20. 天を抱いて
「ネヴィ? いいんだな!? マジのマジでコイツに身体を許すってんだな!? いまならまだなかったことにできるぞ。おれがこの場の全員ぶっ殺してやる。なぁ、本気なのか? いっときの気の迷いってんならおれは気にしてない。だから落ち着いてよく考えなおすんだ」
リンゲンが狂乱したようにわめきながら、相棒の飛竜ネヴィエルの意思を確認した。それは確認の体裁をとった、見苦しく惨めな撤回の懇願であった。
彼女―――飛竜ネヴィエルは、牙のつけ根をほぐすように短く鋭く唸って、リンゲンの痴態を一蹴した。リンゲンは地に伏してわなないた。
空の英雄『飛将リンゲン』のあられもない姿を目の当たりにして、エルマンとユーリンは顔を見合わせた。両名とも、タジカン域の司令官として就任したリンゲンについては、かねてより可能な限りの情報を収集していた。輝ける武勲の数々、北方戦域におけるエピソード、得意な戦闘の様式、生家であるハクソク家の軍部における影響力など、多様な視点から対処の糸口を探してきたのである。
その結果、グラン帝国と敵対する解放軍に所属するエルマンはもちろんのこと、目的あって当地で暗躍するユーリンも、リンゲンの動向を重大かつ致命的な懸念要素と結論した。遭遇して戦闘に至ることは、すべての未来を放棄することと等しい。飛竜の無尽蔵な機動力で単独行動する一騎当千の完全無欠の戦士など、大規模災害に等しい脅威である。ただひたすらに遭遇を避ける道を模索するべし、との結論に至っているエルマンとユーリンにとって、飛将の象徴たる飛竜の翼羽音は死の先触れと同義であった。
そんな不吉を奏でる飛竜の翼に未練がましくすがりつき、むせび泣く男がいた。阻止不能な無敵の戦闘力を有する英雄リンゲン当人である。
「ネヴィ、おれは信じてるからな。身体は許しても、心まで譲りわたすことはしねぇ、と。頼む、そう約束してくれ」
言葉の前後半で微妙な矛盾を抱えながらも、リンゲンは力なく立ち上がって相棒をみつめた。
次にリンゲンは、飛竜ネヴィエルの背にまたがる関羽をみた。
その目には、暗い感情は露ほども含まれていない。
「そんじゃ、行ってこい。なるべく死なないように気をつけな」
「誠に有難き運びなれど、その、本当によろしいのか?」
無論、関羽にとって飛竜への騎乗は初めてのことだが、武人の心境は熟知している。己の身を託す愛馬は武人にとって己の生命とも等しく、一時とはいえその背中を明け渡すのは、己の手足をもぎ取って貸し与えるようなものだ。初対面の、しかも敵対する立場の人間に向けて、できることではない。
そんな関羽の憂慮を、リンゲンは、さらり、と流した。
「いや、いいんだ。おれとコイツは対等なんだ。コイツがおまえを乗せてみたいと言ってる以上、おれが反対するわけにはいかない。だがマジで死んでも恨むなよ」
「なれば、しばし彼女と語らいの刻を頂戴いたす」
「……おれ以外の男を知っておく、いい機会かもしれん。……そう思うことにするよ」
飛竜ネヴィエルが首を傾けて、傍らに立つリンゲンと、背の関羽をみた。それは子供の無邪気な駄々を見守る母親の眼差しであった。心底から呆れながらも、彼らの愚かさを慈しむ暖かみがあった。
「振り落とすような飛び方はしないと思うが、気絶したらその場で放り捨てられる。目をつむるな、呼吸が疎かになる。怖くなったら空を、天をみて息をすえ。慣れるまでは下を向くな。あとはコイツを信じろ」
「心得た」
関羽とリンゲンは視線を交わし、頷きあった。
瞬間、大地が揺れた。
飛竜ネヴィエルが翼を広げて天をつかみ、その巨体を空高くに放り上げたのである。
漢寿亭侯関雲長はその生涯において、初めて空を飛んだ。
空とは見上げるもので、天とは仰ぐものである。
ゆえに天下に生を受けた遍く命は、天の下で生涯を終える。
それは絶対に揺らぐことのない、絶対の法であった。
関羽はいま、その天にいた。
蒼天に向けて駆け昇り、今、天を抱いていた。
眼前には無限の無があった。
一面の輝くような蒼の中に、己と、己が身を預ける飛竜があり――あとは天がひたすらにどこまでも広がっている。
「なんと、素晴らしき絶景であるか」
『何も無いこと』のみが、そこに『有る』すべてだった。
