27. ユーリンの敗北
覚悟をもって臨んだ。
幾度もその姿を思い描き、敵意を募らせ怨焦がれてきた。
いまさら取り乱すことなどない。
失う我など、とうの昔に喪っている。
そう過信していた。
ユーリンはリョウケイの姿を目の当たりにした瞬間、自身の理性が血の泉に沈む音を聞いた。眼前の景色が朱く染まり、鼻腔には錆びた鉄の幻香が満ちた。耳鳴りで聴力が弱まり、何やら美辞麗句らしいものを並べるリョウケイの声が遠のいた。口中の塩味だけは現実であるように思われたが、どちらでも良かった。
この場のこの瞬間に、決着をつけたい。
ユーリンはそんな誘惑にかられた。
が、鍛えあげた理性が、己の狂気に手綱をつけた。
(よせ……殺せるわけがない。そんな容易く殺せるものか……)
リョウケイの強さは、ユーリンも熟知している。長年かけて、嫌悪をこらえて調べあげたのだ。
生来の天与の膨大なマナ。しかも、すべての魔法に適正をもつ無色系統の性質。固形化されたマナノードの助力なしでもほとんどの応用魔法を修得でき、意のままに高度レベルて行使できる。
身に纏う神秘も本物だ。この怨敵―――リョウケイは、いかなる卑劣な手管を講じてか、主神の一柱たる光神ルグスの寵愛を得て、加護を身に授かっている。
伝え聞く逸話のすべてが、真実、リョウケイが神に選定された人族の指導者のひとりであることを示していた。
曰く、
「悪霊の巣食う地をリョウケイは徒歩で横断し、慈悲を示すことで、大地を浄化して地の人々を救った」
「グラン帝国がさし向けた刺客の凶刃を、太陽の眩い輝きが焼き払い、その身を護った」
「凶行を重ねた賊徒がリョウケイの説諭を耳にして己の罪を悔恨し、心を改めて正義の使徒になった」
太陽、正義、救済、清浄、誠実―――いずれの理力も、まごうことなく光神ルグスの恩寵として知られる神秘である。
何より、グラン帝国がいまだ解放軍を殲滅できずにその勢力伸長を許していることが、何よりもリョウケイの偉大さを裏打ちしている。
神々から気まぐれな恩寵を賜わった人々の伝承は各所に伝えられているが、それを授けたものが主神の一柱ともなると、事情が異なる。それはもはや時代を変える力であり、半端な武力で鎮圧できる存在ではないのだ。同格の神秘を携えた名の知られた英雄でなければその刃を身に届けることすら叶わない。しかしリョウケイは巧みであった。自身がグラン帝国の深刻な脅威と目されぬように振る舞った。豊穣からは程遠いタジカン平原域に限定して活動し、グラン帝国の治世を脅かすことがないように慎重に行動した。自身の声望が高まりすぎないように、あえて地域の素行不良の若者たちや山賊集団を改心させて麾下に組み込んだ。それでいて、タジカン平原域の人民の支持を得られるように、グラン帝国の圧政には武を以て叛意を示した。しかしグラン帝国による統治を揺るがすことがないように、時には融和的な姿勢さえとった。結果、解放軍は、当地のグラン帝国軍にとっては悩みの種だが、グラン帝国全体にとっては脅威たりえず、殲滅するには難儀なほどに強靭だが、相応の犠牲を覚悟すればいつでも討伐でき、しかし存在自体がグラン帝国にとってはそこまでの不都合ではない、という曖昧な社会的な地位に就いた。解放軍の支配域で生活する人々にとっては生活には不自由がなく、グラン帝国の直接統治よりも幸福であった。それはあたかも幻想を基盤に成り立った独立国家のようであった。それを確立させたのが、解放軍頭目のリョウケイの力量であり、それを可能にしたのが光神ルグスの加護である。
ユーリンにとっての怨敵の、それは紛れもなく輝かしき業績であった。
すべてが、憎かった。
何もかもを破壊してやりたかった。
リョウケイも、
リョウケイに加担する人々も、
リョウケイの恩寵の元で幸福を得る人々も、
リョウケイの増長を認める世界の構造そのものすらも。
―――すべてがユーリンにとっては、『敵』であった。
ずっと、手が届かぬところにいた。
それがいまは、手の届くところにいる。
手を伸ばせば触れられる―――ならば残すは、手に『何を握るか』のみ!
