第九十八話 ドキドキしてる?
綾香のお腹がプニプニなのかどうか、素手で確認するという晴翔にとって心臓に悪いイベントがあったものの、洗いっこを終えた三人は、湯船に浸かる。
涼太は早速、持って来ていた二丁の水鉄砲にお湯を入れて、その片方を晴翔の方に手渡す。
「おにいちゃん! こっちあげるッ!」
「ありがとう涼太君。じゃあこれで…わぷっ」
言葉の途中で、晴翔の顔面にピュピュピュッと三連発で水がかかる。
「ふふふん! おにいちゃん隙ありッ!」
「やったな涼太君! お返しだ!」
「わはははッ!!」
晴翔が涼太目掛けて、水鉄砲を連射する。すると涼太はとても嬉しそうにはしゃいだ声を出す。
東條家の浴槽は、一般的なものよりも広い。それでも三人が同時に入っている状態では、さすがにあちこち動き回れるほどの広さは無い。
涼太は晴翔の連射を避ける事が出来ずに、バチャバチャと水鉄砲攻撃を受ける。そこで彼は、その攻撃を避ける為に綾香の背中に逃げ込んだ。
「おねえちゃんバリア!!」
「ちょ、涼太。私を盾にしないの! 卑怯じゃない」
「ひきょうじゃないもん! おねえちゃんは僕のヒトジチなんだよ」
いつの間にか涼太の手によって囚われの身になっていた綾香。
彼女は弟の言葉に「ふふ」と笑みを溢すと、晴翔の方に視線を向ける。
「だって晴翔君。助けて」
「これは彼氏として助けないとね」
「おにいちゃん! おねえちゃんを助けたかったら、その銃を捨てろ!!」
何かのドラマのセリフで覚えたのだろうか。涼太は立て籠もり犯の様なセリフと共に、綾香の背後から水鉄砲の銃口を晴翔に向ける。
「分かったよ涼太君。銃は放棄するよ」
晴翔は少し大袈裟な動作で両手を上げた後、ゆっくりと水鉄砲を下ろしていく。そして、下ろした水鉄砲が湯船に浸かりそうになった途端、ニヤリと笑みを浮べた。
「なんてね」
そう言うと、晴翔は両腕を大きく広げ、そのまま勢いよくお湯をすくって涼太目掛けて綾香ともどもバッシャンと頭からお湯をかける。
「きゃあ!」
「うわぁーあはははは!」
綾香はビックリした様な声を上げ。涼太は悲鳴の後に楽しそうに笑い声を出す。
「もう! 涼太のせいで私も道連れになったじゃない。このッ!」
綾香はわざとらしく、ぷっくりと頬を膨らませて後ろを振り返り、弟に手でお湯をかける。
「わはははッ! おにいちゃんがやったんだもん! えいっ!」
対抗する様に涼太が腕を振り回して綾香と晴翔目掛けてお湯を撒き散らす。
その後は三人でお湯の掛け合いが始まり、暫くの間、東條家の浴槽からは愉快な笑い声が響いた。
無邪気に遊ぶ涼太に釣られて、晴翔と綾香の二人も高校生である事を忘れ、大いにはしゃいで楽しむ。
そうやって、ひとしきりお風呂の時間を三人で楽しんでいると、不意に涼太の表情が曇った。
これまで満面の笑みだった彼の顔が、何かを我慢するかのようにギュッと歪む。
「ん? 涼太君どうしたんだい?」
水鉄砲を手放し、桶でお湯をすくっていた晴翔が、一旦その手を止めて涼太に声を掛けた。
すると、涼太は切羽詰まった様に言う。
「……トイレ行きたい」
「トイレ?」
「うん……ウンチ……」
「そっち!?」
晴翔は若干焦った様な声を出す。
そこに綾香が涼太に小言を言う。
「もう、ちゃんとお風呂に行く前にトイレに行っておかないと」
「うぅ……」
姉の注意に涼太は小さく唸ると、身体を小刻みに揺らし始める。
「漏れちゃう……」
「ちょッ! ちょっと待ちなさい! もうちょっと我慢して!」
どうやら涼太は、お風呂場で遊びたい気持ちが強すぎて、いままでトイレを我慢していたようだ。しかし、その我慢もついに限界直前となったらしい。
綾香は慌てて浴室の壁に設置されている浴室リモコンに手を伸ばし、通話のボタンを押す。
『はいはーい。どうしたの?』
浴室リモコンはキッチンの給湯モニターと繋がっており、郁恵の声が聞こえてくる。
「涼太がトイレに行きたいって!」
「お母さんウンチー!」
『あれま。分かったわ、脱衣所に行くから涼太を上がらせておいてね』
「ほら涼太。お風呂あがるわよ」
