11. 早朝
翌朝、未明。
関羽は自身の身体が極めて快調であることを目覚めに実感した。近年の悩みであった眼や腰の痛みはまったく無く、手足が羽のように軽やかに動いた。青年期の健やかな肉体そのものであった。
昨晩、関羽は鏡の中の自分に問いかけた。「これは真に現実であるか?」と。答えは無論返ってこない。自問しても解は出ない。
「神仙のイタズラか、妖術の類か。あるいは儂の気がふれてしまったのか?」
埒のあかない問いを繰り返し、関羽はこの奇怪な現象を己の胸中にしまい込んだ。そこに狼狽の気色がないのは、関羽の不動の精神力によるものである。
「知れたことよ。儂はなんとしても義兄上のもとに還らねばならぬ。いまはそのための道のりを探すことに注力するのみ」
孫呉の意図、魏軍の動向、関羽の家族の安否、敗軍となった荊州兵たち、そして何よりも蜀の現状———気がかりは山積しているが、いまの関羽にできることはただ一点のみである。そのためにユーリンへの協力を決意したのだ。
関羽はまだ夜の明けきらない早朝から、ユーリンと善後策の協議をはじめた。
「ユーリン、そなたは儂の外見から齢いくつと判じるか?」
「……うーん、残念ながらまだおヒゲはそこまで伸びてないかな。おはようウンチョー、今日は忙しくなるよ。まずは帝国兵への尋問だ。死なせるまでは死なないだろうから、たぶんまだ元気なはずだよ。元気がまだあるうちに聞けることは聞いておこう」
昨日まで砦の守備を務めていた帝国兵たちは、全員、捕虜となって縄で雁字搦めにされ、砦の一室に押し込められている。
ユーリンは彼らから手際よく情報を聴取した。
帝国兵たちは、当然、はじめのうちは反抗的な態度を隠さなかった。
時間の浪費と感じた関羽が身を乗り出して険しい表情をつくった。
「テイ国兵士諸君よ。そなたたちはよく戦った。かくなる上、儂は無益な殺生を好まん」
「あー、えーっとね。ウンチョーはこう言っているんだ『必要だったら、ヤルって』。……でもボクとしては腹案がある。キミたちが捕らえて連れてきた人々がすぐ近くにいるだろ。彼らに審判を委ねたらいいんじゃないかな。ボクたちは用事がすんだらここを出ていくつもりだけど、キミたちも別れの挨拶くらいしておきたいでしょ?」
その言葉に兵士たちは顔を青くし、たちまち観念して口元を正直にした。
特に熱心にユーリンが聞き出したのは、この砦の周辺地勢や近隣の帝国軍拠点との連絡体制などの情報である。
「ふんふん、やっぱり書物だけじゃわからないことも多いな。実地の知識は貴重だよ、なるほどね。……ああ、オジサン、いまウソをついたね。ボクにはわかるんだ。ちょっとコッチに来てくれる? ウンチョーはココで見張っててね」
ユーリンは1人の兵士を縛ったまま隣室に連れ込んだ。関羽は兵士らとともに部屋に残り、奇妙な静けさに時の経過を待った。
関羽には判別がつかなかったが、ユーリンは兵士の1人が偽の情報を証言したことに気がついたらしい。帝国兵の1人が虚実の入り混じった証言で関羽たちを混乱させようと企てたものとみえる。部屋に残された兵士たちを注意深く見てみれば、薄ら笑いをかき消そうと不自然に緊張した面持ちを演じている者がいた。ユーリンはわき目でそれを瞬時に識別したのだろう。
その時、
「うぐっ……ぎゃああああああああああーーっ!!!」
隣室から兵士のくぐもった悲鳴が上がり、すぐに絶えた。兵士たちは慄然として、わななき始めた。彼らのなかにまだ残っていたユーリンに対する侮りが、隣室に連行された兵士の悲痛の叫びによって、完全に拭い去られた。やがてユーリンが1人で戻ってきた。その手には血にまみれた肉片が握られていた。それが兵士の顔から斬り落とされた『耳』であることは、その形状から、わかった。
ユーリンはその肉片を恭しく捕虜の兵士たちの膝元に供えた。兵士たちが怯えて後ずさる
「はい、コレ。彼の形見ってことでヨロシク。……怖がらないでよ、キミたちの仲間じゃないか。大切に持ち帰って家族のもとに還してあげるのが人情ってもんじゃないかい? ああ、彼のコトを心配しているのか。大丈夫、彼はいまはまだ生きているけど、すぐにコレは形見にするよ。だから心配いらない。それじゃあ話の続きだ。再確認だね、その北の砦の守備兵の人数についてなんだけど……」
尋問に区切りをつけた関羽とユーリンは、昨晩2人の会談の場にした士官室で情報を整理した。
ユーリンはすべての内容をつぶさに記憶しており、それを復唱して整理しつつ、勘所となる要点のみを図示しながら関羽に伝授していった。この地域に不案内な関羽はユーリンの描きだす図面をにらみながら、頭に入れていった。今後の行動がどのような進路を採るにしても、地理の情報は重要であった。
