第五十六話 限定味を求めて
晴翔は祖母の隣で台所に立ち、万能ネギを小口切りする。
トントントンと軽快な音と、ネギ特有の青々とした香りが早朝の台所に広がる。
「ばあちゃん、今日は俺1日出掛けてくるから。この前みたいに熱中症にならないように気を付けてよ?」
「はいはい、わかってるよ」
祖母は鮭を焼きながら、晴翔の言葉に何度も頷く。
「晴翔や、今日は綾香さんとお出掛けかい?」
「うん、そうだよ」
晴翔は切ったネギを味噌汁に散らしながら返事をする。
「そうかいそうかい」
祖母はとても嬉しそうに、顔の皺を深める。
彼女のその反応を見て、晴翔は胸に、締め付けられるような罪悪感を感じる。
「綾香さんとは、仲良くしているかい?」
「大丈夫、仲良くしてるよ」
晴翔は出来上がった朝食を居間に運びながら、内心の罪悪感を隠すように笑みを浮かべて答える。
彼女を紹介して祖母の喜んだ顔が見たい。
そんな晴翔の願望に付き合ってもらう形で、綾香は偽の彼女役を演じてくれている。
それが、本当に祖母の為になるのか。
晴翔の中の冷静な部分は、今の綾香との関係が良くない事は理解している。しかし、一方で綾香が偽物ではあるものの『彼女』でいてくれる事に、どこか心地良さの様なものを感じてしまっているもの、また事実である。
「綾香さんの事、ちゃんと大切にするんだよ」
朝食の並んだ食卓に座りながら、祖母が晴翔に言う。
「もちろん、大切にするよ」
そう答える晴翔の胸の内に、綾香に対する複雑な感情が渦巻く。
嘘に付き合わせてしまっている申し訳ない気持ち。罪悪感。
家事代行のスタッフとして、誠実に接したいという理性。
彼女が自分をどう思っているのかという疑念。
そしてときに、それらの感情を洪水の様に押し流して塗り替えてしまいそうになる、恋慕の情。
晴翔の頭の中には綾香の嬉しそうな、楽しそうな笑顔が次々と浮かんでくる。そのたびに彼は、胸が苦しくなり感情のコントロールが難しくなる。
勝手に鼓動が早くなり、意思とは関係なく表情が緩み口角が上がってしまう。自分の身体なのに、全く言う事を聞いてくれなくなってしまう。
そんな状況に晴翔は「はぁ~」と人知れず溜息を溢していると、対面に座る祖母がお茶碗を置いて尋ねてくる。
「暑い日が続いているけど、綾香さんは夏バテとかしていないかい?」
「うん、大丈夫。元気だよ」
晴翔は祖母の言葉に頷きながら味噌汁を飲もうとして、ふとその手を止める。
朝から頻繁に、綾香について話をする祖母。
晴翔は、そんな祖母の内心を悟り口を開く。
「あぁ……えと、綾香に聞いてみないと分からないけど、今度改めてばあちゃんに紹介するのに家に来て貰おうかなって思ってるんだけど」
「そうなのかい。それは楽しみだねぇ」
晴翔の言葉を聞いた祖母は、一気に表情を輝かせてニッコリと大きく笑みを浮かべる。
その笑顔に、晴翔は更に胸中を複雑にしながらも、朝食に集中する事で気を紛らわせた。
ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー
祖母との朝食を済ませた晴翔は、綾香と待ち合わせをしている駅前へと向かう。
晴翔は家まで迎えに行くと言ったのだが、綾香が「どうせならデートっぽく待ち合わせしたいな」と、外での待ち合わせを所望してきた。
「綾香はもう来てるかな?」
晴翔はスマホの画面を確認しながら、駅への道を早足で進む。
前回、映画を見る為に駅前で待ち合わせした時も、彼女は待ち合わせ時間よりもだいぶ早く来ていた。
その事もあって、今回晴翔は待ち合わせ時間よりもかなり早めに到着する予定で家を出た。
そして、待ち合わせ時間の40分前に駅前に到着した晴翔は、駅前広場を見渡す。
「さすがにまだ来てないか……」
せわしなく行き交う人混みの中に視線を向けながら、晴翔が一人呟く。
