第八十五話 最後の家事代行
先日の花火大会を延期にした天候不良。
それが嘘だったかのように空は青く晴れ渡り、真夏の日差しが惜しみなく降り注ぐ。晴翔はジリジリとした熱さを首筋に感じながら、閑静な住宅街を歩く。
やがて彼は一軒の豪邸の前で足を止めた。
「最初の時は結構緊張したなぁ……」
騒々しく鳴り響くセミの大合唱に、小さく彼の呟きが紛れ込む。
夏休みに始めた家事代行の短期バイト。
最初にこの邸宅を見た時は、初めてのお客さんがセレブかとゲンナリとした気持ちになった。
その時の気持ちをぼんやりと思い出しながら、晴翔はインターフォンを押す。
『はい』
聞こえてきた声に、晴翔の表情には自然と笑みが浮かぶ。
「あ、家事代行サービスの者です」
晴翔は、敢えて少しよそよそしく返事をする。
すると、インターフォン越しに『クスッ』と小さな笑い声が聞こえてきた。
『どうしたの? そんなに改まっちゃって』
「いや。今日が家事代行、最後だから。初心に戻ってみようと思って」
『ふふ、じゃあ涼太にまたドロボーって叫んでもらう?』
「いや……それは勘弁」
初めて晴翔が東條家の家事代行に訪れた時。
外で遊んでいた涼太が帰ってくるなり、晴翔を『ドロボー』と叫んだ。その時の記憶が、彼の脳内にフラッシュバックする。
いまでこそ笑い話になっているが、当時の晴翔はバイト初日で警察のお世話になるのではと肝を冷やした。
あれからまだ一カ月もたっていないが、とても昔の出来事に感じ、しみじみとした気持ちになる晴翔。
そこにガチャリと玄関の扉が開く。
「いらっしゃい、晴翔君」
夏の日差しに照らされた、眩しい笑顔で出迎えてくれる綾香。
晴翔が通う学校で、一番可愛いと噂され『学園のアイドル』と称される彼女。
夏休みが始まった当初は、家事代行サービスの『スタッフ』と『お客様』という関係だった。それが今や、姿を視界に捉えただけで、自然と表情が緩んでしまい、胸が高鳴るのと同時に、心が安らぎを覚える。そんなかけがえのない存在となった。
『お客様』から愛おしい『恋人』になった綾香は、嬉しそうに晴翔の腕に触れる。
「上がって」
「うん、お邪魔します」
彼女に腕を引かれ晴翔は玄関に上がる。そして、そのままリビングへと向かう。
「おにいちゃんッ!!」
晴翔がリビングに入るや否や、まるで猪の突進の如く涼太が飛び込んでくる。
「やぁ涼太君。今日も元気だね」
腰辺りに突撃してきた涼太を晴翔は両手で受け止める。
「うん!! ねぇ、こんどお家で屋台をやってくれるんでしょ!?」
涼太は晴翔に抱き着いたまま、爛々に輝く瞳で見上げながら言う。
先日のおうち縁日の話を聞いた涼太が『僕もやりたいッ!!』と激しく姉に迫ったらしく、晴翔は綾香からもう一度、おうち縁日をやって欲しいと頼まれていた。
「涼太君は何の屋台が好き?」
「僕ね、たこ焼きが好き!!」
「じゃあたこ焼きの屋台は絶対に作ろうね」
「やぁったーーー!」
歓喜の雄叫びを上げる涼太に、晴翔も笑みを浮かべる。
綾香と二人で行ったおうち縁日は、かなり急ごしらえだった為、あまり手の込んだことは出来なかった。
なので、今度はしっかりと事前に準備をして、あっと涼太が驚く様なおうち縁日にしようと、晴翔は内心で意気込む。
そこに、郁恵がリビングへとやって来た。
「いらっしゃい、大槻君」
「お邪魔してます」
「今日が最後の家事代行ね。本当に今までありがとうね」
郁恵がニッコリと笑みを浮かべ、彼に労いの言葉をかける。それに対して、晴翔は表情を柔らかくする。
「ここの家事代行は、とてもやり甲斐があって楽しかったです。自分のお客様が皆さんで、本当に良かったなって思っています」
