第九十話 東條家からの提案
修一からの電話の後、晴翔はソワソワとしながら東條家のリビングで時間が過ぎるのを待つ。
隣では綾香が、落ち着かない様子の彼を心配する様な、それでいてどこかワクワクしたような表情で晴翔を見詰めている。
2人はあまり言葉を交わす事無く、リビングのソファで修一を待つ。
そして、電話が来てから40分ほどが過ぎようとした時。
家の外から、車の音が僅かに聞こえてきた。
「あ、パパが帰って来たみたい」
綾香のその言葉の後、すぐにガチャリと玄関の扉が開く音がし、やがて修一がリビングに姿を現した。
晴翔は座っていたソファから腰を上げて、修一に対して頭を下げる。
「こんにちは修一さん。お邪魔しています」
「こんにちは大槻君。すまないね待たせてしまって」
朗らかに言う修一は、ビシッとスーツを着ていて、どこか経営者としてのオーラをまとっていた。
晴翔はそんな修一の姿に格好良いなという感想を抱くと共に、修一と郁恵の遺伝子をしっかり受け継いだ綾香が、学園一の美少女と言われるのは必然か、などと言う事を頭の片隅でぼんやりと考える。
修一はリビングに入るなりすぐにテーブル前のソファに腰を下ろし、晴翔にも対面に座る様に促す。
「早速で申し訳ないんだが、話をしてもいいかな? 実はこの後会社で大事な会議がもう一つあってね。あまり長居は出来ないんだよ」
正面に座った晴翔を見ながら、修一は申し訳なさそうに言う。
大事な会社の会議が控えているのに、わざわざ家に戻って来てまでする話とは一体何なのか。晴翔は若干の緊張を含んだ表情で対面に座る修一を見る。
「あの……すみません。そんなに大事な会議を控えているのに……」
「いやいや。確かに、会社の会議も大事だが、これから君に話す事も東條家にとっては、とても大事な事なんだよ」
「あ、あの、その大事な話とは一体何なのでしょうか?」
晴翔の問いかけに、修一は真面目な目で彼を見詰める。
その姿は、普段の少年の様な明るく親しみやすい雰囲気とは打って変わって、会社の経営者としての風格に満ちた、威厳のある大人としての雰囲気を醸し出していた。
「この話をするにあたって、まず大槻君に伝えておきたい事があるのだが」
彼はソファの背もたれから僅かに背中を離し、緩く両手を組んで、まるで商談をするかのように話を始める。
「私がこれからする話は、決して大槻君や君のお婆様に同情しているからではない。君が綾香の彼氏だから、融通を利かせて助けてあげようというものでも無い。純粋に私達の家族。東條家にとって利があると思ったから提案するものだ。この事を前提に私の話を聞いて欲しい」
「はい、分かりました」
「うむ。では本題に入ろうか。と言っても、そんなに複雑な話でもないのだがね。ズバリ言うと、君のお婆様を我が家の家政婦として雇いたいのだよ」
「えッ!?」
修一が放った言葉に、晴翔は思わず驚きの声を漏らす。
「祖母を……ですか?」
「うん。大槻君は前に言っていたよね。君に料理を教えたのはお婆様だと」
「あ、はい」
「大槻君の料理の腕前は、家事代行で既に実証済みだ。そして、そんな君に料理を教えたお婆様なら、私達は何も文句は無いという訳だ」
「た、確かに祖母の料理の腕前は確かですが……」
晴翔は、予想していなかった出来事に、頭が追い付かず言葉に詰まる。そこに、彼の隣に腰を下ろしている綾香が、ニッコリと笑顔で口を開く。
「それに、晴翔君に掃除とかを教えたのもお婆ちゃんなんだよね? つまり、晴翔君の家事代行のクオリティは、お婆ちゃんが基準になってるんだよね?」
「夏休みでの大槻君の仕事っぷりに、私達は大満足でね。できる事なら、夏休み明けも続けて欲しかったんだが、さすがに学生である君に、アルバイトを優先してくれとは言えないからね。そんなところに、お婆様の話が舞い込んできたという訳だ」
