第七十五話 偽物から本物へ
少し蒸し暑さを感じる真夏の夜
晴翔と綾香の二人しかいない公園で、二人は揃って顔を赤くして見つめ合っている。
「……もしかして、綾香って前から俺の事、その……」
晴翔は彼女が放った言葉に、恥ずかしさと戸惑いを含んだ表情を浮かべながら、歯切れ悪く問い掛ける。
そんな彼に、綾香も負けず劣らずに顔を真っ赤に染めながら、小さく頷く。
「うん……好きでした」
恥ずかしさに小さくなっている彼女の声。
それを聞いて、晴翔は耳まで熱くなるような感覚に陥りながらも、胸の中には今までに感じた事が無い程の喜びの感情が湧き上がってくる。
思わず身悶えしてしまいそうな程の歓喜に襲われている晴翔に、更に綾香は追い打ちをかけてくる。
「私……ずっと、晴翔君の事、好きだったんだよ? 家事代行で家に来てくれるようになって、美味しいご飯を作ってくれて、涼太の相手もしてくれて、パパやママにも気に入られて……晴翔君に恋をしちゃったんだよ。だから、最初に勇気を出して映画に誘ったんだから」
「え!? 待って! そのころから!?」
彼女が晴翔の事を好きになっていた時期を知り、彼は驚愕して目を見開く。
驚きで小さく口を開けている晴翔に、綾香は可愛らしく頬を膨らませる。
「そうだよ。あの時から色々、晴翔君に振り向いて欲しくてアピールしてたんだから。好きじゃない人と手なんて繋がないよ私」
「え……じゃ、じゃあ。俺が綾香に偽の恋人を頼んだ時も……?」
「好きだったよ。あの時は晴翔君がお婆ちゃんに、私が彼女だって嘘をついて凄くびっくりしたけど、それと同じくらい喜んじゃった」
そう言って彼女は照れた様に「えへへ」とはにかんだ笑みを見せる。
晴翔は彼女によって明かされる事実に、半ば呆然としながら綾香を見詰める。
「それじゃあ、恋人の練習は……」
「晴翔君を誘惑するための作戦でした」
「ッ……」
今度は小悪魔の様に、少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら言う綾香。
次から次へとコロコロと表情を変える綾香が、あまりにも魅力的過ぎて、晴翔の視線は彼女に釘付けになってしまう。
「そう……だったんだ……」
「うん……。ねぇ晴翔君?」
小さく言葉を溢す晴翔。
綾香は再び顔を恥ずかし気に赤く染め、上目遣いに晴翔を見る。
「晴翔君はいつから私の事を、好きになってくれたの?」
「えーと、綾香の事が好きっていう感情が抑えられなくなったのは、一緒に星空を見た時かな?」
綾香の問いかけに、晴翔は恥ずかしそうに頬を掻きながら答える。
「でも、意識する様になったのは、どうぶつの森公園に行ったときかも」
「あ、もしかして、水溜りエリアで私が倒れて晴翔君が助けてくれた時?」
「う、うん。そう……だね」
あの時晴翔は、男の子とぶつかって倒れる綾香を庇って一緒に抱き合うような形で倒れ込んでしまった。
その時の彼女の姿を晴翔は今でも鮮明に思い出せる。
強い夏の日差しに照らされ、まるで宝石が散りばめられた様な水の滴る幻想的な綾香。
その姿に、晴翔は目を奪われてしまった。
「そうだったんだ……」
「うん……」
嬉しそうでもあり恥ずかしそうでもある表情を浮かべる綾香に、晴翔も釣られて恥ずかしくなり、二人は揃って顔を俯かせる。
夏の夜空の下で、街灯の明かりに照らされる晴翔と綾香。
二人を包み込むように、緩やかに風が流れる。
熱い日々が続く今年の夏は、夜風も相応の熱をはらんでいる。
しかし、晴翔にとっていつも以上に熱く感じてしまうのは、きっと夏以外の要因が大きいからだろう。
綾香は相変わらず顔を赤く染めたまま、おもむろに口を開く。
「私達、随分と遠回りしちゃったね」
「そうだね。……ごめん、俺が鈍感だったせいで」
申し訳なさそうに小さく頭を下げる晴翔。
そんな彼に、綾香は一歩近づく。
「ううん。今こうして、晴翔君に気持ちが届いたから、私は幸せだよ?」
さらに一歩近づき、彼女は頭を下げる晴翔の顔を下から覗き込むようにして言う。
すぐ近くにまで迫る彼女の瞳を見ながら、晴翔は言う。
「でも、綾香はずっと頑張ってたのに、俺は自分の気持ちから目を背けて、逃げてて……今日は綾香に辛い思いもさせちゃったし」
彼女はずっと自分の事を想ってくれていたという事実を知り、晴翔は情けない気持ちになる。
若干、瞳を俯かせる晴翔に綾香はクイッと顔を近づけて、囁く様に言葉を口にする。
「でも今、こうやって告白してくれたよ?」
「それは……さすがにもう、綾香が好きだっていう感情を抑えきれなくなっちゃったからね」
「ふふふ、嬉しい……」
彼女は、晴翔が少し腕を伸ばせば抱き締められるような至近距離で、喜びが溢れ出したかのように微笑みを浮かべる。