郁恵との通話を終わらせると、綾香が涼太を浴槽から上がらせる。そこに、脱衣所に来た郁恵が、浴室の扉の向こうから声を掛けてくる。
「扉開けていいかしら?」
その言葉に、綾香はチラッと晴翔の方を見る。
視線を受けた晴翔は、頷きながら涼太を扉前まで誘導する。
「大丈夫ですよ」
晴翔がそう答えると、扉が開き郁恵が涼太を受け取った。
「お母さん、はやく~」
「はいはい。急いで体拭いてトイレに行きましょうね」
郁恵は手早くバスタオルで涼太を包み込むと、彼の身体をゴシゴシと拭きながら晴翔と綾香の二人にニッコリと笑い掛ける。
「じゃあ、涼太は私がトイレに連れて行くから、二人はゆっくりと温まってきてね」
そう言うと、彼女は晴翔と綾香の二人を残して、浴室の扉を閉めた。
扉の向こう側からは「漏れちゃう~」「ちゃんと体拭かないと風邪ひいちゃうわよ?」という様な会話が聞こえてくる。
綾香は再び湯船に浸かり直しながら、呆れた様な表情を浮かべる。
「もう、涼太ったらはしゃぎ過ぎ」
「よっぽど皆でお風呂に入るのが楽しかったんだよ」
晴翔も綾香と対面する様に湯船に腰を下ろして苦笑を浮かべる。
涼太が去った後の浴室は、先程までの騒々しさから打って変わって、しっとりとした様な静けさが広がる。
「…………」
「…………」
晴翔と綾香はお互いに無言のまま浴槽に対面する形で座る。
先程までは涼太がいたお陰で、遊ぶ事に夢中になっていた。しかし、その涼太がいなくなった途端、晴翔の胸の内に急に気恥ずかしさが込み上げてくる。
彼女と一緒に水着を着てお風呂に入る。
まるで漫画やアニメの様な、現実離れしたシチュエーションに晴翔の鼓動は否応なしに速くなってくる。
それは対面で湯船に浸かっている綾香も同じらしく、先程よりも顔を赤くしながら、チラチラと晴翔の方に視線を向けていた。
晴翔はどんな表情をすればいいのか迷いながら、気まずさを紛らわす様に口を開く。
「……な、何かあれだね……やっぱり水着を着てお風呂って、ちょっと恥ずかしいね」
「……そうだね……」
涼太がいた事で気が逸れていた。だが二人っきりとなった今、お互いに視線の向け先に困りながら、ぎこちない会話を交わす。
「……この浴室、広くて良いよね」
「うん……ママのお気に入り、だからね……」
「そっか……テレビも見れるしね」
「……だね。見る?」
「あ~……いや、いいかな」
「今の時間はニュースしかやってないもんね……」
「うん……」
お互いに少し視線を逸らしながら、しかし時折チラッと目を合わせて赤面もしながら、ポツポツと言葉を交わす。
晴翔は、初めて綾香と映画を観に行った時の事を想い出す。
初めて彼女と手を繋いで、映画の上映を待っていたあの時の気まずさに似た様な感覚を今も感じている。
彼は心のどこかで懐かしさを感じつつ、想像する。
もし過去に戻って、家事代行を始めたばかりの自分に、近い未来に綾香と一緒にお風呂に入る事になると告げたら、いったいどんな表情をするのだろうかと。
その場面を想像した晴翔は、堪らずに「ふふっ」と小さく笑みを溢した。
「晴翔君? どうしたの?」
「いや、何でも。そう言えば前にネットか何かで読んだんだけどさ」
不思議そうな表情で、可愛らしく首を傾げながら問いかけてくる綾香に、晴翔はふと思い出した様に話し始める。
「恋愛感情って3年しか持たないって知ってる?」
「え? そうなの?」
晴翔の言葉に、綾香は少し驚いた様に目を見開いた。
「らしいよ? 個人差はあるみたいだけど、恋をしてドキドキしたりするのは3年間だけなんだって」
「それ本当?」
「どうだろ? ちゃんと調べたわけじゃないから。でも脳科学的にも、恋をして分泌されるドーパミンって物質も、3年くらい経つと分泌されなくなってくるみたい」
「へぇ、そうなんだ」
晴翔の説明に頷く綾香は、少し不思議そうな表情をする。
「でも、パパとママは結婚して3年以上たってるけど仲がいいよ?」
修一と郁恵は結婚して長いが、とても夫婦仲が良くて理想的な状態に見える。
「それは、3年以上経つと恋が愛に変わるって説明されてた気がする」
「恋が愛に?」