最後のピースはまだ見つかっていない。
いかなる存在であれば、光神ルグスの加護を打ち崩せるのか―――だがそれはこれから探せばよい。必ず手に入れる。何を犠牲にしてでも、必ずリョウケイを殺す。
そして、リョウケイが過去から築き上げてきた一切を灰燼にする。リョウケイの名が良きものとして周知され、そしてゆくゆくはやがて書物にも記録されることなど……それだけはユーリンには耐えられない。二度を超えて三度も心を蹂躙されて、生きてなどいられない。それはユーリンにとって、自分の命よりも遥かに重要なことだった。そのために生き、そのために死ぬ―――少なくとも今日まではそのために生きてきた。ならばこれからも、同じである。
(人は、変わらない。変われないし、変わるべきではない。リョウケイ、おまえが『英雄』に列席されるだと!? それだけは絶対に許さない、ボクは永久におまえを許さない。おまえの名は永久に蔑まれるべきなんだ)
悲願成就。その言葉がユーリンの脳裏にチラついた。
「……やっと……やっと、ここまで……」
「ユーリン、約定を違えるな」
「……っ! ……うん、ありが……とう」
傍らの関羽の声で、ユーリンの煮えたぎった思考が冷却された。
手が届いたところで、想いまで遂げ届けられるとは限らない。
そこは別次元の課題だ。
手を届かせるのは環境だが、想いを届けるのは人の心である。
まだまだ、ユーリンには足りないものが多くある。
そもそもリョウケイを殺せる方法が、ユーリンの手元にはまったく無いのだ。
多難を乗り越えてここまできたが、前途に残る難の多さに陰りはない。
(落ち着け、いま焦って台無しにしてはならない。最高の状態でここまてきたんだ。焦ることはない)
遠くから、まるで慕情のように恨みを募らせ蓄えた怨念に身をよじらせながら、ユーリンはいままで生きてきた。
あの4人のうち3人はすでに殺した。
しかしそれはリハーサルのようなものだとユーリンは思っていた。
残る1人……リョウケイ。これが最後で、これが本命だ。
(リョウケイ……おまえが過去から何を想い何を遂げ、これから何を願って何を成そうとしているのか……それは関係ない。ボクはおまえの一切の未来を認めない。おまえは過去の所業のみによって裁かれるべきだ)
その時、ユーリンの蒼色の瞳が、リョウケイを真正面から捉えた。
リョウケイは、まるでユーリンの未熟な感情を宥めて、もののついでにユーリンを誘惑するかのように、優しく微笑んだ。
すべてを見透かすかのような、超然たる眼差しだった。
ユーリンの嫌悪感が沸騰するよりも先に、ユーリンの心肝が凍てついた。
(なっ……!?)
リョウケイの全身にマナが漲り、高難度の魔法が瞬時に組み上げられた。
リョウケイの身体から横溢する膨大なマナの色合いは、ユーリンにとって不幸なことに、ユーリンにとって深い馴染みのあるものであった。
『精神魔法:心裡鑑偵』
(……まさか!? リョウケイがコレを修得できるはずが……?)
リョウケイは周囲の人間たちには気取られぬままに、魔法を発動させた。それはユーリンにとって唯一の模倣可能な応用領域の精神魔法である。
(あり得ないっ……! 精神魔法のなかでも、この魔法は『心』の解像度が法理のすべてだ。だからこそ唯一、ボクがわずかにでもマネができる高等魔法! コイツが……この男が、他人の心を識るための努力をしたというのか!? 絶対にあり得ない、あってはならない!)
リョウケイが無造作に放出するマナの波濤は、ユーリンにとっては暴力的な高密度の質量であった。そして、繰り出されたのは、ユーリンの児戯じみた模倣モノとは別水準の、本物の高等魔法であった。
身に宿すマナの乏しいユーリンには永久に手が届かぬ、魔道の秘奥の入り口に位置する高難度魔術である。
(どうする!? イチかバチかいまここで殺るか? いや、ダメだ、そんなヤケクソで『ルグスの加護』を突破できるはずがない……! )
ユーリンは、細身の軽量な身体つきの許す範囲で、可能な限り自己の武力を鍛錬してきた。
だが、それで獲得できた身体能力、近接戦闘の技能が、グラン帝国軍の放った刺客を凌駕しているとはまったく考えていない。
(考えろ……! コイツの精神魔法を防ぐ方法を。心への侵入を阻止する手だてを)
考える、という切実な欲求が関羽と交わした会話の記憶を手繰り寄せた。
―――兵は詭道
―――能うならばそれを秘し、能わずならば得手を演じる。そうして局面を自らにとって有利に導くのだ
(……演じよう! いまさえしのげばそれでいい。『徹頭徹尾の竜頭蛇尾』でかまわない! まるで大義に情熱を燃やす愚か者のように、ボクはボクを変える)
閃いてからは、早かった。
思考は深く、決断は瞬時に、行動は即座に。
(ボクはボクをいまから殺す。ボクはボクを創る。ボクはボクを大義のために解放軍に参加させてやる)
ユーリンは、体内のマナを流動させて、精神魔法を行使した。決してマナを外に漏らさず、リョウケイに気取られぬように細心の注意を払いながら。
ユーリンは身に宿すマナに乏しい分、その流動の制御と隠蔽には非凡な適性があった。
『精神魔法:自己暗示』
精神の魔法においては最も簡易な初級魔法であり、ユーリンにとっては安定行使可能な魔法の中で最高難度のものである。
術者自身の精神を調律し、心理を部分的に染色することができる―――いわば、強固な思い込みを作為的に定義する魔法である。
魔法を学ぶ者にとっては、精神構造を理解するための練習用として気軽に行使される初級レベルの魔法である。
枯れ草を絞って雫を得るかのように全身のマナをかき集めて、ユーリンはようやくこの初級魔法を発動できる。
技巧の不足は修練で、
マナの不足は執念で、
想念は結末に収斂する。
『精神魔法:自己暗示』。
―――ボクは、大義のために、解放軍に身を投じる!
