第八話 東條家、再び
「次は絶対にない……そう思っている時期が、俺にもありました」
とある豪邸の前で、晴翔は誰に言うでもなく1人呟きを漏らす。
先日、赤城兄妹の前で東條家に呼ばれる事はもう無いと断言した晴翔。
実際に彼自身も、東條家に再び家事代行として訪れる事は無いだろうと思っていた。
思っていただけに、今こうして東條家の豪邸の前に立つと、色々と不安が湧き上がってくる。
(もしかして、前回の家事が酷すぎてクレームを言う為に呼ばれたとか……ハンバーグが痛んでいて食中毒になったとか……)
様々な思考が晴翔の頭を巡る。
そのどれもがマイナスな考えのものばかりで、彼はやたらと重く感じる指先でインターホンを押す。
「ピンポーン」という呼び出し音。その後の一瞬の間が、晴翔にはひたすらに長く感じた。
『はいは〜い、どちら様?』
そんな彼の緊張とは正反対に、インターホンから聞こえてくる声は底抜けに明るい声である。
「あ、家事代行サービスの者です」
『あら! 待ってたわ。今玄関開けるから待っててね!』
インターホンの声に晴翔は首を傾げる。
(東條さんの声に似てるけど、やけにテンションが高いな。もしかして東條さんのお母さんかな?)
晴翔の中での東條は、どちらかというと活発さよりもお淑やかなイメージが強い。
前回家に訪れた時も、物静かで幼い弟の面倒をよく見る、しっかりとしたお姉さんという感じだった。
そんなことを考えながら待っていると、ガチャリと玄関の扉が開き、1人の女性が姿を現す。
年はおそらく20代後半くらいだろうか。
とても綺麗な顔立ちで、東條と似たような雰囲気があることから、おそらく東條の姉なのだろう。
「あなたが大槻君ね! ささ、上がって上がって!」
「あ、はい。えと、ありがとうございます」
テンション高めに招かれた晴翔は、そのまま玄関の中に入り用意されたスリッパに足を通した時、リビングの扉が勢いよく開く。
「おにぃちゃんだッ!!」
廊下の向こう側から嬉しそうな叫び声と共に、東條の弟である涼太がズダダダッ! と猛ダッシュしてきた。
「おにぃちゃん! あのね! おにぃちゃんが作ったハンバーグ凄かったんだよ! 食べた瞬間にね! 汁がじゅわ〜って! すっごく美味しかった!!!」
腕を目一杯に広げてハンバーグの美味しさを必死になって伝えてくる涼太の様子に、晴翔は抱いていた緊張を忘れて笑みを浮かべる。
「涼太君が喜んでくれてすごく嬉しいよ」
晴翔はしゃがんで涼太の頭を撫でてあげる。
「うふふふ、涼太ったらすっかり懐いちゃったわね」
そんな様子を眺めていた東條の姉が、微笑ましそうな笑みを浮かべる。
「お母さんもおにぃちゃんのハンバーグ食べたでしょ! 美味しかったでしょ!」
「そうね、とっても美味しかったわね」
その会話を耳にして晴翔は衝撃で固まる。
(え!? この人、東條さんのお母さん!? はっ!? 若すぎね!?)