「うん、一緒にいるとドキドキしていたのが、3年経つとドキドキじゃなくて安らぎを覚えて、心が落ち着く様になるらしいんだよ。隣にいて当たり前、みたいな感じかな?」
「へぇー! なんかそれ素敵だね!」
綾香は瞳を輝かせて晴翔の言葉に相槌を打つ。
そして、少し俯いて考える様な素振りを見せた後に、おもむろに晴翔の目をジッと見詰めてくる。
「……ねぇ晴翔君」
「ん?」
「となり、いいかな?」
「え!? あ、う、うん……」
唐突な綾香の提案に、晴翔は戸惑いながらも頷く。
そんな彼の反応に綾香は頬を染めながらも、いそいそと移動をして ちょこんと晴翔の隣に腰を下ろした。
「…………」
「…………ふふ」
東條家の浴室は一般家庭よりも広いが、さすがに高校生二人が横に並んで座ると肩と肩は密着する様な形になる。
自身の肩に伝わる綾香の柔肌の感触に、晴翔は言葉を発せなくなる。
隣の綾香も俯き加減に口をつぐんでいるが、小さく嬉しそうな笑みが漏れていた。
しばしの沈黙が続いた後、綾香がゆっくりと晴翔の方に視線を向ける。
「晴翔君は今、ドキドキしてる?」
「そりゃね。この状況でドキドキしない方がおかしいよ」
晴翔は綾香の質問に、素直に己の内心状況を伝えた。
「一緒だね。私もドキドキしてるよ」
照れた様にそう言う彼女は、チラッと晴翔の腕に視線を向けながら、言葉を続ける。
「でも、3年経ったらこのドキドキはもう無くなっちゃうんだよね?」
「まぁ、個人差はあるだろうし、そもそもその話が本当なのかも分からないけど……」
昔にネットでチラッと流し読みしたような情報なので、晴翔としてもそこまで確信をもって断言はできない。
しかし、綾香は晴翔を見詰める瞳の奥に真剣な色を宿しながら言う。
「でも、それがもし本当なら、今の内にいっぱい晴翔君をドキドキさせておかなきゃ」
「いや、もう十分にドキドキさせられて…って綾香!?」
「えいっ」
彼女は体の向きをクルッと横に向けると、晴翔の半身に抱き着く様な感じで、彼の左腕を自分の両腕で抱き込む。
「ちょッ!? 綾香さん!?」
左腕から伝わってくる圧倒的な柔らかい感触に、晴翔は激しく動揺する。
そんな彼に、綾香も顔を真っ赤にしながら、上目遣いで囁く様に言う。
「さっきよりもドキドキしてる?」
恥ずかしそうにしながらも、若干小悪魔チックに微笑む綾香。
晴翔の心臓は、彼女の思惑通り爆発してしまいそうな程ドキドキしている。しかし、それをそのまま素直に口に出して言うのは、綾香の思い通りになり過ぎている気がすると感じる晴翔。
彼は少し抵抗する様に、全力で平静を装いながら答える。
「……どうだろうね?」
先程とは違い。必死に内心を誤魔化す晴翔。
それに対して、綾香は晴翔の瞳を見詰めてくる。
「う~ん。じゃあ、自分で確かめてみるね」
そう言うと、彼女は自分の右耳を晴翔の胸に押し当てた。
「ッ……」
左腕に抱き着きながら、晴翔の胸に頭をのせてくる綾香に、彼の鼓動は史上最速で脈打つ。
綾香はそっと瞳を閉じて、晴翔の胸に耳を押し当てその鼓動を感じる。そして、とても満足そうな笑みを浮べた。
「凄いドキドキしてるね」
「当然でしょ……」
「ふふ、嬉し……」
「……綾香だってドキドキしてるでしょ?」
対抗する様に晴翔が尋ねる。
すると綾香はゆっくりと晴翔の胸から耳を離し、少し首を傾げる。
「晴翔君も私の鼓動、聞いてみる?」
彼女のその発言に、晴翔の視線は勝手に綾香の胸に引き寄せられる。
自身の中にとても強い欲望が湧き上がるのを感じながらも、晴翔はなんとか苦笑を浮かべ、首を横に振った。
「…………いえ、遠慮しておきます」
「そう?」
「はい、これ以上は心停止してしまいそうなので」
「それは困っちゃうな」
そう言いながら、綾香は再び晴翔の胸に頭をのせてくる。そして、彼の鼓動を感じているのか、心地良さそうにそっと瞳を閉じた。
本当に3年経ったら、このドキドキを感じられなくなるのだろうか?
晴翔は昔読んだネットの情報に、大きな疑念を抱くのであった。
お読み下さり有難うございます。
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