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25. 後味は、悪くない


翌日の空は、日差しが弱々しかった。

ぼんやりと迷い悩むような雲が一面に広がり、蒼天を薄く覆っていた。


ユーリンは歩きながら、隣の関羽に声をかけた。


「ウンチョー、どしたの? 目がうつろで表情がツルテンだよ。心をお空に預けてしまったのかい?」


関羽は、今日はじめてユーリンと会ったかのような顔をして、鈍く反応した。


「ん、おお、ユーリンか。そなた……おったのか?」

「昨晩から片時も離れずずっと側にいるよ! そろそろボクも本気で怒るからね。伸びかけのヒゲを余さず剃ってツルッテンテンしてやる……それで? ウンチョー……ほんと、どうしたの?」


軽薄な態度を装ったまま、ユーリンは油断なく関羽を観察した。

そして、以降、ユーリンは言葉を発しなかった。関羽の心が確かに地上にあり、めくるめく思考の迷宮を深く探索していることを、肌で察知したためである。


関羽とユーリンは、解放軍と同道して人民兵団100人を統帥し、時折こうして2人で会話していた。

解放軍の拠点の1つである『フノーゼの村』まで、およそ1日の距離を残していた。


関羽は顔を曇らせて思案顔のまま歩いている。やがて、ぼそり、とつぶやいた。


「儂は、己の未熟を恥じておった」 

「そっか」


ユーリンは、うなずいた。

さもありなん、と納得したのである。慎重に言葉を選んで、関羽を励ましにかかった。


「……リンゲンを相手にして命があるだけで、すごすぎるくらいに凄いことだよ。―――いまだに心がゴワゴワするよ、もしもほんの一欠片でも運命が違えば、どんな結末だっただろう、て……。……もちろん、ボクは微塵もウンチョーを疑ってない。その言動性質が剛直正道であることはもちろん、武勇も絶後の域にあることをただのひとときすら疑ったことは―――」


「チョコレートクッキー。あれは天上の喜悦であった……」


「えっ……そっち?」


「あのような逸品があったとは。この関雲長、この齢になるまで知らなんだ。己が不明を惜しむばかりだ」


「リンゲンは!? ……て、もしかして、ウンチョー、甘いの大好き?」


「なっ!?」

若武者らしい精悍な顔を、熟れたナツメのような赤色で染めて狼狽した。

「な、ない。ないぞ。左様なことはない」 


「ふうん、そうなんだ?」

そうじゃないよね? と聞こえるようにユーリンは言った。

「じゃあ、チョコレートクッキーの残りはボクがもらっちゃうよ?」


昨晩、エルマンから受け取ったチョコレートクッキーの小袋は、ずいぶんと軽量になっていたが、まだ確かな膨らみを残していた。


「……、……っ、……くっ……む、無論だ」

関羽は、無論、と言ったつもりで、なにやら(うめ)いた。

「それは、そなたが食すが良い。儂も昨晩は堪能したが、それは物珍しさからくる好奇心であるぞ、進物を尊ぶのは至極当然の礼節である。―――あるいは身体の疲労ゆえやもしれぬ。甘味が疲労の回復に長じることは知られておろう、儂はリンゲンなる将との戦いでひどく困憊しておった、ゆえに武人としての―――」


ユーリンはくすくすと笑った。


「ウンチョーはウソが上手だね」

「偽りではない。この関雲長、甘味に心奪われたことなど一度もない。左様な武人らしからぬ嗜好は持ち合わせぬ」

「疲労に効くなら、なおのこと武人には必要じゃない?」

「しかし、男として、あまりらしくない」

「ウンチョー、あんまり『らしく』にこだわるのは、器が小さいんじゃない? 食の好みなんて戦いの勝敗には『ご縁がない』んだから、セコセコするとヨワヨワしいよ」


ユーリンは、我がことのように喜んだ。


「もしもウンチョーがホントに大将軍だったとして、もしもウンチョーの部下がスイーツ大好きだったら、ウンチョーはその人を降格させちゃう?」

「……せんな。狭量に過ぎる」


返答しながら、関羽は胸に苦いものを覚えた。ユーリンとしては、もとより当然の返答として「否」を想定して発した問に違いない。


いまの関羽ならば、たしかに「否」である。同志同僚に対して、その人の内面的な趣味思想で評価を下すことは、断じて、しない。


―――では以前の儂であれば?


