第三十二話 暑い夏の夕暮れに
頭から足元まで、全身水に濡れながら遊ぶ晴翔達。
着替えが無いからと、遊ぶのを控えていた綾香も、開き直ってずぶ濡れになっている。
とても楽しそうに弟の涼太と一緒にはしゃいでいる綾香を横目に見ながら、晴翔は先ほどの自分の行動を振り返る。
倒れそうになった綾香を助けようと、咄嗟に抱き締めた事に対しては、一切の下心はなかった。
彼女を助ける。そのことしか考えていなかった。
だがしかし、倒れた後に、密着している状態の綾香を晴翔は無意識のうちに強く抱きしめてしまっていた。
(夏の暑さにおかしくなったのか俺は?)
下手をしたら、と言うか普通にアレはセクハラ案件になるのでは無いだろうか?
あの瞬間に彼女に悲鳴を上げられて、頬にビンタを喰らっても文句は言えない。
しかし、あの時の綾香は怒った様子はなかった。
むしろ体の力を抜いて、どこか受け入れるかの様な感じがあった。
(…………)
今でも晴翔の脳裏に強く焼き付いた光景。
晴翔の胸をざわつかせる、綾香の幻想的とも言える姿。
陽の光を受けた亜麻色の艶やかな髪には、真珠の様な水滴が滴る。
紅く上気した頬。
ふっくらと柔らかそうな唇から漏れる吐息。
期待と不安、その両方に揺れ、まるで魔法の様に視線を惹きつけて離さない潤んだ瞳。
その瞳がゆっくりと近づいてくる光景。
もしあの時、周りに誰もいなかったら。
2人だけだったら。
もしかしたら……。
その先のことを考えかける晴翔の顔に、不意に水が掛けられる。
「――わぷっ」
「ふふふ、大槻君、隙あり」
顔を振って目を瞬く晴翔。
目の前には、楽しそうに笑みを浮かべる綾香の姿があった。
晴翔は彼女を視界にとらえた後、ふと視線を逸らしてしまう。
何故なのか、晴翔自身にもうまく説明はできない。
しかし、今の彼女は晴翔にとって、とても魅力的に映っていた。
もともと東條綾香という女の子が、とても可愛いということは晴翔も認識していた。
彼から見ても、綾香の容姿は飛び抜けて整っていて、学校の男子達や道行く男性の視線を釘付けにするのも納得していた。
しかし、それは『東條綾香は可愛い女の子』という認識なだけで、或いはそれは芸術性の高い美しい絵画を見るのと同じ様な感覚だった。
そして、晴翔も男である。
可愛い女の子を見るのは好きだし、話したり触れ合ったりできたら楽しい気持ちにもなる。
そう、今までは“楽しい気持ち”で止まっていた。
でも今は、楽しい以外の気持ちが、晴翔にもよく分からない感情が、胸の中に渦巻いている気がしていた。
「よし! 涼太捕まえた!」
「あははは! おにぃちゃん助けて!」
じゃれ合う綾香と涼太。
そこに、心の内の感情を表から隠したまま“いつも通り”を装いながら晴翔も加わる。
「それ! くらえっ!」
両手を大きく広げ、晴翔は綾香と涼太の2人に思いっきり水をかける。
「あわわ! やったな大槻君!」
「助けてって言ったのに! ひどいぞおにぃちゃん!」
晴翔に盛大に水をかけられた2人は、楽しそうに笑いながら抗議の声を上げる。
「涼太、協力して大槻君を倒すわよ!」
「うん! おにぃちゃんを退治してやる!」
打倒晴翔に燃える東條姉弟は、ジリジリと距離を詰める。
「そう簡単に捕まるわけにはいかないね」
晴翔は不敵な笑みを浮かべると、サッと2人から逃げる様に走り出す。
「あ! 待て! 逃げるなおにぃちゃん!」
「追うわよ涼太!」
慌てて追いかけてくる2人を晴翔はチラチラと振り返りながら逃げる。