修一と綾香の二人にそう言われて、晴翔の中に大きな希望の光が差し込む。
確かに、晴翔の家事力は全て祖母の教えがもとになっている。いわば家事炊事の師匠である。
料理の腕前も、晴翔のものよりも高く、きっと東條家の人達を満足させる事が出来るだろう。
心の中に、ズッシリと居座っていた不安が、みるみるうちに軽くなっていくのを晴翔は感じ取る。
そんな中で、一つの問題点が彼の中に引っ掛かる。
「本当にありがとうございます! 本当に、本当に助かります」
「そんなにお礼を言わなくても大丈夫だよ。先程も言ったように、この話は同情や憐れみ等ではないからね。むしろ、この話を受けてくれるのなら、私の方が頭を下げたいくらいだよ」
何とも嬉しい事を言ってくれる修一に、晴翔は深く頭を下げる。そして、その頭を上げると同時に、祖母が抱える問題を修一に話す。
「とても嬉しいです。ぜひ話を受けたいと思います。ですが、その……ちょっと問題がありまして。実は祖母なのですが、最近腰が悪く、長い距離を歩くのが少し困難でして」
大槻家と東條家は、大体徒歩で30分程度離れている。
まだまだ若い晴翔であれば、バイトで通うにしても全く苦にならない距離であった。しかし、腰の悪い高齢な祖母がその距離を頻繁に往復するとなると、かなり厳しいものとなってしまう。
その事を修一に伝えると、彼はおもむろに大きく頷いた後、口元に笑みを浮べて晴翔を見た。
その姿は、先程までの経営者としての雰囲気が少し鳴りを潜めていた。
「その事についても、綾香から話は聞いているよ。それで、大槻君に相談したいのだが」
修一はここで一拍間を開けてから言葉を続けた。
「君のお婆様に、住み込みで家政婦をお願いできないだろうか?」
「えッ!? す、住み込みですか!?」
本日二度目の驚きの声を上げる晴翔。
そんな彼に、修一は何とも楽し気に話を続ける。
「もちろん、一週間ずっとこの家に、というのが難しいのは承知しているよ。ここは後で話をして詰めないといけないが、一つの案としては、平日は住み込みで週末は家に戻ってもらう。なんてのはどうだろうか?」
「あ、あの……そ、そうですね。えっと……」
修一のまさかの提案に、晴翔の脳内は様々な思考が浮上しては消え、上手く考えがまとまらない。
そこに修一は畳みかける様に言葉を投げかけてくる。
「それと、お婆様が我が家に住み込みになると、大槻君が家で一人になってしまうだろう?」
「は、はい」
「それだと君に寂しい思いをさせてしまって、申し訳ないと思うのだよ」
「い、いえ。こちらとしては、祖母を雇って頂けるというだけでも、とてもありがたい事なので……」
晴翔がそう修一に返すと、彼は小さく首を横に振る。
「大槻君。家族というのはね。一緒にいられる時は、一緒に居た方が幸せだと私は思うのだよ」
「は、はぁ……」
「だからね。これも相談なんだが……」
修一はここでニッコリと、とても良い笑顔を晴翔に向ける。
「どうだろうか。君もお婆様と一緒にこの家に寝泊まりするというのは?」
「えッ!?」
晴翔、本日三度目の驚きの声。
二度ある事は三度あるとは、正しくこの事である。
三度目の驚きが一番大きく、晴翔はポカンと口を開けたままフリーズしてしまう。
そこに綾香が、晴翔の反応を窺う様に尋ねてくる。
「晴翔君、どうかな? 私的には、晴翔君やお婆ちゃんを含めて皆で夕食とかを食べられたら、賑やかで楽しいなって思うんだけど……」
「そ、それは、そうかもしれないけど……」
彼は戸惑いながら、隣の彼女の方を見る。
綾香は、修一の提案に驚いた様子は無く、期待に瞳を輝かせている。
おそらく、この大槻家を家に迎え入れるという案は、既に先程のメッセージのやり取りで話し合われていたのだろう。