ユーリンは、ユーリン自身の心裡内奥を蹂躙して解体し、再構成を試みた。
―――ボクは、大義のために、解放軍に身を投じる!
耐え難い恥辱を、自らの深層心理に植え付ける。
胸糞の悪さを堪えながら、ユーリンはひたすら『自己暗示』を重ねた。
リョウケイの『心裡鑑偵』を欺くためには、手段を選んではいられない。
―――ボクは、大義のために、解放軍に身を投じる!
リョウケイの眼から緩やかにマナが放たれた。
それは秋口の草花の芳香のように、ふんわりとおぼろに漂った。『心裡鑑偵』―――術者のマナに触れる者の心理の裡を鑑定し、その心に秘めた精神のあらぬる起伏を白日のもとに照らす魔法である。他者の心を解剖してつぶさに見定める―――魔道の秘奥への確かな順路をつなげる高度魔法である。
ユーリンは反射的に嫌悪感を覚えたが、それを表にする余裕はない。
ひたすらに、乏しく儚い初級魔法『自己暗示』を積み上げて、紡いだ。
ユーリンの心には、大義の炎が燻り始めた。
そして、またたく間に燎原の火のごとく、軽やかに広がってユーリンの心を埋め尽くした。
わずかに残された正気のなかで、ユーリンは孤独に思案した。
(術は成功した。……だけど、解除のためのキーワードを設定しないと。いつか必ず誰かに暗示を解いてもらわなきゃ、ボクは最低最悪最愚最恥の、笑いも憐れみもない惨めな道化だ。確実に、近い将来確実に聞ける言葉……自己暗示の解号になりえる都合の良いキーワード、レアリティと心理衝撃を伴った、『目覚める』感に違和のない何かの転機になりそうなキーワード……なにか、無いか……!?)
ユーリンの心理を焦がす炎が、最後の正気に火を移した。
―――刹那、ユーリンは決意した。
(……信じるよ、ウンチョー! ボクは最後にキミだけは信じぬくことに決めているんだ)
なんら保証のない賭けに、ユーリンは命運を投じた。それはユーリンにとって、初めての理性なき冒険であった。
多大な勇気を要する決断であったが、ユーリンは勇気とは異なる理力を用いた。
ユーリンは、自らの執念と未練に限度を設けたのだ。―――それが成らないのならば、いっそ道化のまま朽ちるのも悪くない、と。心底からその結末もアリだと受け入れ覚悟を決めた。自暴自棄。ユーリンは冷徹に自らを価値なき者として捨てることができるのだ。
しかし、その自己矛盾に、ユーリン自身は気がついていない。
関羽が憂慮しているのは、まさにその点なのだ。
己の器を超えた恨みを無理に込み干せば、惨めに焼き爛れた人の残骸が残るのみだ。過去を忘れられず、未来にも歩めず、ただ己の内面を反芻するだけの生きた屍ができあがる。
だからこそ、人は己の器を超えた恨みは、果たして晴らして己を護ろうとする。
それは自己保存の本能なのだ。
命を引き換えとしても恨みを晴らそうとするのは、裏を返すと、命を引き換えにしても己を保ちたいと願う気持ちの現れなのである。恨みを晴らすことのみが、己の健やかな命をつなぐ手順であることを知っているからこそ、死を覚悟した復讐が成立するのである。
ユーリンは、その矛盾には気づいていない。
徹底的に目を逸らしている。
そして、ユーリン自身としては、いとも順当に己を捨てる決断を下した。
すべては、命を捨ててでも果たすべき復讐を実現するために。
(くそっ! いまはボクの負けだ。だがそれでも必ず殺すぞ、リョウケイ! おまえの惨めな死を抱擁するまで、ボクは先に進めないんだ)
が、しかしすぐに、そんな想いも、―――偽りの大義の炎にのみ込まれた。