「あら、嬉しい事言ってくれるじゃない。私達も、家事代行で来てくれたのが大槻君で本当に良かったわ! ね、綾香」
「うん。晴翔君で本当に良かった」
郁恵に同意を求められた綾香は、少し照れた様にはにかみながら、晴翔に瞳を向ける。
「うちの娘にこんな素敵な彼氏が出来たんだから、家事代行の神様に感謝しないといけないわね」
「も、もうママ! 変な神様を勝手に作らないでよ!」
いつもの様に娘を揶揄う郁恵に、綾香もほんのりと頬を赤く染めて抗議する。
この夏休みで見慣れた東條親子のコミュニケーションに、晴翔は和やかな気持ちになる。
「大槻君、これからは娘の彼氏として遠慮なく家に遊びに来てね」
「はい。ありがとうございます」
綾香との関係を全面的に肯定してくれている郁恵に、晴翔は感謝と嬉しさの混じった、ちょっとむず痒い感情を胸に抱きながら頭を下げる。
ちょうどその時、修一もリビングへと入って来た。
「おぉ! 大槻君! いらっしゃい!」
彼は晴翔の姿を見るなり、両手を広げて喜色満面の歓迎をする。
「修一さん、お邪魔しています」
晴翔は修一に対しても頭を下げた後に、姿勢を正して向き合う。
「あの、修一さん。修一さんに綾香さんとの事でお話したい事がありまして」
綾香と恋人になったという事は、郁恵には既に報告をしている。しかし、修一は出張中で不在だった為、まだその事について話していなかった。
綾香と付き合う事に対する礼儀として、そこはしっかりと報告をしなくてはと思い、晴翔は修一の目を見て口を開く。
「実は綾香さんとお付き合いを…」
「うむうむッ!! その話は母さんから聞いているよ!」
晴翔が話し出した途端に、修一はとても興奮した様子で彼の肩をガシッと掴む。
「大槻君! うちの娘を選んでくれてありがとう!!」
「あ、はい。あの……」
「親の欲目が入っているかもしれないが、綾香は素直で思いやりのあるいい子に育ってくれたと思うんだ。きっと大槻君と二人で良い人生を歩む事が出来ると思っている」
「そ、そうですね……」
修一は爛々と輝く眼差しで晴翔に迫る。
そんな、まるで娘を嫁に出す勢いの修一に、晴翔は若干引き攣った笑みを浮かべる。
修一は、晴翔の肩をパンパンと叩き、尚も嬉しそうに話を続ける。
「そうだ! 大槻君さえよければ、親睦を深める為にも今度一緒に釣りに行かないかね?」
「は、はい……ぜひお願いします」
修一の勢いと圧に押されて、晴翔は小さく何度も頷く。
「よしよし! じゃあ予定が空いている日を聞いてもいいかね?」
「あ、はい。え~と……」
「ちょっとパパ! 晴翔君が困ってる! ちょっと落ち着いてよ」
グイグイと晴翔に迫る父の姿に、綾香が止めに入る。
「む? あぁすまなかったね。いやぁ、綾香が大槻君と付き合ったと聞いて舞い上がってしまったよ」
そう言って、修一は「あははは」と愉快な笑い声を上げながら片手で頭を掻く。
そんな父親のもとに、涼太が駆け寄る。その手には、前回晴翔達にも見せていた自作の貯金箱が握られている。
「お父さん見て! これ作ったんだよ! おにいちゃんとおねえちゃんの為に僕も頑張るんだ!」
牛乳パックで作られた涼太作の『けっこんしきちょ金箱』を見て、修一は感心した様に息子の頭を撫でる。
「凄いじゃないか涼太。よし、それじゃあ早速お父さんがお金を…」
「ダメよあなた? 涼太は、お金を貯める事の大変さと大切さをちゃんと学ばないといけないんだから」
「う、うむ。そうだね……」
早速、自分の財布からお札を取り出そうとしていた修一。しかし、郁恵から注意を受け、若干しょんぼりとしながら彼は取り出しかけていた諭吉をそっと財布に戻す。
「おねえちゃん、早くおにいちゃんとけっこんできるように、僕ガンバルからね」
