第四十一話 彼の気持ち、彼女の気持ち
中庭の掃除を終え、夕飯の準備を始める晴翔。
鶏胸肉をフライパンで揚げ焼きしている彼の姿を綾香は、リビングダイニングのテーブルに座りながら眺めている。
「そういえば、その……恋人の練習についてなんですが」
「うん」
菜箸で鶏胸肉をひっくり返しながら、晴翔がおもむろに口を開く。
「どういう感じの練習をする予定ですか?」
「それは……恋人っぽい仕草とか、言動とか、それと、ス、スキンシップとかの練習かな?」
綾香は、言葉の最後が恥ずかしさで早口になる。
「スキンシップ……ですか?」
晴翔は、揚げ焼きにした鶏胸肉の油を切る動作を一旦停止して、戸惑いの視線を綾香に向ける。
すると彼女は、少し大きな声で慌てた様に説明を始める。
「だ、だってほら! その辺がぎこちなかったらお婆ちゃんに本物の恋人同士なのか怪しまれちゃうし!」
「怪しまれますか……?」
恥ずかしがって手も繋げていない。
そういう恋人同士も、初々しさがあって良いのではなかろうか?
「その、ばあちゃんには、最近彼女が出来たと伝えているので、あまり……その……スキンシップが多すぎるのも不自然かと」
「あ……うん。そう……だよね……」
晴翔の言葉を聞いた綾香は、どこか元気を無くしてしまったみたいに、シュンと俯いてしまう。
そんな彼女の姿を目の当たりにし、晴翔の胸の内にはじわじわと罪悪感が込み上げてくる。
そもそも、自分の嘘に付き合わせてしまっているのに、彼女に対して、あーだこーだ言う権利など塵程も無いというのに。
「でも、確かにある程度の練習は必要ですよね。いきなり恋人っぽい事をするのは大変ですもんね。綾香さん……綾香が嫌じゃなければ、スキンシップ……の練習もしましょう」
「……本当に?」
そう言って顔を上げる綾香の表情には、少なからず喜びの色が混ざっている気がして、晴翔は自分の鼓動が高鳴るのを感じてしまう。
「本当です。嫌じゃなければですけど」
「私から提案してるのに嫌なわけないよ」
先程のシュンとした表情から一転して、楽しそうにニコニコと笑っている綾香。
晴翔は彼女から視線を逸らすと、少し火を通し過ぎてしまった鶏胸肉を急いでフライパンから上げていく。
晴翔はそのまま鶏胸肉をあらかじめ切っていた玉葱やピーマン、人参などと一緒にトレーの上に移し、そこに祖母直伝の南蛮漬けのタレを掛けて浸す。
南蛮漬けの調理がひと段落つき、晴翔は次に、素麺のソースを作ろうとする。
その時、綾香が静かに口を開く。
「ねぇ、晴翔君?」
「はい、なんでしょう?」
綾香の問いかけに、晴翔が彼女の方に顔を向ける。
「今、ちょうどパパもママも、涼太もいないから……」
そう言う綾香の表情は、少し熱を帯びた様に潤んでいて、得も言われぬ魅力をはらんでいた。
「ちょっとだけ……練習……しちゃう?」
スッと椅子から立ち上がり、綾香は晴翔のいるキッチンの方に回り込みながら言う。
「あ、え……」
晴翔は素麺のソースに使うトマトを握ったまま、近付いてくる綾香を黙って凝視してしまう。
綾香は晴翔から数歩離れたところで、一旦立ち止まる。
そこで数秒、俯いて動きを止める。
そして、意を決したようにキッと顔を上げると、真っ直ぐに晴翔を見つめて一歩を踏み出す。
「あ、綾香……さん?」
「2人の時は、綾香、でしょ?」
少し頬を膨らませて、不満そうな表情を作りながら、綾香はさらに一歩、晴翔との距離を詰める。
「晴翔君……」
手を少し前に出せば、すぐに触れられる距離。
晴翔の頭の中には、様々な思考が湧き上がってくる。
そのうちの、どれか一つでも実行に移してしまったなら、2人の関係が変化してしまう様な気がする。
同じ学校に通うクラスメイト。
家事代行のスタッフとお客様。
そして、偽物の恋人……。
晴翔は熱を帯びたかの様な綾香の眼差しに吸い込まれる。
綺麗な瞳。そう思わせる彼女の目を見ているうち、晴翔は思ってしまう。
関係を変化させてもいいかもしれない……。
もし、彼女が本当にそれを望んでいるのなら、望んでくれているのなら……。
そっと晴翔の腕が、綾香に伸び掛けた時、玄関から元気な声が響き渡る。
「ただいまぁーー!!」
帰宅を知らせる涼太の声。
晴翔と綾香は揃ってビクッと体を震わせ、慌ててお互いの距離をとる。
ズダダダッという元気な音の後、ガチャ! 勢いよくリビングの扉が開け放たれ、公園から帰ってきた涼太が飛び込んでくる。
「あ! おにぃちゃん!!」
キッチンに立つ晴翔を見るや否や、涼太は嬉しさ爆発といった様子で晴翔の元に駆け寄る。
「おにぃちゃん、ただいま!」
「おかえり涼太君」
