第三十七話 正確に体温を知りたい時は体温計を使いましょう
「……いいよ。私、彼女のフリをしてあげる。お婆ちゃんの前では大槻君の彼女になってあげる」
綾香から発せられた衝撃発言に、晴翔はあんぐりと口を開けて固まる。
数秒間フリーズした後、晴翔は我に返って首を振る。
「い、いえ! そんな事、申し訳なくて頼めません! これは嘘を吐いた俺が全て悪いんですから、東條さんは俺の嘘の事なんて気にしてくれなくても大丈夫です!」
少し慌てた様子で、綾香の提案を断ろうとする晴翔。
そんな彼に、綾香は少し距離を詰めて言う。
「ねぇ、大槻君。前に私が言った事、覚えてる?」
「え? 前に……ですか?」
手を伸ばせば触れられる距離に来た綾香に、若干たじろぐ晴翔は、視線を泳がせながら記憶を辿る。
しかし、すぐに答えられない晴翔に綾香は微笑みを浮かべる。
「スーパーに2人で買い物に行った時、大槻君の為に何でもしてあげるって言ったじゃない?」
「あ、あぁ……でも、さすがに彼女のフリをして貰うのは……」
躊躇いを見せる晴翔に、綾香は更に距離を詰め、ついでに彼の手にそっと自分の手を重ねて言う。
「それとも、大槻君は、嫌……かな? 私の彼氏のフリ」
上目遣いで言う綾香に、風邪で赤くなっていた晴翔の顔がサッとさらに一段階赤くなる。
「いえ、そんな、俺は断れる様な立場に無いといいますか……むしろ、良いんですか? こんな嘘を吐いた俺の、その……彼女のフリなんかしてもらって?」
「うん、いいよ。大槻君にはお世話になってるから、そのお返ししたいから」
「いえ、俺のはその、アルバイトなので、ちゃんとお金も貰ってますし、それのお返しというのは過剰な気もするのですが……」
晴翔はチラチラと、綾香と重なり合っている手に視線を向けながら言う。
対する綾香は、真っ直ぐに晴翔の目を見て、はっきりと言葉を発する。
「それに、大槻君のお婆ちゃんの、あんなに喜んで嬉しそうな顔を見たら、嘘だって言って悲しませる様なことはできないよ。大槻君だってお婆ちゃんは悲しませたく無いんでしょ?」
綾香の言葉に晴翔は「それは、そうですけど……」と小さく漏らす。
「じゃあ、お婆ちゃんの前では、私は大槻君の彼女、で良いかな?」
確認する様に言う綾香。
晴翔は暫くの間俯いて考え込んでいたが、やがて彼女の様子を伺う様に視線を上げる。
「迷惑じゃ……無いですか?」
「うん、迷惑じゃないよ」
「嫌じゃ……無いですか?」
「うん、嫌じゃない」
晴翔は再び口を閉ざし、数秒間だけ目を瞑った後、綾香に対して頭を下げる。
「それじゃあ、お願いします! 俺の嘘に付き合ってください!」
「はい、お願いされました」
綾香はニッコリと笑みを浮かべると、土下座する様な格好の晴翔の両肩に優しく手を添える。
「それじゃ、大槻君は病人なんだから、早くベッドに戻ってね」
「あ、はい」
熱で少しふらつきながらも、綾香に支えられる様にして晴翔はベッドに戻って布団を被る。
そこにタイミングよく祖母が、皮を剥いたフルーツをお皿に乗せて部屋に入ってきた。
「はい、皮を剥いてきたよ」
「ありがとうございます」
ペコっと頭を下げてお礼をする綾香に、祖母もニッコリと笑みを浮かべる。
「ほら晴翔。綾香さん、林檎に梨、桃も買ってきてくれたよ」
祖母はベット脇のテーブルにお皿を置く。
そのお皿の上のフルーツを見て、晴翔は綾香にお礼を言う。
「本当にありがとうございます。こんな高級なものを」
「ううん、気にしないで。大切な彼氏の為だもん」
綾香のその言葉を聞いて、祖母はパッと表情を輝かせる。
「まぁ! 良かったわねぇ晴翔」
「あ、うん」
祖母の喜び様に、晴翔は嬉しい様な苦しい様な、なんとも複雑な表情を浮かべていた。
そこに綾香は、先程晴翔と交わした会話の内容を実行に移す。
「あの、少しの間でいいので大槻君の看病、私がしててもいいですか?」
祖母に対してそう言う綾香に、祖母は少し申し訳なさそうに言葉を返す。
「綾香さんに風邪を移してしまっても申し訳ないですし……」
「いえ、大丈夫です。私、大槻君の彼女として少しでも彼の側に居たいんです」
少し頬を染め、恥じらいを見せながらもそう言う綾香に、祖母は感心した様子で晴翔を見た。
「ちょっと晴翔や! なんて出来た彼女さんなんだい! 絶対に幸せにしてあげないとダメだよ!」
「う、うん。それは、もちろん」
晴翔は少し言葉に詰まりながら返事をする。
彼としては、嘘に付き合ってもらって申し訳ないという思いで一杯になっている。
しかし、そんな孫の心情など知る由もない祖母は、とても嬉しそうに綾香に対して頭を下げた。
「それじゃあ、少しだけ晴翔の事、お願いしますね」
「はい! 任せてください」
そう答える彼女に、祖母は何度も頭を下げながら部屋から出ていった。
2人になった部屋の中。
晴翔は申し訳なさそうに口を開く。
「本当に申し訳ありません」
「全然、気にしないで」
とても明るい表情を浮かべている綾香は、フルーツの乗ったお皿を手に持つと、晴翔の枕元に移動する。
