第七十八話 理想と現実の距離感
綾香の部屋で、二人は肩を並べてテーブルの前に座り勉強をする。
「晴翔君、涼太が暴走しててゴメンね」
綾香はノートの上を走らせていたシャープペンシルを止め、先程まで結婚資金を貯金すると豪語してた弟の姿に苦笑を浮かべる。
晴翔も一旦勉強の手を止め、少し恥ずかし気に片手で頭を掻きながら言う。
「いや、まぁ悪い気はしないよ。むしろ、かなり嬉しいかな」
涼太も郁恵も、晴翔が恋人になった事に対して、心の底から祝福してくれた。その事が、どうしようもない程に嬉しく感じる。
「結婚とかの話はまだちょっと早すぎる気もするけどね……」
「だ、だよね。結婚とかはまだ私達には早すぎるよね!」
綾香は晴翔の話に合わせる様に相槌を打ちつつ、少し表情を窺う様に横目で彼を見る。
「でもパパは相当晴翔君の事を気に入ってるから、出張から返ってきたら大変かもしれないね」
「あぁ……確かに……気に入って貰えているのは凄く嬉しいんだけど……」
これまでの修一の反応を思い返した晴翔は、少し困った笑みを浮かべる。
「修一さんが出張から帰ってくるのは、今週末だよね?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ最後の家事代行の時には、東條家の皆が揃ってる状態だね」
夏休みに始めた家事代行のアルバイト。
大学に行く為の学費にと始めた短期バイトであったが、東條家に気に入られて定期契約を結んだり、綾香と偽の恋人関係になったりと、なかなかに濃い夏休みを過ごしてきた。
そんな長く感じた夏休みも、今週で最後となる。
「なんか、今年の夏休みは凄く長く感じたな」
感慨深く晴翔が呟くと、綾香も同感という感じで大きく頷く。
「ね。私も今年の夏休みは凄く長く感じた。でも今までで一番、楽しくて幸せな夏休みだったよ」
そう言うと、綾香は晴翔に寄り掛かる様に体重を預け、彼の肩にコテンと頭を載せる。
「それに、今は晴翔君と恋人になれて本当に幸せ……」
「それは俺も同じだよ。でも、まさか家事代行のバイトを始めたら、綾香と付き合う事になるとは思わなかった」
晴翔は甘える様にしな垂れかかる彼女の頭を優しく撫でてあげる。
髪をそっと手櫛で梳かれて、綾香は気持ちよさそうに目を細める。
「私はずっとこうなる事を夢見てたよ?」
「本当に? でも夏休み前は全然接点なかったじゃん? まともな会話すらした事なかったんだから」
「でも、夏休みに会ってなくても、きっとどこかで出会ってこうなってたと思うんだ」
「それは……運命ってやつ?」
「ふふふ……かな?」
自分で言ってる事に恥ずかしさを覚えたのか、綾香は頬を染めてはにかむ。そんな彼女の愛らしさに、晴翔は心拍数が上がるのを感じる。
彼は、自分の肩に頭を載せながら見つめてくる綾香の魅力の破壊力に、思わず目を逸らして話題も逸らす。
「そう言えば、明日花火大会があるよね」
露骨に話題を逸らす彼に、綾香は「ふふ」と小さく笑みを溢す。
「うん」
「良かったら一緒に行かない?」
「行きたい!」
晴翔の誘いに綾香は満面の笑みで応える。そして、その後に「良かった。誘ってくれて」と少し安堵したような表情を見せる。
彼女の呟きに、晴翔は少し申し訳なさそうに口を開く。
「もしかして、俺からの誘い待ちだった?」
「……うん」
綾香は恥じらいを持って小さく頷く。
「好きな人と並んで花火を見上げるのは私の憧れだったから、晴翔君から誘ってくれないかなぁって」
彼女は嬉しさ一杯といった様子で、晴翔の肩に顎をチョコンと載せる。
「ありがとう。誘ってくれて」
「いや、まぁ、うん……」
至近距離に迫る美少女の微笑みに、晴翔は逃げる様に視線を逸らして曖昧な返事を返す。
それに対して、綾香は小さく頬を膨らませる。
「昨日、もう逃げないって言ってくれたのに……」
「うぐっ……」
痛いところを突かれた晴翔は、顔を赤くしながら横を向き、間近に迫る彼女と視線を合わせる。
顔を真っ赤に染めながらも、視線を合わせてくれた晴翔に、綾香も同じように顔を赤くして恥ずかしさと嬉しさが混ざった笑みを浮かべる。
そんな彼女の笑顔に、晴翔は僅かな対抗意識を抱く。
「綾香はさ、自分が学園のアイドルって学校の男子から呼ばれるくらいに可愛いって事を自覚してる?」
「ッ……私にとって大切なのは、晴翔君からの評価だけだもん」
