18. 飛将リンゲン
グラン帝国軍東方辺境タジカン域の司令官として赴任したリンゲン・ハクソクは、当地の司令部付きの武官のことごとくを信用していなかった。当地から公式な報告として上げられる書面の内容と、実際の物資流通や軍の活動痕跡に奇妙な乖離が絶えないことを知っていたためである。中央の統制が届かぬ辺境で生じがちな、腐敗の汚臭の残り香であった。
リンゲンはグラン帝国の北方戦域において名を高めた武人であったが、グラン帝国軍中央部との折り合いが悪く、半ば左遷も同然に東方辺境タジカン域に派遣されていた。戦場においては華があり、その英雄のごとき人柄と武威を慕う兵卒からの声望は強かったが、作戦行動において独断専行に逸ること一再ならず、リンゲンを疎む同幕の感情も根強かったためである。リンゲンの実家がグラン帝国において武家の名門として誉れ高きハクソク家である事情もあわさり、組織運営の経験を積むという名目で辺境地域の司令官職に押し込まれたのである。
赴任直後から、リンゲンは精力的に働いた。豪胆実直で不正を嫌うリンゲンの仕事ぶりは大筋において正しく義に則っており、それが理由に在来武官との軋轢が日増しに大きくなった。
組織内部の———しかも自分の足元の人員の不正を捜査するためには、高度な政治性が必須となる。リンゲンは有能な男ではあったが、駆け引きや腹芸とは無縁の性質であった。
「おまえらさぁ、やっぱなんか隠しごとしてねぇか? ちょっと話、聞かせてくんない?」
当地が大規模かつ陰湿な不正の温床となっていることを確信しながらも、是正の糸口がつかめないリンゲンは、次第に苛立ちを隠さなくなった。
それがリンゲンと司令部付きの武官たちとの間に一層の亀裂をもたらし、グラン帝国軍東武辺境タジカン域司令部全体の機能低下の原因となっていた。
(やっぱクセぇ。コソコソとロクでもねぇ副業に勤しんでる連中がいやがるな。兵役と偽って現地民をさらって奴隷密売ってのは、本当のことなのか? いくらなんでもデマだと信じたいんだが)
その日も、周囲の武官らとの不毛な口論を経たリンゲンは、司令官室の事務机に脚を放り出し、独り孤独に考え込んでいた。
(うさんクセェし、面倒くせぇ。いいことねぇな、こんな役職。気ままに暴れるだけの前線が懐かしいぜ。……いっそオレも叛乱軍に参加して怪しいヤツらを直で絞め上げてやろうか。こいつらを力いっぱいぶん殴ったら、気持ちいいだろうなぁ)
益体もない有害な妄想に耽りながら、リンゲンは鬱屈とした午後を迎えた。
司令官室の部屋を飛び出して散歩を始めたのは、椅子を温めすぎて背中の汗が不快になったことだけが理由であった。
そんな事情で威嚇するような態度で職場を徘徊しはじめたリンゲンの耳に、聞き捨てならない単語が飛び込んできた。
様子を見てみれば、数名の武官が深刻そうな面持ちで熱心に密談に勤しんでいる。リンゲンはほとんど反射的に『肉体強化の魔法』を発動し、自身の鼓膜の感度を調整した。
———東の砦からの定時連絡がこない?
———今回はあそこが集積地だろう、何かあったんじゃないかと
———ただ遅れてるだけじゃないのか? 最後の掻き入れってことで、大掛かりになったんだろう……
リンゲンはすぐさま決断した。
誰にも相談する必要を認めず、隠密に行動した。
司令部の建物を誰にも気取られず走り抜け、庭先を駆け足で横断し、裏庭の森林にかけこんだ。木立の向こうに開けた空間があり、木製の簡易な雨除けの屋根が設けられている。リンゲンの『私物』として連れこんだ『相棒』の寝屋がそこであった。
リンゲンはいつものように、『相棒』とあいさつを交わした。
「よお、元気そうだな。急で悪いが、ひとっ飛び頼みたいんだ。付き合ってくれるよな」
『相棒』を係留する鎖や檻は、一切、なかった。精神的に必要がなかったためでもあり、物理的に無意味でもあったためだ。
空を駆る戦士———『飛将リンゲン』の長年の相棒は、小さくいなないて翼を広げ、リンゲンをその背中に迎えた。
タジカン平原東部に建立されたグラン帝国軍の小規模な軍事拠点の1つ———通称『東の砦』の物資を接収した総勢約400名の『叛乱軍』は、徒歩で広大な平原を進んでいた。見晴らしの良い草原を横断し、解放軍の根城のある山岳地帯を目指して東進を続けている。
空は快晴で澄み渡り、そよ風が心地よく行軍で暖まった身体を癒した。天候に恵まれているといえた。
「多少の強行軍は覚悟の上、今日中に可能な限りの歩数を稼ぐが吉である」
「あぁ、同感だ。こういう日にゃ行けるとこまで行くに限る」
関羽とエルマンは、少しずつ会話をするようになった。
はじめのうちはユーリンが間にたって2人の仲を取り持っていたが、すぐに武人同士で通じるところを認め合い、忌憚なく話を弾ませるようになった。