不意にユーリンが呟いた。
「……ウンチョーは怖くない?」
「そうだな。最も懸念すべきなのはテイ国の北の砦の動向であるな。全軍を以て強襲されては、人民をとても守り切れぬ。儂とそなただけであれば如何ようにもできるが、そういうわけにもいくまい。ここから距離のあるのが、僅かな救いか」
砦には、1騎のみだが馬がいた。連絡用の早馬であるが、関羽の見分では実戦にも応えられると評価できた。それを用いれば、関羽とユーリンの2人連れ程度ならば、万騎を相手取っても後れを取ることはないと関羽は自負していた。しかし、いま関羽の元には、帝国兵たちに奴隷として連行されてきた無辜の人々がいた。彼らを見捨てる発想は、少なくとも関羽にはなかった。
「やはりそなたの当初の見込み通り、解放軍の助勢を得て東進し、山野に紛れて散開するのが最善か」
「うん。そうだけど、そうじゃなくて。ボクのこと、どう思った?」
「……帷幄で幕僚参謀の任にも耐えられるだろう。叶うならば軍師殿に引き合わせてみたいものだな」
関羽は、今は遠い蜀の地で采配を振るう1人の人物を思い浮かべた。細身の長身に柔和な面持ちの『軍師殿』は、関羽の知る限りにおいて当代随一の智謀の持ち主であった。
「ウンチョーはボクのことは怖くないの?」
「そなたを? ユーリン、儂はそなたを高く評価しているつもりであるが、そなたは儂の脅威ではない。昨晩それを約定したが」
ユーリンは視線を自身の腕に向けた。そこには渇いて薄く剥落しつつある鮮血の跡があった。
「ひどい奴だとか、恐ろしいとは思わなかった?」
自らの陰惨さに怯えるように、不安を吐露した。その目は明らかに関羽による否定の言葉を願っていた。ユーリンが関羽から嫌われることを恐れているのが、年長者の関羽には一目でわかった。
関羽はユーリンの迷いを晴らす言葉を己のなかに探し、朴訥と語り始めた。それは関羽のこれまでの人生経験から学んだ正直な言葉であった。
「ユーリン、あれこそが将たる者の『仁』である。そなたは百余名の人民の安全を図らねばならぬゆえ、敵軍の偽報に惑わされることは決してままならぬ。さりとて捕虜として敵軍の兵卒に不要な流血を強いるのも将器を損ねる。なればそなたがしたように『一罰を以て百戒と為す』を実践するより他にない。最小の犠牲で最大の効果を得たのだ。そなたがやらぬのなれば、儂が同じことをするつもりであった」
「そっか。そうなんだ。ボクは『将』が務まるような柄じゃないんだけど、きっとやみくもに間違ったことをしたわけじゃないんだよね。ウンチョーにそう言ってもらえて、よかった。安心した」
ユーリンの表情の暗がりを、関羽の言葉が払暁の日差しのように明るく変えた。
窓枠をみれば、まさに朝日が昇りつつある時間であった。
「そういえば、帝国兵たちもウンチョーの故郷のことは知らない様子だったね。あの様子からしてウソではなさそうだけど、手がかりゼロとは、参ったな」
尋問の最後に、帝国兵たちに関羽の知る地名や国号について尋ねが、芳しい回答は得られなかったのだ。「ケイシュー? ショク? カン? い、いや、知らねぇ。聞いたことがない。ほんとだ、知らないんだ。信じてくれ。なにとぞっ! なにとぞ、お許しを」すっかり怯え切った帝国兵たちが恐慌状態になってお互いの顔を見合わせながら懸命に答えを探した。やがて誰もその言葉を知らないことを確かめると、泣き出さんばかりに平伏して命を懇願した。隊長格であった男が代表して頭を垂れたのを見届けて、関羽とユーリンはその場を去ったのだ。
ユーリンの見立てに、関羽も同意のうなずきを返した。
「そのようだな。前途には難が多そうだ」
「昨晩もいくつか書籍をあたってみたんだけど、少なくともグラン帝国側の資料にはそれらしい地名はなさそうだね」
「書籍? 持ち合わせがあるのか?」
瞬間、ユーリンは「しまった」という顔をした。それが真実の態度であることを関羽は直感した。
「あー、いや、そういうわけじゃないんだけど。えーとね、ごめん、ボクの頭の中の話なんだ。……ごめん、いや、いつかちゃんと説明する。約束する、ごめんね」
ユーリンは関羽を真正面からみて、包み隠さず包み隠して、詫びた。
「左様か。あいわかった」
関羽は、ユーリンが仔細をこの場で明かさないことには相応の事情があるのだと信じて、それ以上は追及しなかった。
追及を覚悟していたユーリンは、呆気にとられた。
「気にならないの?」
「興味深い。だがユーリン、儂はそなたを信じることに決めたのだ」
「……期待には応えるよ」
はにかみを微笑みで噛み殺し、ユーリンは嬉しそうに宣言した。




