第八十話 傘がない
道場からの帰り道。
晴翔は頭上から照り付ける強い日差しに目を細めながら、ポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。
現在は午前11時過ぎ。
これから家に帰って昼食を作って食べ、シャワーを浴びて身支度をすれば丁度良い時間になりそうだ。
晴翔が頭の中で予定を立てていると、スマホの画面にメッセージの通知が表示された。
彼は反射的に通知をタップしてメッセージアプリを開く。
ーー今日何時頃に来れそうかな?
メッセージは綾香からで、壁からヒョコッと顔を出すウサギのスタンプと共に送られてきた。
今日開催される花火大会は、多くの屋台が出店していてお祭りの様になっている。
花火の打ち上げが始まるのは19時からとなっているので、それよりも早い時間に行って屋台巡りを綾香と一緒にする予定になっている。
ーー4時に家に迎えに行くよ
花火の打ち上げ会場は、電車で数駅離れた所になっている。
その移動時間や屋台巡り、花火を見る為の場所取り等を考慮して、晴翔は彼女の家に行く時間を伝える。
ーー分かった!! じゃあその時間に合わせて浴衣の準備しておくね!!
綾香からはすぐに返信が来る。
その内容を見て晴翔は思わず口元を緩めてしまう。
学園のアイドルと言われるほどに容姿が優れている綾香。そんな彼女が浴衣で着飾ったらどれ程美しいのだろうか。
晴翔が彼女に惹かれた一番の魅力は、外見ではなく内面にある。しかし、綾香の容姿端麗であるところにも十分魅力を感じている彼にとって、彼女の浴衣姿というのは、想像しただけで口角が上がってしまう。
晴翔は、勝手にニヤニヤと唇が歪んでしまうのを必死に堪えながら、綾香にグッと親指を立てるクマのスタンプを送信する。
そして、先程よりも少し歩く速度を速めて家路を急いだ。
家に着くと、晴翔は手早く昼食を済ませる。
いつもなら、しっかりと台所に立って、それなりの料理を作る。だが今日は祖母が仕事で家にいないというのと、早く綾香に会いたいという気持ちが勝ってしまって、インスタントで済ませてしまった。
その後、彼はシャワーを浴び、整髪料を使用して髪型を整える。
「ちょっと減ってきたかな……」
晴翔は手に持つ小さなヘアワックスの容器を見て、ポツリと小さく呟く。
普段、整髪料を滅多に使わない彼は、中学三年生の時に友哉と一緒に買ったヘアワックスを未だに使用している。
一番小さな容器を買ったにもかかわらず、2年以上もっている状況である。
それが、綾香との出会いを境に、その消費量がかなり増えてきている。
「新しいのを買わないとな……」
綾香からは、少しでも良い印象を持ってもらいたい。格好良いと思われたい。
東條綾香という女の子は、全男子生徒を虜にしてしまう様な子である。
取り敢えず学校では、恋人関係になっている事を秘密にする予定ではあるが、それでも、綾香の彼氏として隣に立つにふさわしい人物、釣り合いが取れる男になる為に、見た目も中身も磨いていく努力をしなければならない。
何より、彼女が自分の事を好いてくれている事に甘えてはいけない。
洗面台の鏡に映り込む自分の姿を見詰めながら、晴翔はそんな決意の様な事を考える。
と、そこで晴翔はふとある事に気が付いた。
家の中が薄暗くなっている事に。
「曇って来たのか……?」
晴翔は怪訝な表情を浮かべながら、窓辺に立ち外の様子を窺う。
朝見た天気予報では、今日は1日快晴のはずである。にもかかわらず、今の空は分厚くどんよりと暗い雲が、夏の日差しを遮っていた。
「なんか、やな予感するな……」
険しい表情を浮かべ小さく溢す晴翔。
彼の脳裏には、先日の雷雨が蘇る。
真夏の不安定な天候によってもたらされた、天気予報には無い突発的な天候不良。
今になって思えば、それが原因で綾香との関係を前に進める事が出来たので、晴翔にとっては良かったのかもしれない。
しかし、本物の恋人同士となった現在の二人にとって、予報外れの雨は厄介な存在でしかない。
「頼むから降らないでくれよ」
祈る様につぶやく晴翔。
しかし、そんな祈りとは裏腹に、段々と悪くなってくる空模様に晴翔は不安を募らせる。
そして、そろそろ綾香を迎えに行く為に家を出ようかという時。
空に立ち込める黒い雲から、大粒の雨が降り注いできた。
「……最悪だ」
雨の勢いは一瞬にして激しくなり、家の中は打ち付ける強い雨音で満たされてしまう。
窓の外に視線を向けてみると、視界が霞むほどに強烈な雨が、ひっきりなしに地面を叩きつけている。
いま外に出ようものなら、たとえ傘をさしていたとしても、数秒でずぶ濡れになってしまうだろう。
「勘弁してくれよ……」
絶え間なく降り注ぐ大粒の雨を恨めしそうに睨む晴翔。
そこに、彼のスマホにシュポッとメッセージが届いた通知音が鳴る。
ーー雨、降ってきちゃったね……
メッセージは綾香からのもので、その文面からは不安な様子が滲み出ているように感じられた。
晴翔は難しい表情のまま、彼女に返事をする。
ーー突発的な雨かも。すぐに止むかもしれないよ
ーーかな? だといいよね……
綾香の不安を拭い去りたくて、晴翔は前向きなメッセージを送信する。しかし、そんな努力をあざ笑うかのように、天候は悪くなる一方で、ついには雷まで轟きだした。
ーー花火までに止むかな?