綾香が来るまでベンチに座って待っていようかと、彼は広場に向かって歩き出そうとした時、背後から聞きなれた声が響く。
「晴翔君!」
かけられた自分の名に晴翔が振り返ると、嬉しそうな笑みを携えた綾香が立っていた。
「ごめんね。待たせちゃった?」
「いや、俺もちょうど来たところだよ」
ニコニコとした表情で駆け寄ってくる綾香を晴翔も笑顔で迎え入れる。
今日の彼女はカジュアルな白ワンピースを身に纏い、周囲を清楚で可憐な空気に染め上げている。
「今日のワンピースも凄く似合っていて綺麗だね」
「ふふ、ありがと。うれしい」
晴翔の言葉に綾香は頬を染めながらも、はにかんだ笑顔で嬉しそうな表情を彼に見せる。
「晴翔君も凄く素敵だよ」
今日は、恋人の練習でデートという事になっている。
その為、晴翔も身嗜みには気を遣って、髪型もしっかりと整髪料を使用してセットしてきている。
普段は、整髪料などは使用しない晴翔。だが、綾香からの『素敵だよ』という一言を貰えただけで、髪をしっかりとセットした甲斐があったと表情を緩める。
「ありがとう。それじゃ、早速限定味のアイスを探しに行こうか」
「うん! アイス、見つかると良いね」
「そうだね」
今日も今日とて真夏の日差しが容赦なく、アイスを食べるのに適した一日になりそうだと、晴翔は歩き出す。
しかし、隣の綾香が立ち止まったままで、彼はすぐに歩みを止める。
「綾香?」
首を傾げる晴翔に、綾香は少し恥ずかしそうにしながら、上目遣いで彼を見つめる。
「……今日はデート……の練習だよね?」
「そうだね」
「なら……恋人らしくしないとだよね?」
「そう、だね」
「移動の時も、恋人らしく歩いたほうが良いよね?」
「……うん、そうだね」
晴翔は、彼女が何を求めているのか察して、自分の左手を綾香に差し出す。
「じゃあ、行こうか」
「うんッ!」
綾香は弾むように返事をすると、差し出された晴翔の左手に自分の右手を絡ませる。
晴翔は一瞬、綾香に繋がれた左手をチラッと見た後、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩きだす。
「まずは駅前のデパートに行くでいいんだよね」
「そうだね。限定味アイスあるかなぁ」
「どうだろうね? あそこは高級品が多いから意外と置いてあるかもしれない」
そんな会話を交えながら、恋人繋ぎをした二人は仲良く目的地に向かう。
駅前デパートの地下では、様々な食品が取り扱われている。
惣菜やケーキなどのスイーツ。観光客向けのお土産や和菓子などなど。
比較的高価な価格帯の商品が並ぶ中、晴翔と綾香は手を繋いで進む。
「あ、見て晴翔君! このケーキ美味しそう!」
「わぁ! このお菓子綺麗だね」
「パンの焼ける匂いがする……いい匂いだね晴翔君」
隣では綾香が、あちこちに視線を向けながら表情を輝かせている。
眩しいくらいの笑顔を浮かべている彼女は、ただでさえ魅力的なのに、それに輪を掛けて今日は可愛く綺麗である。
「綾香、1人でふらふらどこかに行って迷子にならないでね?」
和スイーツのショーケースに視線が釘付けになっている綾香に、晴翔が苦笑を浮かべながら言う。
「じゃあ私が迷子にならないように、晴翔君がちゃんと手を握っててね」
晴翔の言葉に、綾香はショーケースから視線を外し、晴翔をじっと見つめてくる。
それと同時に、晴翔の左手が少し強くギュッと握られた。
「……ちゃんと握ってるよ」
晴翔は顔が赤くなっているのを悟られないように、彼女から視線を逸らして、ぽそっと小さく言う。
隣からは「ふふ」と綾香の笑いが聞こえてきたが、今の晴翔に彼女と顔を合わせる余裕は無い。
「アイスが売ってるとしたらあっちの方の売り場かな? 行ってみようか」
「うん、いいよ」