涼太は姉に向かってグッとガッツポーズを作る。
弟の熱い情熱を受けて、綾香は「ありがと」と言いながら嬉し恥ずかし、そして僅かに困った様な複雑な笑みを浮かべる。
明るく賑やかで、少し暴走気味の東條家の人達。
彼らの暖かみのある家族の空気。その中に、自分も僅かに加わっている気がして、晴翔は表情を綻ばせる。
「それではこれからサービスを開始しますが、何か要望はありますか?」
「そうねぇ。そう言えば、また窓が汚れてきちゃったから、窓掃除をお願いできるかしら」
「承りました」
晴翔が郁恵の要望に返事をすると、涼太が駆け寄ってくる。
「おにいちゃん! 新聞紙で窓を拭くんだよね?」
「お、よく覚えてたね。偉いね」
晴翔は涼太の頭を撫でてあげる。
「ふふ~ん。僕もお手伝いする!」
「助かるよ涼太君。じゃあそこのところを拭いてくれるかな?」
「うんッ!」
晴翔は涼太でも手の届く所をお願いして、彼自身は上の方を拭いていく。
二人並び、仲良く窓拭きをする晴翔と涼太。そんな二人を郁恵がソファに座りながら優し気な目で見る。
「本当に、兄弟みたいね」
郁恵の呟きに、綾香も頷く。
「晴翔君はきっと良いお兄ちゃんになると思うよ?」
「あら? という事は、綾香は大槻君を旦那さんにしないといけないわね?」
揶揄う様に言う郁恵。
以前までの綾香であれば、全ての母の揶揄いに顔を赤くしてすぐさま抗議の声を上げていた。しかし、今は顔を赤くしつつも、反論する様な事は無かった。
「まぁ……付き合ってるんだし、そういう将来もあり得るんじゃない?」
「あらあら……そうねぇ」
変化した娘の反応に、郁恵は少し驚いた様に目を見開いた後、嬉しそうに表情を崩した。
「いい人に出会えたわね」
「……うん」
郁恵の優し気な言葉に、綾香は大きく頷いた。
涼太と一緒に窓掃除をする晴翔に耳には、そんな感じの母娘の会話がうっすらと入って来た。
だが、雰囲気的にその間に入って行く事が出来ず、彼はせっせと窓掃除に集中する事にした。
その後、窓掃除を終え、続けてリビングの掃除や風呂場の掃除を片付けた晴翔。
やがて、夕食を作る時間となる。
「今日の夕食ですが、何か食べたいものはありますか?」
「う~ん、そうねぇ。あなたは何か食べたいものあるかしら?」
晴翔に問い掛けられた郁恵は、ダイニングテーブルに腰掛け、新聞を読んでいた修一の方を見る。
「そうだね。大槻君の作るものなら何でも構わないが……」
読んでいた新聞を折りたたみ、顎に手を添えて悩む修一。
「晴翔君の料理は何でも美味しいからね」
「僕はお肉食べたいッ!」
晴翔の料理を褒める綾香と、漠然とした涼太の要望。
そんな東條家の反応を見て、晴翔の方から夕飯の提案をする。
「あの、もし良ければでいいんですけど、実は作りたいものがありまして」
「あらそうなの? 私達は全然構わないわよ。大槻君のお料理の味には信頼があるものね」
晴翔の提案に興味を示しながら言葉を返す郁恵は、他の人達にも「良いわよね?」と尋ねる。それに対して全員が頷きを返した。
「ありがとうございます。では今夜の夕食ですが……」
晴翔が作りたい料理。
それは、自分自身が大好物であると同時に、自信を持って作れる得意料理。それに加え今は、この東條家に気に入ってもらえるきっかけにもなった思い入れのある料理。
「夕飯の献立ですが、ハンバーグはいかがでしょうか?」
晴翔の提案した料理に、皆笑みを浮かべ、そこに涼太の歓喜の雄叫びも加わる。
東條家の反応に、晴翔は笑みを浮かべながらキッチンへと向かう。そして、気合いを入れて、家事代行として最後の夕食作りに取り掛かった。
お読み下さり有難うございます。