「おにぃちゃん、風邪はもう大丈夫? 元気になったの?」
心配そうな眼差しを向ける涼太に、晴翔はニッコリと笑みを浮かべる。
「心配してくれてありがとう。風邪はもう治ったよ」
晴翔が涼太の頭を撫でると、涼太はくすぐったそうに目を細める。
「あのね。おにぃちゃんが風邪を引いたときね、知らないおばさんがおにぃちゃんの代わりに家のお手伝いしてたよ」
「そっか。その人のご飯はおいしかったかい?」
「うん。でもね、おにぃちゃんのご飯の方が僕は好き! あとね、おにぃちゃんが家にいる方が楽しい!」
無邪気な笑みを浮かべながら言う涼太。
晴翔は彼の言葉に表情を緩める。
「今日も涼太君の為に美味しいご飯を作るからね。もう少し待っててね。それまでに、涼太君は手洗いとうがいをしてこようか」
「うん!」
素直に頷き、洗面台へ駆けていく涼太の背中を晴翔は優しげな目で見つめる。
再び2人きりになったリビング。
晴翔はそっと綾香の方に視線を向ける。
「練習はまた今度、だね」
「そうですね……」
少し恥ずかしげな笑みで言う綾香に、晴翔もぎこちなく頷く。
晴翔は夕飯の調理を再開しながら、先程自分の中に湧き上がってきた欲望について反省する。
綾香が近くに来たとき、思ってしまった。
彼女を自分のものにしたいと。
自分の腕の中に抱きしめたいと。
しかし、今の自分にそんな事は許されない。
綾香が彼女のフリをしてくれているのは、信頼してくれているからだ。
その信頼があるからこそ、スキンシップなどで本物の彼女の様な振る舞いをしてくれようとしている。
だからそれを裏切るわけにはいかない。
だが、晴翔はトマトを切る手を止め、ふと思う。
今まで、嘘に綾香を付き合わせてしまった罪悪感から、彼女に対する申し訳ない気持ちが強かった。
それ故に、綾香自身の気持ちについて考えたことが無かった。
彼女が自分のことをどう思っているのか……。
晴翔は、家事代行として東條家に来て、綾香と出会ってから今までの出来事を振り返る。
そして、僅かに胸が高鳴る。
綾香が自分に好意を寄せている可能性。
確信は持てない。でも、皆無だとも思えない。
2人で映画を観に行き、そこで手を繋ぎ。
一緒にスーパーに買い物に行ったりもした。
そして、どうぶつの森公園では、意図したわけではないが、結果として抱き合う様なこともあった。
それらの場面、彼女の様子を思い返してみると、嫌な表情を浮かべていた事がない様な気がする。
綾香とは出会ってからまだ日が浅い。
まだ、自分の勘違いだという可能性も十分にある。
だけど……。
その時、晴翔の脳内に、ある場面がフラッシュバックする。
それは、つい先日。
看病に来てくれた綾香が、熱を測る為におでこをくっ付けてきた場面。
好きでもない人に、あんな事をするものなのだろうか?
もし……綾香が晴翔の事を好きだったのなら。
嘘の恋人である必要は無い。
晴翔は、自分の気持ちはすでに自覚している。
だから、彼女の気持ちが、自分と同じなら。
そこまで考えて、晴翔は大きく頭を振る。
「そんな都合のいい事……あるわけ無い……か?」
晴翔と綾香の関係はまだ日が浅い。
学校での『学園のアイドル』としての綾香の姿が、本当の彼女の姿では無いことは、この家事代行のアルバイトを通して察する事はできた。
しかし、まだ晴翔の中では『学園のアイドル』としての綾香のイメージが完全には消えてくれない。
恋愛に興味がない。男子は一切寄せ付けず、周りにいるのは女友達だけ。告白は、そのことごとくを断る。
そんなイメージが残っているせいで、綾香から好意を寄せられている可能性に現実味を感じることができない。
晴翔は切り終えたトマトをボールに移し、次は大葉を微塵切りにする。
その際に、少しだけ視線を上げて、再びリビングダイニングのテーブルに腰掛けた綾香にチラッと視線を送る。
すると、どうやら綾香はずっと晴翔の調理風景を眺めていた様で、和やかな笑みを浮かべた彼女とバッチリ目が合ってしまった。
「ッ……もうすぐ、出来上がるので」
「う、うん」
気恥ずかしい気持ちを感じ、お互いに目を逸らす。
晴翔は大葉を細かく切りながら、胸の鼓動を落ち着かせようとする。
これから先、家事代行のアルバイトの前は、綾香の部屋で『恋人の練習』をする事になる。
もちろん勉強もしっかりやるつもりではあるが。
晴翔は今の自分の胸の高鳴りが、不安からくるものなのか、それとも喜びからくるものなのか。
そのどちらなのか、分かる様で分からない様で、まだ、分からない方が楽なのかもしれないなどと思いつつ、夕飯の調理を黙々と続ける事にした。
お読み下さり有難うございます。