二人の対面に座る修一が愉快そうに笑みを浮べる。
それは、かつてキャンプで晴翔と一緒に温泉に入った時、綾香との結婚を仄めかす様な発言をした時の笑みと酷似していた。
「大槻君は既に知っているだろうけど、この家には客室として普段は使っていない部屋があるから、その部屋をお婆様に使ってもらおうと思っているよ」
「あ、ありがとうございます。ですけど、その……俺も住み込みとなると、部屋が足りないのでは……?」
東條家は豪邸という事もあって、立派な客室がある。
普段は使っていない為、その部屋を祖母が使っても問題はない。しかし、晴翔も東條家に寝泊まりをするとなると、部屋数が足りなくなってしまう。一応東條邸には、リビングの他にも和室も完備されているので、そこを部屋として使用すれば、彼の住み込みも不可能ではないが。
晴翔がその疑問を修一に投げかけると、彼は相変わらずニッコリとした笑みで即答する。
「問題ない。大槻君には、綾香の隣の部屋を使ってもらうよ」
「え? でもその部屋は涼太君の……」
綾香の隣の部屋は涼太の部屋となっている。
その部屋を晴翔が使ってしまうと、涼太の部屋が無くなってしまう。しかし、修一は「問題無いよ」と楽し気に答える。
「涼太が寝るときは、まだ私達の部屋で寝ているし、普段遊ぶのもリビングだから、実質あの部屋は空き部屋の様なものなのだよ。将来的には涼太の部屋にするつもりだが、もう少し先の話になるから、今は大槻君が使ってくれて全然問題無いよ」
「な、なるほど……」
修一の説明に、晴翔は思わず納得してしまう。
「あの、郁恵さんはこの事を?」
「もちろん話をしているよ。郁恵も君達の事を大歓迎すると言っている」
ここまでの話を聞いて、東條家側からは、大槻家を大歓迎する意思がひしひしと伝わってくる。
「本当にありがとうございます。えと……自分としては是非、この話を受けたいと思うのですが、一旦祖母と話をしてから、あの、正式にお返事をしたいと思うのですが、少しお時間を頂いても良いですか?」
「もちろんだとも! しっかりとお婆様と話し合って決めて欲しい」
修一は大きく頷いた後に、自身の腕時計にチラッと視線を向けた後に、ソファから腰を上げる。
「それでは私は会社に戻るとするよ」
「あの、わざわざお忙しいところ有難うございます」
晴翔もソファから立ち上がって、深々と頭を下げてお礼を言う。
その後、晴翔と綾香は修一を見送る為に、玄関へと向かう。修一は革靴を履いた後に、後ろを振り返り晴翔へと視線を向ける。
「大槻君、是非とも前向きの検討をお願いするよ」
修一の言葉に、晴翔は再度深々と頭を下げた。
それを見て、彼は満足そうな表情を浮かべながら玄関の扉を開き、会社へと戻って行った。
彼が去った後の扉を数秒間無言で見詰めた後、晴翔はおもむろに隣に立つ綾香へと視線を向けた。
「……綾香、さっきの修一さんの話、俺も一緒に寝泊まりするってやつ、もしかして……」
「……が、学校では晴翔君と全然一緒にいれないから、だから家で一杯一緒になれたらいいなぁって。いや、だった?」
若干、恥ずかしさと気まずさが混ざった様な表情で、綾香は晴翔の視線から逃げつつ小さく答える。
それに対して、晴翔は「ふふっ」と笑みを溢して答える。
「嫌な訳ないじゃん。大好きな彼女と一緒にいられるなら、こっちからお願いしたいくらいだよ。ただちょっと、なんかいきなりの事過ぎて、びっくりしたというか、現実味が無いというか……夢みたいな話だなって思って」
「本当!? ふふ、私も晴翔君と家で一緒だなんて夢みたいッ!」
弾けんばかりの笑顔と共に、綾香は喜びを爆発させて晴翔に抱き付いた。
お読み下さり有難うございます。
 





 