「……晴翔君」
「ん?」
「好きだよ」
「俺も……大好きだよ」
「あ! 晴翔君ずるい! 私だって大好きなんだから!」
晴翔に対抗する様に、綾香も『好き』を『大好き』に言い換える。
その後、二人はお互いの瞳を見つめ合った後に「ふふ」と笑みを溢した。
少しの間、晴翔と綾香は笑い合った後に、再びお互いの視線を合わせる。
「綾香、俺約束するよ。これからは逃げたりしないって。君を悲しませたりしないって」
「……本当?」
「うん。もう二度と、絶対に」
彼女に囁く様に、されども言葉にはしっかりと意志と決意を込めて晴翔は宣言した。
綾香は嬉しさのあまり、口角を上げて満面の笑みを浮かべる。
それと同時に、更に一歩晴翔に近付く。
もう既に、お互いの爪先が触れ合う程の距離になっている。
「晴翔君のその約束。いま確認してもいい?」
「綾香が望むなら」
その返答に、綾香はそっと両手を晴翔の胸に添え、潤んだ瞳で見上げてくる。
対する晴翔は、寄り掛かる様に身体を預けてくる彼女の両肩に、そっと手を添える。
上目遣いの彼女の瞳には晴翔の姿が映り込む。
数秒間、二人は至近距離で視線を絡める。
やがて、綾香がそっと瞳を閉じて、小さくつま先立ちになる。
晴翔も瞳を閉じると、ゆっくりと顔を落とす。
優しく、柔らかく重なる二人の唇。
それはほんの一瞬の出来事。
二人は直ぐに顔を離し、おもむろに瞼を上げる。
その時、晴翔は今まで経験した事が無い様な不思議な感覚を経験した。
目の前には、顔を真っ赤に染め、嬉しそうな表情を浮かべながら自分を見詰めてくる綾香の姿。
彼の視界には彼女しか映らない。
ここが公園だという事も忘れ、今が夜なのか昼なのか。それすらも分からなくなる。
熱帯夜のうだる様な暑さも、汗をかいて体に纏わり付くシャツの不快感も全て無くなる。
彼がいま感じるのは、自分の唇の焼ける様な熱さ。
それと、綾香に対する狂おしい程の感情。
晴翔は、いまだ自分の腕の中に納まる位置にいる彼女を力一杯抱き締めてしまいたいという衝動に駆られる。
と、そこで彼は気付いた。
綾香はもう、自分の恋人になったのだと。
偽物ではなく、本物の彼女なのだと。
であるのなら、別に抱き締めても問題ないのでは?
晴翔の思考がそう傾きかけた時、僅かに残っていた彼の理性が、ある事に気が付く。
それは、今の自分が汗まみれだという事。
この公園まで彼は走って来た。
緊張で体が上手く動かなかったせいで、いつも以上に汗をかいてしまっている。しかも、その後の告白でも、極度の緊張状態だったため、冷や汗の様な変な汗もかいてしまっている。
つまり、今の自分はかなり汗臭い。
その事に気が付いた晴翔は、途端に今の綾香との距離感が無性に恥ずかしくなってきた。
今すぐにでも彼女から離れたい。
いや、本心では離れたくないが、色々な事を考慮すると離れたい。
そんなジレンマに陥っている晴翔の耳に、綾香の熱がこもった様な囁きが入ってくる。
「私達……恋人になったんだよね? 本当の、恋人同士になったんだよね?」
「そうだね」
「なら、もう……我慢、しなくてもいいよね?」
「え? 我慢ってなにうおッ!?」
綾香の言葉の意味を聞こうとした晴翔は、言葉の途中で驚きの声を上げる。
何故なら、綾香が急にガバッと彼に抱き着いてきたから。
彼女は晴翔の背中に腕を回してギュッと抱き着き、彼の胸板に頬を寄せる。
突然の綾香の熱烈抱擁に、思わず晴翔は頭の中が真っ白になる。
そんな彼の耳には、彼女の感情が滲み出た様な言葉が聞こえてくる。
「好き……もう、好き……」
その言葉に、晴翔の思考回路は焼き切れる寸前になってしまう。
上手く機能しない思考の中、晴翔の頭の中には一つの言葉が暴れていた。
自分は汗臭い。
綾香に嫌われたくない。
彼女に『汗臭い、マジ無理』などと言われたら、10年はへこむ自信がある。
晴翔はギューッと抱き着いてくる綾香にやんわりと声を掛ける。
「綾香? 俺、今結構汗かいちゃってて臭いでしょ? 一回離れて貰ってもいい?」
そう言って、抱擁を解くように晴翔が促す。
しかし、彼の言葉に綾香は晴翔の胸板に顔を押し付けたまま首を横に振る。
「いや、離れたくない」
「いやでも、汗臭いでしょ?」
「臭くないもん。逆に晴翔君の匂いがして凄く落ち着く」
「……そ、そう……ですか……」
綾香のまさかの発言に、晴翔は嬉しさを感じつつも、それ以上の羞恥心に襲われる。
もしかして、綾香って匂いフェチなのか……?
そんな事を想いながらも、晴翔は黙って彼女に抱き締められ続けた。
お読み下さり有難うござまいます。
……コーヒー淹れるかな…。