綾香は晴翔が放った『可愛い』という言葉に反応して、堪え切れずに口元を緩めるとともに、何ともいじらしい事を言う。
先程からグイグイと晴翔の心拍数を上げにかかる彼女に、彼は苦笑を浮かべる。
「俺も普通の男子高校生なんだから。あんまり積極的に来られると、襲いたくなっちゃうんですけど?」
晴翔はクイッと綾香に顔を近づけ、彼女の細い腰を軽く抱き寄せながら少し声を落として囁く。
途端、綾香は湯気が出るのではと本気で思うほどに、耳まで真っ赤に染まる。
「ッ!? そ、それは……」
彼女は慌てて晴翔の肩から顔を放し、ワタワタと距離を取る。
「ま、まだ今は……その……は、晴翔君が嫌とかじゃないけど……まだ……で、でも、こ、心の準備が……でも、その……うぅ……」
アワアワと途切れ途切れに言葉を発する綾香は、しまいには顔を俯かせてしまった。
そんな彼女の様子に、晴翔はほんのりと満足したような表情を浮かべる。
綾香との最初のデートで映画を観た時。
繋いだ手をギュッギュッと握ってくる彼女に対抗しようとして返り討ちにあった晴翔。
その時のリベンジが出来たかなと、彼は負けず嫌い根性を出す。
「俺も綾香を大切にしたいから、急に襲ったりは絶対にしないよ」
彼女を安心させる様に柔らかく笑みを浮かべる晴翔に、綾香は相変わらずトマトの様に赤く染まった顔で見詰めてくる。
その瞳は若干潤んでおり、上目遣いになっている事もあって破壊力は抜群だった。
「……じゃあ、急じゃなかったら襲ってくるって事?」
「ッ……いや、急とかそういうの関係なしに、そもそも襲ったりしないから」
「……ふ~ん、そうなんだ……」
俯き加減に見詰めてくる綾香。
その表情は安心したような、しかし少なからず不満を感じているようでもある表情。それは、晴翔にとって危険にも思える程に魅惑的なものだった。
彼は、潤んだ視線を投げかけてくる綾香から、真っ赤に染まった自身の顔を逸らす。
少し積極的に迫り、彼女をドキドキとさせて勝ったつもりでいた晴翔だったが、結局また返り討ちにあってしまった。
「さ、勉強を真面目にやらないとね」
若干、棒読みで言う晴翔に、綾香も頷いてテーブルと向き合う。
「だね。80点以上取って晴翔君からご褒美貰わないとだし」
「そう言えばそんな約束してたね……」
綾香からキスを迫られたり、告白をしたりと色々な事が起きてすっかり忘れていた晴翔。
彼女は彼に少し悪戯っぽい笑みを見せる。
「全部80点以上だったら、晴翔君にどんなご褒美をおねだりしようかなぁ」
「え? ご褒美の内容は綾香が決めるの?」
「私が決めちゃイヤ?」
コテンと首を傾けながら可愛らしく言う彼女。
とてもあざとい仕草ではあるが、晴翔にとって効果は抜群だった。
「嫌じゃないけど、常識の範囲内でお願いします」
「もちろん、世間一般的な恋人同士の常識でちゃんと考えるよ?」
何とも楽しそうに言う綾香に、晴翔は一抹の不安を覚える。
今までやってきた恋人の練習で、彼女の一般的な恋人に対する基準が少し、いや、かなりかけ離れている事を実感している晴翔。
そのずれた恋人基準で要求されるご褒美とはいったい何なのか。
「俺が叶えられるのにしてね?」
「うんうん。大丈夫」
相変わらず楽しそうな笑みを浮かべる綾香。
彼女の笑顔に、晴翔の不安は募る一方だった。
その後は、しっかりとまじめに勉強に励む二人。
時刻は14時半を回り、あと少しで晴翔の家事代行の時間になるという時。
勉強がいち段落付いた綾香が、ペンを置いて「う~ん」と伸びをした。彼女と同様に、勉強に区切りをつけた晴翔も、首をグルッと回して凝りを解す。
「でもそっか、来週からは学校か……」
なんとなしに呟く晴翔は、ふと思い出したかのように綾香の方に顔を向ける。
「そう言えば、登校とかはどうする? 一緒に学校行く?」
そんな晴翔の問いかけに、綾香は一瞬表情を輝かせる。しかし、その後すぐに難しい顔をする。
「一緒に登校したい! けど……」
なんとも悩ましい表情を見せる彼女。
東條綾香という女の子の学校での人気は、それはもう凄まじいものがある。
校内放送で彼女を呼び出してプロポーズを敢行するような男子がいるくらいに、男子達から絶大な人気を集めている。
そんな学園のアイドルである彼女が、夏休み明け早々、男子生徒と仲睦まじげに手を繋いで登校したらどうなるのか。