そして、林檎を1つフォークに刺すと、それを晴翔の口元に持っていく。
「はい、あーん」
「……あの、東條さん?」
自分の口元にある林檎を見つめながら、晴翔は困った表情を浮かべる。
「ん? どうしたの?」
綾香はキョトンとした様子で、首を傾げる。
「その……フルーツは自分で食べれるので……」
そう言って、晴翔は彼女が手に持っているフォークに手を伸ばす。
だが、綾香は晴翔がフォークに手が届く前にサッと手を引っ込める。
「あの、東條さん?」
「ダメだよ。大槻君は病人なんだから無理しちゃダメ」
「え、いや。フルーツを食べる事くらいは問題なく出来ますので……」
「大槻君」
「は、はい」
急に晴翔の名を呼ぶ綾香に、彼は反射的に返事をする。
「私、今は大槻君の彼女、だよね?」
「はい……その、そうでございます」
真剣な眼差しで問いかけてくる綾香の圧に負け、晴翔はなんとも礼儀正しく返事をする。
この答えに綾香は満足そうな笑みを浮かべると、再び晴翔の口元に林檎を持ってくる。
「あーん」
「……」
「あ〜ん」
しばし晴翔は口元の林檎をジッと凝視する。
恐らく、この林檎は綾香の手渡しで食べる以外、ここから退ける事はないだろうと悟る晴翔。
「い、頂きます!」
晴翔は意を決して、目の前の林檎にパクッと喰らいつく。
そんな彼の様子に、綾香はなんとも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「美味しい?」
「……とても、甘くて美味しいです」
「そっか、良かった」
ニコニコとした笑みで綾香は晴翔を見る。
そんな彼女の視線を感じながら、晴翔は林檎を咀嚼し飲み込むと、すぐさま次のフルーツが口元に運ばれてくる。
「……」
「はい、あーん」
「……パクッ」
「ふふふ」
きっと、顔が熱く感じるのは風邪のせいだけではないはずだと思いながらも、いまの晴翔が綾香に逆らえるはずもなく、素直に彼女の『あーん』を受け入れ続ける。
そうやって綾香にフルーツを食べさせられ続ける晴翔。
「はい、これが最後だよ」
綾香は最後となった桃を晴翔の口元に運ぶ。
すでに感覚が麻痺してきた晴翔は、その桃に素直に喰らいつく。
「はい、完食です」
「ありがとうございます。ご馳走様でした」
林檎に梨、そして桃を全て食べ切った晴翔。
綾香の『あーん』で色々と麻痺していたが、風邪を引いている状態で、林檎と梨、桃の3つを丸々一つ食べると結構というか、かなり満腹状態になっていた。
それと同時に、強い眠気にも襲われる。
「大槻君、お薬は大丈夫?」
「飲みます。あ、その前に体温を測ってもいいですか?」
「うん。やっぱりまだ熱はある?」
心配そうに尋ねる綾香。
晴翔は少しでも安心して貰う為に、笑みを浮かべながら答える。
「昨日に比べれば大分マシになりました」
「……そうなんだ」
晴翔の言葉に、少し考えてから返事をする綾香。
彼女の様子を少し疑問に思いながらも、晴翔は体温を測る為に体温計を探す。
「え〜と、確か枕元のどこかに置いてたはず……」
そう言いながら、晴翔が枕付近をガサゴソと体温計を探していると、突如、綾香が彼の枕元に手をついて、身を乗り出してきた。
「大槻君……」
「……? っ!? と、東條さん!?」
綾香の体重で枕元が沈み、覆い被さる様に自分を見下ろしてくる彼女に晴翔は驚きで目を見開く。
「体温……測ってあげる……」
その言葉と共に、綾香は徐々に自分の顔を晴翔に近づけていく。
まるでカーテンのように、綾香の艶のある髪が晴翔の顔の周りに垂れ下がる。
未だかつてないほどに至近距離に迫る綾香の顔に、晴翔はまるで金縛りにあったかの様に、瞳ですら動かせなくなっていた。
やがて、2人のおでこがコツンと触れ合う。
少し荒く、熱さを感じる様な彼女の吐息が晴翔の口元に掛かる。
晴翔は思考が吹っ飛ぶ。
何も考えられなくなる。
彼女と触れ合っているおでこ。
そこを中心として、今まで感じたことがない熱が全身に広がっていく。
永遠の様な、一瞬の様な。
そんな時が過ぎたあと、綾香は晴翔から顔を離す。
「えへへへ、この方法じゃ熱があるのかよく分からないね」
そう言って笑う綾香の顔は、間違いなく先程食べた桃よりは赤くなっている。
「あ、え、や、そう……なんですね。練習が必要なのかもしれないですね」
思考回路が焼き切れたまま、頭が真っ白な状態で晴翔が言う。
すると、綾香は「ふふ」と小さく笑みをこぼす。
「それじゃあ、練習……する?」
そう言う彼女の表情が、晴翔の目にはとても妖艶に映る。
晴翔は綾香に魔法をかけられてしまったのか、まるで言葉を失ってしまったかの様に、口を開いても言葉が出てこなくなってしまった。
言葉が出ない代わりに、晴翔は首を左右に振る。
それが今の彼にできる精一杯の抵抗だった。
そんな晴翔の様子に、綾香は再び笑みを溢し、晴翔は只々その笑みに目を奪われた。
お読み下さり有難うございます。