綾香からのメッセージに、晴翔の脳裏には、デートがちゃんとできるか心配で、不安に目を伏せる彼女の姿が浮かび上がる。
ーーちょっと天気を確認してみるよ
晴翔はそう返信した後に、すぐさまネットで現在の雨雲の状況を確認してみる。
そして、彼が住んでいる地域の雨雲を確認して、渋面を浮かべた。
「うわ……真っ赤だ……」
晴翔が確認しているサイトでは、降水量が色分けで表示されていて、晴翔達の住む地域は、一番雨が強い赤色で表示されていた。
「この雨、いつ止むんだ?」
彼は数時間後までの雨雲の動きを見てみる。
そのサイトの予想だと、雨雲はこの先も降り続けることになっていた。
「マジか……」
晴翔は顔を顰める。
そこに再び綾香からメッセージが届く。
ーー私も天気予報見てみたんだけど、暫く止みそうにないね……
今にも泣きそうな潤んだ瞳をしているウサギのスタンプと共に、そんなメッセージが送られてくる。
ーーちょっと様子見かな
ーー無理して家まで迎えに来てくれなくても大丈夫だよ。現地集合でも全然平気だから
ーーうん、最悪の場合はそうしようか
このまま雨が止まなかった場合、綾香の家に行ってから花火会場に向かうと、打ち上げ時間に間に合わなくなる可能性が出てくる。
途切れる事無く家の中に充満する騒々しい雨音に、晴翔は焦りと不安を募らせる。
晴れていれば、もう綾香を迎えに家を出ているはずの時刻になってしまった。それなのに、雨は一向に止む気配を見せない。
「……天罰か何かか、これは」
壁掛け時計と窓の外を交互に睨みながら、晴翔はポツリと呟く。
絶世の美少女と言っても過言では無い綾香と付き合ったことに、神様が『お前には分不相応だ』とお怒りなのか。
そう思ってしまう程に、外の天気は荒れ狂っていた。
やがて、本来ならば花火会場に向けて電車に乗っている時刻になる。
外はいまだに強い雨が降り続けていた。
「……これ、花火大会やるのか?」
疑問に感じた晴翔は、花火大会公式ホームページを確認してみる。
すると、トップページの所に赤文字で“天候不良による開催の延期について”という文言が表示されていた。
そこには、天候の回復が見込めず、更に雷注意報、大雨注意報が発令されている為、安全面を考慮して開催日を予備日に移行するという説明が書かれていた。
花火大会延期という事実に、呆然としてしまう晴翔。
そんな彼のスマホに着信音が響く。
画面を確認すると、そこには“綾香”と表示されていた。
晴翔はすぐに画面をタップして通話を繋げる。
「……もしもし」
『あ、晴翔君……花火大会延期になっちゃったみたい……』
何とも元気のない彼女の声音に、晴翔の気持ちも落ち込む。
「だね。俺も今、ホームページで確認したよ」
『……残念だね』
「そうだね。でも、取り止めじゃなくて延期だから。来週一緒に行こう」
『うん……うん、そうだね!』
明るい綾香の返事。
無理矢理に元気を装っているのが明らか過ぎて、晴翔の胸にはもどかしい気持ちが芽生える。
『来週一緒に観れるもんね! 楽しみでワクワクできる時間が伸びたと思えばそんなに悪い事じゃないよね!』
そう言う彼女の空元気に、晴翔は居た堪れない気持ちになる。
『晴翔君も私の浴衣姿を1週間想像できるしね! 今日、会えないのはちょっと寂しいけど……』
「綾香……」
『あ、でも今日は晴翔君も家から出ちゃ駄目だよ? こんな天気で外に出たらずぶ濡れになってまた風邪を引いちゃうからね』
以前、半濡れのシャツを着ていたせいで体調を崩してしまった晴翔は、彼女の言葉に反論できなかった。
『そうだ。明日、晴翔君の家に行ってもいい? ちゃんと恋人になってから晴翔君のお婆ちゃんに挨拶したいし』
「うん、良いよ。きっとばあちゃんも喜ぶよ」
『じゃあ……また明日だね』
「そう……だね。また明日」
晴翔は後ろ髪を引かれる思いで綾香との通話を終了させる。
スマホを力なくテーブルの上に置く彼からは、思わず大きな溜息が漏れる。
彼は部屋の壁にもたれ掛かりながら、天井を見上げ瞼を閉じる。
下ろした瞼の裏には、悲しそうな表情を浮かべる綾香が浮かび上がって来た。
その時、晴翔は思い出す。
数日前に、彼女からキスを迫られ、それから逃げた時の事を。
その時に見た綾香の表情を。
「このままじゃ約束を破ることになるな……」
雨の騒音が交差する室内に、彼の呟きが混ざる。
綾香に告白した時、晴翔は約束をした。
その時の会話を彼は思い起こす。
『綾香、俺約束するよ。これからは逃げたりしないって。君を悲しませたりしないって』
『……本当?』
『うん。もう二度と、絶対に』
通話をした時の彼女の声音は明るいものだった。
寂しさを堪えて、強がる綾香の表情がハッキリと晴翔の瞼の裏に浮かび上がったところで、彼は瞼を上げ立ち上がる。
「よし」
小さく気合いを入れた晴翔は、スマホで少し調べ物をして、家にあるもので持っていけそうなものをリュックに詰めて準備すると、玄関に向かう。
そして、立て掛けてある傘を手に取ると、未だ強く降りしきる雨の中、ずぶ濡れになる覚悟で外に飛び出した。
お読み下さり有難うございます。