安心したユーリンは2人から離れて、軍内でただ1騎の馬をたどたどしく駆って行軍全体を見回って巡回していた。
「ボクには向いてないと思うんだけどなぁ」と未練がましく関羽に愚痴をこぼしながら、全員を慰撫するように交流し、解放軍約300名の兵士たち一人ひとりの顔と名前を記憶していった。「こんにちは! もしもオジャマでなければボクと少しお話しませんか? ボクの名前はユーリンといいます。天気もいいですし、風も気持ちいい! そんなわけで、差し支えなければ是非オジサンたちのお名前を———」とまるで脈絡のない会話であっても、天真そうな笑顔のような表情で愛嬌みたいなものを振りまきながら声をかけてまわることで、ユーリンは着実に解放軍の兵士たちと打ち解けることに成功していた。
関羽はエルマンとの会話を続けながら、そんなユーリンの様子を眺めて、しみじみと感じ入った。
(あれで当人に自覚がないというのが、恐ろしいところであるな)
人々が迷い苦しむ混迷の世において、最も恐るべき威力を発揮する才の1つが『人気』による『心攻』である。
関羽は瞑目して思いをめぐらした。胸中に敬愛する義兄の姿が浮かび、それと同種の輝きをユーリンの蒼天の瞳のなかに関羽は見出したのだ。そのまばゆさに目がくらむような未来を予感した。
しかし同時に、ユーリンの危うさも認めざるを得ない。屈託なく明るく振舞う光のような笑顔のなかに、隠しきれない陰りがある。精神の暗渠から湧き出る凄惨な狂気の棘が、不意に鎌首をもたげて表出するのである。
関羽は、出会ってから僅か一両日の間に、ユーリンの極彩色の二面性を正確に把握していた。
(違えてはならぬ。ゆめ違えてはならぬぞ、ユーリン。そなたの宝玉のごとき大才を、昏き沌に沈めては決してならぬ)
関羽の心は、漢王朝復興という大義からいささかも離れていない。帰路さえ明らかになれば、すぐにでもこの地を離れて巴蜀荊州に帰還すると決意している。
しかしそれでも、ユーリンの存在が巨大な未練であることは確かであった。
叶うならばユーリンを説いて共に連れていきたい———いまやそう願ってさえいた。
関羽は齢60に近く、旗揚げから共に戦ってきた義兄弟らも同じような年齢である。長大な余命が残されているとは、とても言えない。
夢を託せる後任の人材を関羽は渇望していた。むろん蜀や荊州の地には、数多くの才人がひしめいている。だが、それをまとめて導ける器は———いくら焦がれても得られる見込み無く、ほとんど諦めていたその悩みに対する完璧な回答とこの地で出会った。
(ユーリンと儂を引き合わせるために、神仏が儂をこの地に導いたのではなかろうか。なれば、ユーリンを何としても連れて蜀の地にたどり着かねばならぬ。それが……儂の最後の、最後の……務めか)
関羽は静かに認めた。己が、天下という舞台において、すでに役目を終えていることを———。
(儂の天命はここまでか)
関羽は頭上を見上げた。
蒼天は高く、雲はみえない。天はどこまでも快晴であった。
———否、天空が欠けた。
影が宙を駆り、太陽を遮った。
巨大な羽が上下し、天を遊弋していた。
(あれは……鳥か?)
関羽の内心の疑問に対して、傍らのエルマンが恐慌するように叫んだ。
「飛竜だ! なんでこんなところに……!」
「ヒリュウ……リュウ………龍か!? まさか、そんな」
関羽は目を細めて、天の威容をつぶさに見つめた。
それは確かに空を舞っていた。ただし鳥では決してない。それは関羽が見たことのない生き物であった。
人の背丈よりもはるか巨大な翼を広げ、城門さえも砕きそうな尾をもち、剣のごとく太く鋭い牙を口元に携え、蛇のごとき長身を鎧のような鱗が覆っている。
それは確かに伝承にある神話の生物、『龍』を想起させる構造であった。
関羽は呆然とした。昨日、目を覚まして以来、奇怪な現象と遭遇して、乗り越えてきた。記憶のない間に見知らぬ地に横たわり、身体は時を遡行するように若返った。
ここにきて極めつけが登場した。
『龍』
神の1柱とも崇められる存在が、眼前で空を飛び、緩やかに下降して地に降りたとうとしている。
関羽は震えた。
恐怖ではなく、感動が湧き上がるのを抑えきれなかった。
「なんという豪壮……なんという美しさ……」
見惚れ見蕩れて呆けて硬直した関羽の背中を、駆け寄ってきたユーリンが叩いた。
「ウンチョー、マズい。いまこのへんで飛竜といったら……」
巨大な翼が、緩やかに静止した。大空を自在に飛び、舞い、いまここに着陸したのである。
その生き物、飛竜の背中に、1人の男が乗っていた。
男が声を発した。
「おまえら、ちょっと話を聞かせてもらってもいいか? オレはリンゲンってんだ。たぶん悪いようにはしねぇから……逃げずに正直に答えてくれりゃあ、な」