晴翔は綾香から顔を逸らしたまま、しかし手はしっかりと握り締めて、賑わうデパ地下の中を進んでいく。
相変わらず綾香の美少女っぷりは凄まじく、彼女と手を繋いでいる晴翔には、時折不躾な視線が突き刺さる。
しかし、綾香の柔らかく小さな手の感触や、ほのかな温もりを感じられるのなら、そんな視線は当然の対価か、もしくは安い位なのかもしれないと開き直る晴翔。
二人はアイス売り場に辿り着き、商品の陳列ケースに視線を巡らせる。
そこには、よく見る定番の商品や箱売りの物等、豊富な種類が並んでいる。
「限定味のは無いね……」
「だね」
しかし、そこに晴翔達のお目当ての物は無い。
その事に、晴翔は内心で喜ぶ。
アイスが見つかってしまえば、今回のデートの目的は達成されてしまう。だが、見つからなければ、まだデートを続ける口実になる。綾香と一緒にいる事が出来る。
そんな心の内を押し隠す様に、晴翔は口では残念そうな言葉を吐き出す。
「やっぱり、そう簡単には見つからなそうだね」
「うん、でも……私はそっちの方が嬉しいな」
「え?」
綾香の言葉に、晴翔は疑問の声を上げて彼女の顔を見る。
「だって、その方が……晴翔君と長く一緒にいられるし」
「……そ、そっか」
「う、うん」
晴翔が胸の内に秘めていた想いと、全く同じ事を綾香は頬を染めながら言う。
確かに、今は恋人の練習中である。
ならば、少しでも長く一緒にいたいと思うのは、恋人として正しい感情なのだろう。
本当に、綾香はこの練習に真剣に取り組んでくれているんだな。
恥じらいの混じる表情で、途轍もなく攻撃力のある発言をしてきた綾香。
彼女の言葉に、晴翔は一瞬思考停止の危機に陥るも、何とかそれっぽい理屈を考え、自身の平常心を保つ。
「それじゃあ、次の場所に行こうか」
「そうだね」
晴翔は、やたらと自分の耳が熱くなっているのを感じながらも、綾香の手を引いて歩き出す。
地下にある食品売り場から出た二人は、一階に上がりそのままデパートの外に向かおうとする。
その途中で、綾香は「あっ」と何かに目を向け歩みを止める。
晴翔も一緒に止まって彼女の向く方に視線を向けると、そこには『夏祭りフェア』というのぼりと共に、沢山の浴衣が展示されていた。
興味ありげにジッと浴衣の方に視線を向けている綾香に、晴翔は笑みを浮かべる。
「ちょっと見ていこうか」
「いいの?」
「もちろん」
晴翔はそう答えると、浴衣の展示コーナーへと向かう。
「わぁ、この浴衣綺麗!」
綾香は早速、展示されている浴衣に目を通していく。
色鮮やかな浴衣に、表情を綻ばせる綾香。そんな彼女の様子に晴翔の顔も自然と明るくなっていく。
晴翔はにこやかな笑みを浮かべながら、綾香の後を付いていると、不意に彼女が振り返る。
「晴翔君は、どんな浴衣を彼女に着て欲しい?」
「え? え~と……そうだな……」
突然の綾香からの質問に、晴翔は並んでいる浴衣にざっと目を通していく。
「俺は、どっちかというと赤やピンクよりも、藍色とか水色の涼しげで落ち着いた雰囲気のやつが好みかな?」
「なるほど、涼し気で落ち着いた雰囲気のか……」
「まぁ、綾香だったら何を着ても似合いそうだけどね」
晴翔の言葉をやたらと真剣な表情で聞く綾香に、彼は少し気まずさと恥ずかしさを覚え、それを紛らわす様に言葉を付け加える。
もし、綾香が本物の彼女で、自分の好みに合わせた浴衣を着てくれたなら、それはとても幸せなんだろう。
そんな事を思いながら、再び真剣さを増して浴衣を吟味し始めた綾香の背中を眺める。
そんな晴翔に、不意に声がかかる。
「ありゃ? ハルじゃねぇか。それに……東條さん?」
よく聞きなれたその声に、晴翔が視線を向ける。
そこには、晴翔と綾香が並んで立っているのを驚いたような表情で見詰めてくる親友、友哉の姿があった。




