10. 月灯り
感極まったユーリンの目元から、朧月のような雫がきらめいた。
「ごめんね。ホントにうれしいんだ」
ユーリンは自然体の素直な仕草で、手の甲でそれを迎えた。
関羽は不意に気がついた。ユーリンの肌理細やかな白い腕に、無数の負傷痕が残されていることに———小さな斬り傷や擦り傷もあれば、弓矢や槍の刺突によって穿たれた窪み傷も混じっている。関羽は意外に思った。ユーリンの立ち振る舞いにはどことなく高貴な品性が漂っており、関羽は暗黙のうちにユーリンを汚れを知らない深窓の令息のように誤解していた。改めてユーリンの全身に目を向ければ、細身の———関羽と比べればそれこそ矮躯ともいえる小柄な身体を、引き締まった無駄のない筋肉が覆い支えている。それが命の応酬によってのみ培うことができる凛冽たる武の勲であることを、関羽は今更ながらに———しかし即座に悟った。
窓から月灯りが煌々と部屋を照らし、ユーリンの姿を浮かびあがらせた。意思の強そうな切れ長の目元に、宝玉のように透き通った蒼色の瞳が輝いている。神仙の住まうとされる泰山霊脈の石英を溶かして梳かし、幾月も丹念に月光で色染めしたかのたような流麗な銀髪が、寂しげにユーリンの端正な顔立ちを縁取っている。
その光景は、関羽の審美眼を驚嘆させるに十分な美貌であった。
(美しいものだな……)
関羽とユーリンは、視線を交わした。ユーリンの麗顔を喜色の紅が鮮やかに飾っていた。
関羽は年甲斐もなく胸の高鳴りを覚え、自らを戒めた。照れ隠しというほどではないが、手持ち無沙汰を覚えた関羽は、いつものように顎元から伸びる自慢の髭を撫でようとした。が、その指先は虚しく宙を空振った。
「あっ」
「ぬぅ」
気まずい沈黙が訪れた。つい先刻、関羽は髭を失った悲しみのあまり激発し、武装した帝国兵を怒りのままに撃砕したのである。
現状の危険度指数を探るような目つきのまま、ユーリンが場を取り繕った。
「髭、伸ばしてた……んだよね?」
「うむ。無念だ」
関羽は長年かけて、髭を伸ばしてきた。終生の友として、慈しみ育んできた。
また伸ばすこともできよう。しかし、伸びた黒艶に掠れが混じる老境を迎えつつあった関羽にとって、残された時間には限りがある。いまから髭を伸ばし始めたところで、往年の艷やかな美髭に至ることがないのは予期できる。
「本当に、無いのか?」
溢れんばかりの未練を隠すことなく、関羽は弱々しく訊ねた。
「ウンチョーのお顔、ツルっツルだよ。鏡みてみる? 辛いかもだけれど」
「姿写しか。この際だ、覚悟を定めるとしよう」
ユーリンが頷き、部屋の片隅に視線を向けた。
つられて関羽も同じ方向に目を向けると、部屋の壁に小さな鏡があった。不格好な縁取りに鏡面を押しこみ、気障な装飾のひとつもない、実用だけの簡素な代物である。
患者に薬湯を処方する医師のような面持ちで、ユーリンが鏡を壁から外して関羽の手元に届けた。
関羽は決意を固めるように息を止め、鏡を覗き込んだ。途端、関羽の心胆が凍てついた。
「なっ……!?」
硬直した。驚愕のあまり、言葉はおろか呼吸すらままならない。大きく目を見開き、唇をわななかせ、喉は力なくうめき声を絞り出した。それがかろうじて言葉の体裁を保っていたのは、ひとえに関羽の意思の強靭さによるものだった。
「これはいったい、どういうことだ!?」
関羽は、生涯において、いまだかつてない衝撃に襲われていた。
「ショック、だよね………?」
油断なくいつの間にか部屋の外に避難して様子を伺っていたユーリンが、恐る恐る声をかけた。
「また伸ばしてみるのもいいんじゃない? ウンチョー、まだ『若い』んだから、きっとすぐ伸びるよ。きっと」
ユーリンの言葉が聞こえないかのように、生気を失った顔つきのまま、関羽はひたすら鏡を覗き込んだ。
まるで死人のように微動だにしない。
信じがたいものを目の当たりにした動揺が、意識を現実から引き剥がしつつあるのが明白に見て取れた。
「ごめんね、余計なこと言って、ごめんね。じゃあ、ボクは今夜はこの辺でお暇もらっちゃうね。積もる話はまだまだたっぷり積めそうだし、また明日たっぷりお話、しようよ。ね? おやすみ!」
嵐の訪れを見越したユーリンが、足早に離れていった。
ひとりで部屋に鏡とともに残された関羽は、いつまでも鏡と向き合っていた。
「これは、夢か、幻か? 儂は、何をみているのだ……?」
己の正気に疑念を抱いた。それを振り払うように顔をこすった。頬を叩いて熱を呼び、眼を曇らせる邪気を拭うように眉をなでた。
鏡のなかには、無論、関羽自身の姿が写っている。
だがその容貌は、関羽が思い描き予想していたものとは、まったく異なっていた。
そこには、若かりし日の関羽の姿があった。
忘れようはずがない。青年期、20代の頃の己の顔である。桃園の儀を迎えたあの日よりも若く、ちょうど生国を出奔したころあいの年頃に見える。
関羽が狂乱をきたしていないのは、酒を飲んだ自覚があるためである。
(よもや、あれしきの量の酒で悪酔いするなど)
性質の悪い酒精が、悪戯童子のごとく己の理性を愉快にかき乱したに違いない———関羽は醒めた理性のまま、あえてそう信じようとした。
だが思い返してみれば、覚えがある。帝国兵を相手に立ち回りを演じた際の、身体の俊敏さ、足腰の安定感、手に持った槍の軽さ、呼吸の深さ、視界の鮮やかさ———いずれをとっても、久しく失われた壮年期の身体能力ではなかったか。
関羽は己の身体をまさぐった。老境に差し掛かり、衰えを隠せず、朽ち果てるその時を如何にあと伸ばしにするかと悩んでいた、あの馴染みの身体を探し求めた。
かつて関羽は荊州を巡る争乱において、敵兵の矢を腕にうけて深手を負ったことがある。鏃の毒が骨を腐らせたため、肉を裂いて骨を削る治療を施した。その施術痕が腕にある。……はずであった。
傷痕のない、筋骨隆々たる、白虎のごとく美しい腕がそこにはあった。
関雲長の、若かりし日の肉体であった。
関羽は何かに突き動かされるように、怯えながら己の首に手を当てた。無論首はそこにある。首筋の脈打ち、生暖かさを掌で受け止める。間違いなく、生きている。
瞬間、関羽の脳裡に冷刃の光が奔った。まざまざと思い返すことができた。己の首を両断する剣の冷ややかさと、薄れゆく意識を焦がす傷の灼熱を。