涼太に笑みを向ける女性は、どう考えても二児の母とは思えないくらいに若々しい。
晴翔がそんな衝撃を受けているとは露知らず、涼太は無邪気に問いかけてくる。
「ねぇねぇ、今日は何を作ってくれるの?」
「こらこら涼太。まずは大槻君をリビングに通さないと」
「うん! おにぃちゃんこっち!」
柔らかい口調で嗜める母親に涼太は元気よく頷くと、晴翔の手を取ってリビングへと駆け出す。
涼太にグイグイと引っ張られながら晴翔がリビングに入る。
「大槻君ごめんなさいね。涼太ったら朝からずっと『おにいちゃんはいつ来るの?』って忙しなくってねぇ」
「いえいえ、自分は平気ですよ」
晴翔は東條の姉だと思っていた彼女が、まさかの母親だったという事実に内心動揺しながらも、なんとかにこやかな笑みを浮かべながら答える。
「それでは改めまして。この度は家事代行サービスをご利用いただきましてありがとうございます。担当の大槻です。今回、東條様より承っていますのは、3時間コースで掃除と夕飯の調理となっていますが、お間違い無かったでしょうか?」
「はーい、合ってます」
業務口調で確認する晴翔に、東條の母親は一つ頷いた後に少し不満そうな顔をする。
「綾香から聞いたのだけど、大槻君って綾香のクラスメイトなんですって?」
「あぁ、はい。そうです」
「ならそんな他人行儀な言い回しなんて、しなくっても大丈夫よ! 私の事も東條様なんて呼ばないで郁恵って呼んでちょうだい」
そんな東條母の要望に、晴翔は若干戸惑いを見せる。
「いやでも、クラスメイトのお母様でも東條様は、自分にとってはお客様ですので……」
「そんな寂しいこと言わないで、もっと気軽な感じでお願い、ね?」
「いやぁ……ですが……」
「ねぇ? だめぇ?」
両手を合わせ、コテンと首を傾けて上目遣いでお願いしてくる東條母に、晴翔は思わず視線を逸らす。
東條母は、超絶美少女高校生である東條綾香に、更に大人の魅了を追加したような、正しく美魔女と呼ぶに相応しい女性である。
そんな女性の『お願い』に思春期真っ只中である晴翔の心は大いに揺らいだ。
「……分かりました。い、郁恵さん」
「嬉しい! ありがとう大槻君!」
「い、いえ」
ほんのりと頬を染めながら、晴翔は俯き加減にお辞儀をする。
と、そこに東條がリビングへとやってきた。
「あ、大槻君。来たんだね。いらっしゃい」
「お邪魔しています。東條様……東條さん」
東條様と言った瞬間、晴翔は郁恵からの視線を感じ、慌てて言い換える。
「またご利用頂き、有難うございます」
「うん。この前のとき、部屋を掃除したのとハンバーグ作ったのが家事代行サービスだって親に話をして、その家事代行が同じクラスメイトの大槻君だって言ったら、親が2人ともぜひ会ってみたいって。あと涼太も『おにぃちゃんのご飯食べたい』ってしつこくて」
少し恥ずかしそうに話す東條に、晴翔は頭を下げる。
「前回のサービス内容にご満足いただけてとても良かったです。今回も期待に添えるよう、誠心誠意頑張らせて頂きます」
「あ、はい。よろしくお願いします」
晴翔に釣られるように、ペコリと頭を下げる東條。
そんな2人の様子を見ていた郁恵は「あらあら」と頬に手を添えながら言う。
「2人ともクラスメイトなのでしょう? もっとフレンドリーに接したらどうなの?」
母の言葉に娘の東條は少し困った表情を見せる。
「でも私、大槻君と学校で話した事今まで一度もなくて……」
「あら、ならこれを機に仲良くなればいいじゃない? ね、大槻君」
「へ!? あ、はい。えーと、そう……ですね」
急に話を振られた晴翔は、一瞬どう答えようか迷うが、これまでの流れ的に、反対したら大変な事になりそうだと判断して、迷いながらも肯定する。
晴翔の返事に郁恵は満足そうに頷きながら、娘に言う。
「綾香、男の子の友達いないでしょ? 大槻君、いい子そうだから、良い機会よこれは」
「ちょ、ちょっとママ! 私は別にそんな理由で大槻君を呼んでるんじゃなくて」
「え? 綾香は大槻君と友達になりたくないの?」
「それは……なりたくないわけじゃ……」