そびえ立つ巨大な無がそこに展開されていた。
関羽は、血潮が帯びた熱量に身を灼かれる思いだった。
鼓動が高まり、全身の脈が鐘のように震えて骨を削った。
冷えた大気が風となって身体を打ちつけても、全く寒気を覚えない。
関羽は、まさに天に立っていた。
天に立ち、大地を見下ろしていた。
飛竜の脇から下を仰ぎ見れば、まるで『空の蓋』をするかのように大地が横たわっていた。
草原の土と緑が遠方まで続き、その彼方には樹木生い茂る山があった。さらに遠く地平の果てには、空を貫くような鋭い山脈が連なっている。大地を縫うように川が流れ、森林が点在し、彼方には人の住まう街並みもあった。
もはや地上の人間は、粒ほどにもみえない。
(ユーリンたちがいるのは、どのあたりか? 帰路を見失ったか)
関羽は、笑った。
国失いの迷い人をしている最中に、地上を見失う迷子になろうとは―――。
「老境を迎え、汚名のみを残して死を待つ身になった今、こうも予想外のことばかりが続くとは。……かくもおもしろきものであったのか」
―――人とは。
関羽は己の手を眺めた。
手には何もない。
しかし関羽は、己の手に漂う血の臭いをいつでも見出すことができた。
思い返せば、血にまみれた生涯であった。
役人と結託した悪どい商人を義憤にかられて斬り殺し、故郷を出奔したのは30年以上昔のことである。以後、めくるめく血塗りの遍歴がはじまった。義兄弟の縁を結び、黄巾党を自称する賊徒を討伐し、董卓、徐州、呂布、魏の曹公の元に身を寄せたこともある。その後もひたすらに積み上げた戦歴、真偽定かならぬ逸話の数々。そしてその帰結としての、無惨な敗死。
不意に関羽は、自分を理解した。
自分が『虜囚われて』いたことを知ったのである。
目には映らぬ束縛の枷が、己をがんじがらめにしていたことに気がついたのである。
「儂は、何に?」
囚われて……?
関羽は頭を激しく振った。
関羽は常に、自らを由としてきた。
己を律する大義を掲げ、己の歩むべき道を常に己で決定してきた。
しかし、関羽は実感した。
自らを由とした生き方を貫いた結果、『自由』から遠ざかっていったことに。
関羽は揺らいだ。
信じていた信念が、頼りにしていた信頼が、足を支える足元が、まるで儚い幻のように思われたのだ。
崩れかかる世界を目前に、関羽は踏みとどまった。
武人としての、誇りを奮い立たせた。
「儂は、それを由としてきたのだ。今更いうても詮無きことよ」
―――ほんとにバカだねぇ
「なんと!?」
関羽の頭に、何者かの意識が届いた。
それが飛竜ネヴィエルのものであることを、関羽は疑問に思うことなく受け入れた。
―――自分の好きなこと、ちゃんと自分で探したのかい?
「好きなこと?」
関羽は自らを省みた。
好んで取り組んだことは、さまざまある。
「武芸の鍛錬、碁も指す、酒もよく嗜む。髭の手入れには時を忘れて没頭したものよ。あとは」
多趣味というほどではないが、それなりに遊興にも関心をもち、満足感のある私生活を過ごしてきた。
―――まだまだ子供だねぇ
「ネヴィエルどの、儂は、いまはこのような外見であるが、齢60に近く……」
―――自分を自分で探せないうちは、子供だよ
「……儂が、迷い人であると……?」
―――アンタ、患ってんだよ
「……至って壮健であるが」
―――こりゃ相当に拗らせたんだねぇ
それ以降、飛竜ネヴィエルは沈黙した。もとより声音なき会話であったが、関羽の脳裏に静寂が訪れたのだ。
関羽は辺りを見渡した。
空はどこまでも広く、限りなく、蒼く美しく澄み渡っていた。
そこには、天には、何もなかった。
ただひとつのものすら、なかった。
追い求め、想い続け、休むことなく仰ぎ見てきた天には、何も無かった。
否、ただひとつ、空にあり、空にあるべき存在を発見した。
それは自由にたなびき漂う、一条の雲であった。
ネヴィエルと関羽の飛翔を地上から見送ったリンゲンは、ひとり、ぼやいた。
「昔、兄貴に女をとられたときだって、ここまで妬ましいとは思わなかったんだがな」
未練を振り切るように肩をまわし、気持ちを切り替えるように首と背を伸ばした。
「まぁいい。アイツが気を許せるような男が世界にはまだまだ居るってことだ。そこは相棒として、祝福しよう」
