イヨリをこっちに寄越したのか?


リンゲンには、聡明な実兄の意図が理解できなかったのだ。

しかし、それを言葉でどのように問い質せばよいのか、リンゲンにはわからなかった。リンゲンはイヨリの扱いに苦慮してはいたが、イヨリのことを疎ましく思ったことはなく、嫌ったことも一度もない。自分自身の悩みの在り処すら、リンゲンは見失っていた。 


何気なしに気安く、リンゲンはイヨリに訊ねた。


―――この時、リンゲン自身はまったく気がつかなかったが、『何気なしに』『気安く』言葉を発したのは、リンゲンにとって久方ぶりのことであった。


「先輩は、兄貴に何を報せるんです?」


「別にコウン様に失礼なことは書いていませんよ」


ふふん、と得意げにイヨリは懐から便せんを取り出し、リンゲンにみせた。


(おれが見てもいいんすか?)

とは口に出さす、リンゲンは文面に目をとおした。


- - - - - - - - - -

コウン様へ

着きました。

リンゲン様はやる気なさそうにすごくサボってます。

イヨリより

- - - - - - - - - -


「……あんだけ時間かけて書いて、これだけっすか。というか、おれに対する失礼は気にしないんすか」

「あらっ……? おサボりではございませんでしたの? わたくし、もしかしてはなはだな失礼な誤解を……?」

「……いや、良いんです、サボってました。でも本当にこれだけでいいんですか? 何か兄貴からコッチの状況とか知らせるように言い含められてないんすか?」

「だって、わたくしが気がつくようなことなんて、コウン様はきっととっくにご存じですわ。わざわざ軍の逓信(ていしん)を通して伝える必要なんて、ないと思いますの」


その言い回しに、リンゲンは引っかかるものを感じた。


「先輩、何かにお気づきなんです?」

「リンゲン様、いま、ピンチですわね? だーれも、なーんも信用できない、ってお顔でムクれてましたもん」

「それは……そいつぁ……」

「ざ・図星ですわね!?」


イヨリはリンゲンに急接近し、力強く見つめた。


「……そう、です」


リンゲンは、どういうわけか、自分の目頭に熱がこみ上げてくるのを認めた。自分が危難に際していることを、ただ単純に理解してくれる人のいることが、たまらなく嬉しく頼もしく感じたのだ。


リンゲンの素直な同意を受けて、イヨリは後ろに下がった。

そして、つつましげな微笑みをみせた。それは、損得利害の俗を超越した、純粋な慈愛の決意に満ちていた。


「わたくし……ここにいてもよろしいでしょうか? ……実は、わたくしからの着任連絡がコウン様に届かない場合、コウン様が理由を作ってわたくしを西方に呼び戻す手はずになっております。わたくしがここにいるのがご迷惑であれば、どうぞそのお手紙を処分なさってください、近日中にわたくしはお(いとま)させていただきますわ。わたくし、安心してコウン様にご報告に戻れます」


貞淑に、物寂しそうに、イヨリは姿勢を整えて、リンゲンの審判を求めた。


それは、内面はともかく、形式的には名門ハクソク家で淑女教育の薫陶を受けて成熟した、心優しき一人の女性の立ち姿であった。


そして、己の誇りの在り処を示すように胸に手を添えて、床に膝をついて気高く宣誓した。


「でも、もしもわたくしがリンゲン様のお役に立てるのでしたら、どうぞこの身、この命を、ご随意にお(つか)いください。わたくし、あらんかぎりの誇りをもって如何なる任にも臨む覚悟ですわ。いまさらこの(とし)になって、身命なんて惜しみませんことよ」

「この歳……って。先輩、もしも今すぐ死ねば、『まだお若いのに』てみんな惜しんでくれる歳ですよ、自信をお持ちください」


茶化すようなことを言ってリンゲンは顔を下に向けたが、それは心理的な疲弊が理由ではなかった。イヨリの真摯な眼差しを浴びて、不覚にも柔らかく綻ぶ口元を隠したかったのである。


リンゲンは顔を下げたまま、言った。


「正直言って、ありがたい。だが、なぜです? あんた……先輩なら、他の生き方も選べた……でしょう? いつまでもハクソク家(うち)に義理立てする必要はありません。先輩が望むなら、おれも兄貴も味方に―――」


一途、純真、忠義、不屈―――イヨリの美徳は、あまりにまばゆかった。


彼女の容姿の優れたること―――

彼女の武才の秀でたること―――

彼女の精神が純であること―――


他の生き方を選ぶ資格のあることは明白である。

にも関わらずイヨリはハクソク家への忠節を貫いている。


リンゲンはいつもそれを()()()()思っていた。

たまさかの財や境遇の優劣で人の生涯を定めるべきではないと、リンゲンは信じていた。

彼女が―――イヨリ・メシモウが、ハクソク家(じぶんんち)に囚われていることが、たまらなく辛かった。


そんなリンゲンの心境を全く考慮することなく、イヨリはその全てを吹き飛ばしにかかった。


勁烈(けいれつ)なる意思の奔流を、余すところなく無遠慮に溢れさせた。


「幼少のみぎり、死の間際にてコウン様に命を拾われ、ひとたび。

厚かましくも暖かい食と寝床、日々の糧をいただき、ふたたび。

非力非才の身の程知らずの身でありながら豪奢な士官教育の機会を賜り、みたび。

その後も受ける恩は数しれず、かけるご迷惑はそのゥン倍、そんな日々を幾星霜……。

でも、ぶっちゃけ、そんなの大したことではありませんわ!」


恩を受け、迷惑をかけている側が、それは大したことではないと断言した。


イヨリ以外の人物からその言を聞けばリンゲンは驚きを示したであろうが、発言者がイヨリであったため、リンゲンは少しも驚かなかった。


「わたくし、コウン様とリンゲン様、お2人のご兄弟が大好きなんですの。その想いに比べれば、ほかの理由なんて、いと小さきものですわ! 恩はテキトウに返済できますし、嫌になったら破産して、しらばっくれるだけですが、好きの想いは僅かたりとも減却いたしません! させません!」


イヨリは、己の揺るがぬ信念に則り、なるべくなるだけ、誇らしげに高らかに宣言した。


「好きだから、 お仕えするのです! 主を決めるのに他の指標はいりません! まことにおクソ喰らえでございますわ!」


それは誠に身勝手な、けれども揺るがぬ真実の言葉であった。


リンゲンは、不意に兄の意図を理解した。

そして、顔を起こしてイヨリをみた。

誰に恥じるでもなく、はばかるでもなく、真正面から、見据えた。


「先輩……もしもできるなら、おれは先輩にここにいて欲しいです。おれを助けてください」 


彼女の勇気に対して、せめてこのくらいは応えねば、立つ瀬がないと思ったのである。


そんなリンゲンの機微に気がつくこともなく、イヨリは満面に歓びの華を咲かせた。


「もちろんです! わたくし、うれしいです。リンゲン様のお役に立てる日がくるなんて。さっそく、バリバリ冴え冴えナンバーワンのわたくしのお披露目タイムがっ!!!」


「あー、それは、兄貴といっしょ観たいので、また今度にしましょう。ます事務局にいきましょうか。手続きはいちどで覚えてもらいますからね」


「はい! でも、リンゲン様の分のお手紙は、どうなさいますの?」


リンゲンは苦笑し、椅子から腰を上げた。


「いや、いいんです。おれがバカでした。おれの方の……おれから兄貴への連絡ごとは、なくなりました。おれが本当に……バカでした」

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