「じゃあ友達になりたいんじゃない! ごめんなさいね大槻君、この子は昔から素直じゃないのよ」
「ちょ、ママぁ……うぅ……」
顔を真っ赤にして俯く東條に、晴翔は「あははは」と取り敢えず笑ってやり過ごした後、仕事の話で話題を逸らす。
「あの、それでは早速掃除から始めていきたいと思うのですが、何か事前に要望はありますか?」
「要望……そうねぇ〜」
郁恵は少し考えた後、その視線を窓の方に向ける。
「そう言えば最近窓の汚れが気になってて、そこのお掃除もお願いできるかしら?」
「はい、承りました」
晴翔は一礼した後に、早速窓へと向かい窓ガラスを近くで確認する。
「確かに少し汚れが目立ちますね」
「でしょう? この前の黄砂と雨でこうなっちゃったのよ」
「分かりました。それでは早速掃除をしていきます」
晴翔は持参してきた荷物から、窓掃除に必要なものを取り出して、窓を拭いていく。
掃除機などの大きな物は、その家に置いてあるものを使わせて貰う事が殆どだ。しかし、拭き掃除に使う雑巾などの小物は持参したものを使う。
それは会社から支給されたものもあるが、晴翔が自前で用意したものもある。
家事代行のアルバイトをすると祖母に伝えた時に、役立ちそうな便利アイテムを色々と祖母がくれたのだ。
晴翔は窓の内側を拭くために、新聞紙に水を含ませる。
するとそこに涼太が不思議そうな顔で尋ねてきた。
「おにぃちゃん? 新聞紙で何をするの?」
「これで窓を拭くとね、新聞紙のインクで汚れが取れるんだよ」
「へぇ〜! すごいね! 僕も拭いてみたい!」
先程から涼太はずっと晴翔の側にいて、時々質問をしてきたりする。
「やってみるかい? じゃあこれでそこを拭いてみようか」
「うん!」
晴翔は水を絞った新聞紙を涼太に手渡すと、彼でも手の届くところを指差しながら言う。
「ごめんなさいねぇ大槻君。涼太が邪魔しちゃって」
晴翔に掃除をお願いした後、リビングの机でパソコンを開き仕事をしていた郁恵が声をかける。
「いえ、涼太君が手伝ってくれるので助かっています」
「そうだよお母さん! 僕はおにぃちゃんのお手伝いしてるんだもん!」
母親の『邪魔して』と言う言葉に、涼太は口を尖らせて反論する。
「涼太君のお陰で早く窓掃除が終わりそうだよ」
「えへへへ」
優しく涼太の頭を撫でる晴翔に、涼太もはにかんだ笑みを浮かべる。
「あらあら、なんだか本当の兄弟みたいね。ね、綾香」
「へぁ? ……あ、うん。そうだね」
母親の隣で頬杖をつきながらぼーっと晴翔の掃除風景を眺めていた東條は、急に話しかけられてハッと我に返る。
その様子に郁恵はニヤと笑みを浮かべた。
「綾香ったらぼーっとしちゃって、涼太が大槻君に取られて悔しいの? それとも……」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら母は娘に言う。
「大槻君に見惚れちゃってた?」
「ッ!! な、ママは何言ってんのさ!!」
思わず東條はガタッと椅子から立ち上がって、母を睨みつける。
「そんなに顔を赤くしちゃって、青春ねぇ〜」
「ち、違うから! そんなんじゃないって!!」
必死に否定する東條。
その大声に、晴翔と一緒に窓を拭いていた涼太が不思議そうに姉を見る。
「おねえちゃん。そんなに顔を赤くしてどうしたの? 風邪引いたの?」
「あ、赤くない! 風邪じゃない! もう知らない!!」
そう叫びながら、東條はリビングから足早に去っていってしまった。
「お母さん、おねぇちゃんどうしたの?」
姉の様子が理解できない涼太はキョトンとした表情で、姉が去った後のリビングの扉を見る。
郁恵は「うふふふ」と笑みを浮かべながら言う。
「お姉ちゃんはね、いま人生を楽しんでいるのよ」
「さっきのおねぇちゃん、楽しそうじゃなかったよ?」
「ふふ、涼太にはまだ早いわね」
母は楽しそうな笑みを絶やさずに、涼太の隣でせっせと窓を拭いている晴翔に視線を向ける。
「うちの娘にもやっと、春が来るのかしらね」
誰にも聞こえないような小さな呟きは、母親としての慈愛に満ちた、それでいて少し寂しそうな、でも嬉しそうでもある、そんな呟きだった。