しない、とは断定できなかった。甘味ではなくとも、武人らしからぬ趣味に興じる者があれば、それを無言で認める度量がかつての己にあっただろうか。―――関羽には自信がなかった。否、もしかすると、自覚のないうちに失敗を積み重ねていたのかもしれない。部下の趣味や性質について、無用な叱責やあげつらいを浴びせることがなかったか―――と、関羽は己の過去の素行を疑わしく思ったのである。


いまの関羽にとって、少し以前までの自分は、まるで別人のように感じられた。

しかし、これまで築きあげてきた関羽としての生き方がある。それはいまの肉体にもたしかに根ざしているのだ。


関羽は、内心の迷いを隠して、ユーリンに告げた。

 

「儂は、関雲長である。四方山海に及ぶまで名を知らしめ、以て漢王朝を守護する写し身たらねばならぬ。スイーツなどという軟弱趣味に関心ありとの浮名を許せば、威信の低下を招きかねん」

「ってもさぁ、ボクの耳にまではウンチョーの名前は届いてなかったよ」

「ぬう……」


関羽としては、言葉もなかった。


それに構わずユーリンが、からかいとも説諭ともとれない言葉をつなげた。


「ウンチョーがいくら故郷では有名でイメージ戦略の都合とかあったとしても、どうせここらへんじゃ無名なんだから、ハッチャケちゃってもいいんじゃない? ここらへんにウンチョーの名前が届いてないってことは、ここらへんで何をやってもウンチョーの故郷までは聞こえないよ。いくら『人の噂は飛竜より遠く早く届く』といってもさ」


「それは、一理ある」


漢王朝の名前すら及ばぬこの地域で関羽が如何なる破廉恥な振る舞いに及ぼうとも、その風聞が巴蜀の地に届くとは思えなかった。


関羽は抗い難い誘惑の香をかいだ。

脳裏にくすぶる微かなチョコレートクッキーの甘く気高い芳しさが、たちまち口中を満たす魅惑の幻覚となって関羽の理性を襲った。


「やっぱ、スイーツ、好きでしょ」

「いや、その。それは……すまぬ。考えさせてくれ」


関羽が自白した点についてはあえて触れず、ユーリンは励ましと慰めに、励んだ。


「スイーツが嫌いな人なんて、いないよ。だから堂々としていれば良い。たくさんのスイーツをこのエレバス界にもたらしたヨーコ様に感謝しながら、しんみり味わえば良いのさ。どうせ一生では食べきれないくらいバリエーションあるんだし、気ままなスイーツ探索に臨むのが望ましい」


関羽の動きが、ピクリ、と止まった。


「たくさん……だと……?」

「うん? うん。うん、そうだよ、どうしたの?」

「他にもあるというのかーっ!? チョコレートクッキーの他にも、数多(あまた)のスイーツがあるというのか?」

「あるよ! それはもう『いっぱいの! たくさんだ!』よ」

「『ヨーコのおと』なるものは、それほどまでに深淵なのか!?」

「人によって、読めるページが違うらしい。おまけに、……特定の村や一部の氏族にしかつくれない、とか。人間には作れなくてエルフやドワーフなら作れる、とか。戦乱で物騒な地域をアチコチ巡って材料をかき集めなきゃいけない、とか。いろいろな制限がついているんだ。だから、『陽子Note』の全部を食べ尽くした人なんて、いないんじゃないかな。だってそれこそ『世界中があまねく平和でみんな仲良しで誰もが豊かに暮らせる時代』を創世でもしないと、とても無理だもの。ああ、ヨーコ様、どうしてそんなイジワルなカラクリをお遺しになったのです? ボクはこんなにも貴女のことをお慕い申しあげているのに、その点だけはどうしても納得いたしかねます。……うわーん、でも、好きっ!」

「そうか……他にも、他にもあるのか……」


独りで艶めかしく盛りあがり嬌声を漏らすユーリンをよそに、関羽は考え込んだ。


昨夜、関羽は初めてスイーツを食した。

衝撃であった―――芳醇な幸福の原液を、脳天に流し込まれたような陶酔だった。舌が、鼻が、喉、臓腑、全身の爪の先までが沸き立つような歓びに震えた。スイーツがあるだけで、いかなる艱難辛苦をも飛び越えられると確信できた。


(人間とは、スイーツのために生き、スイーツのために死すのではないか。あるいは儂自身がスイーツそのものであるのやもしれぬ……)


関羽の心は、まるで黄巾の乱のような混迷に陥り、やがて、董卓の眷属の台頭を招いた。


(ぜひとも……すべて……すべて食してみたいものよ)


酒池肉林のごとき驕慢な欲望の芽生えを自覚した。その瞬間、関羽の中の関雲長がウンチョーの顔を己の腕で殴りつけさせた。鼻血が飛んで、散った。


昨晩から片時も離れずに関羽の側にいるユーリンが、関羽の突然の凶行に驚いて叫んだ。


「ウンチョー!? ……まさか『狂乱の魔法』に? でもキミに限ってまさかそんなことは―――」

「案ずるには及ばぬ」

「心配だよ! 『心配しないほうが心配になるくらいに心配』だよ!」


関羽は毅然とした態度で、ユーリンの不安を制止した。


「案ずぶなと申ひている。これはその、スイーツのためで……」


関羽の止まらない鼻血の原因が昨晩のチョコレートクッキーでないことは間違いなかった。


「未だ世は定まらず、太平は遥か彼方にある。万民が日々の糧に窮し、戦乱の火種の兆しは各所に燻っている。かような現状において、この儂が、みだりに美食を希求するかの如き浅ましい欲望を抱くとは……儂は、儂は己が許せぬ」