「……もの凄い騒ぎになっちゃうよね?」
「まぁ、綾香が好きな男子はかなりいるだろうしね」
彼女の隣にいる時に晴翔に向けられる、羨望や嫉妬の混ざった眼差し。それが、学校にいる間ずっと感じる事になると考えると、さすがの晴翔もその表情が少し曇る。
「でも、 何というか……周囲から妬みや嫌な感じて見られても、それがどうでもいいと思えるくらいに綾香が好きだから……その、俺は普通に学校でも綾香と一緒に居たい、かな?」
少し照れながらそう言う晴翔に、綾香は瞳を大きくし、感極まったかのように彼に抱きつく。
「も、もう! 急にそんなこと言うとか反則だよ!」
口ではそう言うものの、綾香の表情はユルユルになってしまっている。
彼女は恥ずかしさを誤魔化す為か、自身のおでこを晴翔の二の腕にグリグリとしばらく押しつけた後に、ゆっくりと離れる。
「で、綾香は学校ではどうしたい?」
何とも可愛らしい反応を見せる彼女に、堪えきれずに笑みを溢しながら晴翔が尋ねる。
「私も晴翔君といつも一緒に居たい! 居たいんだけど……」
綾香はその表情を少し暗くして、話し始める。
「実は私、ちょっと怖いなって思ってることもあって、あのね……」
少し翳りのある口調で綾香は過去の出来事を晴翔に打ち明ける。
それは、彼女が中学生の頃、男子からの告白が原因で友人と揉めた件。
それまで親しく接していた友人から、急に『私の好きな人を盗らないでよ!』と罵られ、疎遠になってしまったらしい。
その出来事が、現在綾香が学校で見せている、全く恋愛に興味が無く、男子を近くに寄せ付けず、告白を全て断るという行動の起因になっている。
学校で、恋愛に対してドライな印象を作り出しているのは、良好な友人関係を築くための彼女なりの防衛策である。
「だからね……学校で晴翔君と付き合ってるってバレたら、晴翔君を好きな女子から、また怒られるんじゃないかなって、ちょっと怖いの……」
「なるほど……」
下を向き力ない声を出す綾香に、晴翔も少し唇を尖らせて唸る。
彼自身、女子からそんな好意を寄せられているとは思っていないので、綾香の心配は杞憂だと考える。
しかし、過去のトラウマというのはそう簡単に払拭出来るものではないというのも、自分自身の経験から晴翔は理解している。
晴翔としては、綾香と一緒に学園生活を過ごしたいという願望が強い。
これが、自分だけ妬みの対象になるならば、晴翔は覚悟を決めて綾香と一緒に登校したりできる。
しかし、そうする事で綾香が嫉妬の対象になったり、友人関係が壊れてしまうのであれば、そこは慎重にならなければいけないと晴翔は考える。
「じゃあ、いきなり一緒に登校したりするのは控えた方がいいのか……」
「……うん。本当は学校中に晴翔君は私の彼氏です! って宣言したいけど」
「それはちょっと恥ずかしい……」
晴翔は照れて後頭部を片手で掻く。
その様子に、綾香も少し楽しそうに笑みを浮かべた。
「でも、やっぱり最初は私達が付き合ってる事は、学校では内緒にしよ?」
そう言った後に、綾香は「それに、ちょっと憧れもあるし……」と小さく付け加える。
「憧れ?」
「うん、なんかさ。学校で皆にばれない様に恋人として過ごすって、恋愛漫画とかにありがちなシチュエーションだなって」
「あぁ……まぁ、そう、なの?」
あまりそのようなジャンルを読まない晴翔は、軽く首を傾けながら曖昧に言葉を返す。
「じゃあ、夏休み明けは取り敢えず、学校では顔見知りくらいの距離感で接する感じ?」
「かな。教室で晴翔君に抱き着かない様に気を付けなきゃだね」
そう真面目な表情で言う綾香。
冗談で言っているのか本気で言っているのか、晴翔は彼女の言葉に表情を引き攣らせる。
「いきなり抱き着くのは恋人を公言してる状況だったとしても止めて? 公衆の面前でそんな事されたら、色々と爆発しそう」
学園のアイドルに抱き着かれる男子。
それはもう、全男子生徒からの袋叩きの刑確定案件である。
「はぁ……夏休み終わるの、イヤだなぁ……」
何とも悩ましい表情で溜息を吐く綾香。
そんな彼女に、晴翔は励ます様に言う。
「明日は花火大会があるから。取り敢えずそれを楽しもうよ」
「うん! そうだね!」
花火大会という単語に、綾香の表情は一瞬で明るくなり、眩しいくらいの笑みを晴翔に見せた。