そして、呆気にとられて身じろぎもできない解放軍の面々と向き直った。
エルマンは喉を吐き出すように口を大きく開けて硬直し、ユーリンは心配そうに空を見上げて身を固くしている。
リンゲンだけが、闊達に身を軽やかにしていた。
「さてと本題を進めようぜ。この件に限っちゃ、たぶんおれはおまえらの側なんだわ、コレ内緒にしてくれよ? ……事情を聞かせてもらえねぇか。少なくとも話すことで損はさせねぇよ」
グラン帝国軍に籍を置き、当地の司令官という要職にあるリンゲンの言葉と態度は、敵対する解放軍の軍事を統括するエルマンをして、十分に信用させ得るものであった。
それは、英雄リンゲンの器量のなした結果であった。
「そんじゃあよ、俺から説明させてもらうわ」
エルマンは、事の顛末をリンゲンに説明した。
グラン帝国軍が当地の民を非公式に連行していること、奴隷として密売されていること、解放軍がそれを襲撃にきたこと、叛乱によってグラン帝国軍の東の砦が制圧されたことなどを―――。
それはリンゲンの高潔な精神とは全く相容れない、グラン帝国の所業であった。リンゲンは怒りと恥に震える気持ちを堪えながら、それを聞いた。
関羽は地上に戻ってきた。夢心地という言葉を絵に描いたような恍惚とした表情で、浮き立つような足取りである。
リンゲンの相棒である飛竜ネヴィエルの背から降りて、まずネヴィエルに深々と頭を下げた。
「誠にかたじけない。生涯において、最良の刻であった」
飛竜ネヴィエルの大きな眼に、憐憫の光が宿った。それは惨めな幼子を哀れむ婦人の『情』であったが、それに気づいた者は、この場ではリンゲンと関羽の2人のみであった。
(上で何かあったか?)
とリンゲンは訝しんだが、ネヴィエルが自ら語る態度でない以上、追及はしなかった。
関羽は、次にリンゲンにも礼をした。
「得難い、誠に得難い刻であった。この関雲長、深甚よりの感謝をお伝え申しあげたい」
「おう。無事だったか。まぁアンタならそうだろな。……おれも知りたいことは全部知れた。礼を言うぜ」
関羽が空を舞う間に、リンゲンは解放軍のエルマンから事の顛末を聴取し終えていた。
関羽の帰還を待って、この場の締めに取り掛かった。
「事情は理解できた。おまえらが暴れて逃げるのは当然だわな」
リンゲンは、あっけらかんと理解を示した。
解放軍のエルマンが隠しきれない緊張を抑え込みながら尋ねた。
「俺たちを見逃す、てのか?」
「そりゃ拐われたら逃げるだろ、とーぜんそーする、フツーだ、フツー。むしろ大人しくホイホイされるヤツをオレは軽蔑するね。命の張りドキ間違えるなんざ、ダサさの極みだ。死ぬほど嫌なら死ぬ気で暴れて、そのまま死んだらいいんだよ。おまえらは立派だよ、いやフツーだ、フツー」
リンゲンは脱出してきた約100人の虜囚たちに対して忌憚のない評価をくだした。それは称賛であり、承認であった。
リンゲンが冗談めかした口調で、けれども真剣な目つきで言葉をつなげた。
「おまえら、うちの軍に入らねぇか?」
「……っ! ふざけるな!」
エルマンが割り込んで、叫んだ。リンゲンの器量は認めても、グラン帝国が敵であることは変わらない。
リンゲンはしょぼくれて肩をすくめ、けれども当然というようにエルマンの怒りを受け入れた。
「けっこうマジなんだけどなぁ。いまのうちの連中よりも、おれと気が合いそうだし……あ、これも内緒にしといてくれな。いやほんと、気苦労多いんだわ……。とりあえず、今日のところはおまえらと戦う気まったくない。ほんと、無い。おれは自軍が情けなくて泣きそうだよ。今おれが泣いてないのは、おまえら居るからだぜ、ひとりだったらマジで泣いてる。……コッチの身内の処分は引き受ける。時間は掛かりそうだが、有耶無耶にはさせねぇよ。そこはおれを信じてもらおう」
リンゲンの宣言は、圧倒的な説得力を伴って響いた。
その言葉に疑いを抱く者は、この場に一人もいなかった。
そして、リンゲンが幕締めを始めた。
そして、当然のように放たれた次の言葉に、一同は凍りついた。
「さてと。じゃあ一人分でいいぜ。首、置いていきな。それで手打ちにしよう」
戦慄が、奔った。