「んー? つまり『ひらたくようやく』すると『スイーツ食べたい発作で自分の顔を殴る』なのかい?」


「……うむ」

関羽は恥じて消え入りそうな声で首肯した。


ユーリンは、すっかり得心した。

「だったら『大納得の大団円』さ。人間てそういうトコあるよね。あるある」


ユーリンは安堵し、関羽は不安を覚えた。


「そういうもの……であるか?」

「うん、ある。『あちこちありがち』。ボクも経験あるし、みんな身に覚えがあるんじゃないかな。かの聖カイロリン帝だってヨーコ様の没後は発作が酷くて周囲を困らせていたらしい。……なかには発作が病的に深刻で、緩和治療のためにスイーツを生涯求め続ける人もいるらしい」


関羽は愕然とした。若き頃より多くの書物に目を通し、学を深め識見を高める研鑽を積んできたが、『スイーツ食べたい発作で自分の顔を殴る』のが一般的であるとは知らなかった。


「かさね、重ね(かさね)て、己の不見識を痛感する」

「んな大仰なことじゃないと思うんどけどなぁ。ようはこらえきれずに悶えた(もだえた)だけでしょ」

「……かもしれぬ。しかし、あってはならぬことである。見苦しきところを見せてしまった。すまぬ。埋め合わせは、いずれの機会に」


ユーリンは呆れて、ジト目で関羽を見た。


「ウンチョーはさ、ホントにウソが下手だよね。ウソを避けること、少女が蜘蛛を恐れるが如しだ。ウソは『噛みついたり、毒針で刺したり、人を騙したり』……そんな悪いことはしないよ」

「至極当然と思うが?」

「……苦しくない?」

「苦しくとも、努めねばならぬ」 

「でもさ、それって、逆にウソじゃない? 『まんまそのまま』に作為でしよ。『自分にウソをつく』わけじゃん? 想いたいことを思うほうが、ウソから遠い思考法だと思うけどな。『好きなものは、好き』てぶっ放すほうが正直じゃない?」


ユーリンとしては、何気なしの言葉のつもりであった。舌と唇と喉の体操くらいの心持ちで発した言葉であった。


一方、関羽は慄然とした。

『関雲長らしく生きねばならぬ』と努めることは、当然の義務と信じていた。その中には、常に己を律することも含まれていた。

———武人たるもの、虚言を口にすべからず。己を偽ることなく、ありのままの現実を見据えよ。たとえ()()()()()()()()()()()()()になったとしても……。


関羽が想い描き、その実現に向けて邁進してきたあるべき武人像に、亀裂が走った。


が、すぐに気を取り直した。


(ついぞ儂は立派な武人にはなれなんだ)


関羽は、いつものようにアゴに手をやって、ヒゲを撫でようとした。

手はむなしく宙を切った。


どう繕おうとも、関羽は敗者である。無残な敗死によって故国を窮地に追いやり、挙句その償いをすることすら叶わぬ身である。

この期に及んで失うものなど何もない———。


何度も己にそう言い聞かせてきた。


昨日、飛竜ネヴィエルに騎乗して、関羽は空を舞った。

関羽にとって、空とは天そのものである。

関羽は天に登壇し、そこで———何も見なかったのである。

栄華も神仏も正義も人倫も、一切がなかった。

そこにあるのは無限に広がる無と、ぽつりと浮かぶ、自由な雲だけであった。


関羽は、関羽を長らく関羽たらしめていた高邁な理念の源泉に、枯渇の兆しを感じた。


「すっかり空っぽであるな」

「ん? チョコレートクッキーはまだちょっと残ってるよ。後でこっそり食べよう」

「ふふふ。……ユーリン、儂は昨日、戦いに敗れた」

「うん? うん……うん、知ってる。もう、ホントに心配したんだから」


ユーリンは思い出し泣きを堪えるように、目元に涙を蓄えた。


その様子を見て、関羽は悟った。

そして笑った。

己の『あるべき姿』を抱きかかえ続けることは、もうできない。

関羽にはその力量も義務もなくなったのである。


「———はっはっは! まさか! 儂が、戦いにおいて味方に心配をかけるとはな。……真に儂には何も残っておらぬ、ただの一つも無いのだ。ようやっと肩の荷が降りたわ」

「ウンチョーはいったい何を頭の中でグルグルさせているんだい? ただ『スイーツが、好き』て言うだけじゃないか」


ユーリンは心底から不思議そうだった。


「ウンチョーって、武器をもったら勇敢なくせに、自分をさらけ出すことにはいまひとつ臆病だね。認めちゃいなよ。『スイーツが、好き』て」

「ユーリン、もしやすると、儂はそもそも勇敢ではないのかもしれんぞ」


それは関羽にとって、後味の良い敗北宣言であった。

空の曇りが少し薄れて、やわらかな太陽が差し込んだ。




解放軍の拠点の1つである『フノーゼの村』に着いたのは、翌日の昼過ぎのことであった。


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