彼はある程度逃げた後に、逃げる速度を落としてわざと捕まる様にする。
「おにぃちゃん捕まえた!」
「捕まっちゃった。涼太君、速いね」
晴翔の腰に抱きつく涼太の頭を晴翔は優しく撫でる。
すると、そこに涼太だけでなく綾香も加わる。
「私も大槻君、捕まえた!」
「え!? ちょっ!?」
涼太とは違う方向から、晴翔の腕にぎゅむっと抱きついてくる綾香。
そんな彼女に、晴翔は驚きの声を上げる。
自分の腕に抱きつき、無邪気な笑みを見せる彼女に、晴翔の胸の内で渦巻いている感情が、表に出ようとする。
可愛い。
晴翔は純粋に綾香をそう思った。
その感情は、彼女の容姿にだけではない。
幼い弟と一緒にはしゃいで遊ぶ姿。
今みたいに浮かべている無邪気な笑顔。
恥ずかしそうに頬を染めながらも、自分と距離を詰めようとする姿勢。
その全てが、晴翔の心を気持ちを波立たせる。
「次は大槻君が鬼だよ?」
「わーい! 逃げろ!」
姉の言葉に涼太はパッと晴翔から離れ、はしゃぎながら走って逃げていく。
いつの間に鬼ごっこになっていたのか、そんな疑問を感じさせる暇もなく、綾香は晴翔の耳元で囁く。
「捕まえて?」
その言葉に、晴翔はハッと彼女の方に顔を向けるが、綾香はすぐに晴翔の腕を離して、駆け足で逃げていってしまった。
逃げる直前、彼女の流し目と視線が合い、晴翔はドキッとしてしまう。
晴翔は今すぐにでも全力で駆けて、綾香を捕まえたい衝動に駆られる。
しかし、その欲望に素直に従うことができず、晴翔は一生懸命に逃げる涼太の後を負う。
すこし不満そうに見つめてくる綾香の視線から逃れる様に、晴翔は必死に涼太を追いかけた。
―…―…―…―…―…―…―…―
思ったよりも長く水遊びエリアを楽しんだ晴翔達は、日が少し傾きかけた頃に、水溜りから上がる。
「楽しかったーッ!!」
全身ずぶ濡れになりながら、涼太が叫ぶ。
「ほら、バスタオルで頭拭いて」
そんな弟に、綾香がリュックからバスタオルを出して涼太の頭に被せる。
涼太の頭をバスタオル越しに掴んで、ゴシゴシと拭いている綾香に晴翔が言う。
「綾香さん。よかったら、これ使ってください」
そう言って差し出したのは、晴翔が持ってきていた着替えのシャツ。
「え? でもこれ、大槻君の着替え……」
綾香は少し戸惑う反応を見せる。
「女性は体を冷やすと良くないですから」
「でも……シャツはヤギに食べられちゃったけど、キャミソールの着替えはあるから、なんとかなるかなって」
「それでもシャツが濡れてたら、キャミソールを新しくしてもそれも濡れちゃいますよ」
「うん……」
なかなか首を縦に振らない綾香に、晴翔は少し悲しげな表情を作る。
「もしかして、俺のシャツだと気持ち悪いですかね? それなら……しょうがないですね……」
「あ、ち、違くて! そうじゃなくて!」
あからさまに落ち込んだ様子を見せる晴翔に、綾香は慌てて弁解する。
「ほら、私が大槻君のシャツを着たら、大槻君が濡れたままのシャツを着ることになるでしょう? 申し訳ないよ」
「気にしなくても大丈夫ですよ。この天気ですから、手で強めに絞って着てれば、きっとすぐに乾きますよ」
「本当に? 大丈夫?」
上目遣いで伺う綾香に、晴翔は大きく頷く。
「大丈夫です。逆に綾香さんが濡れたシャツを着続けた方が、俺としては気になって落ち着かないですから」
自分だけ乾いた服を着て、女性には冷たく濡れた服を着せるというのは、晴翔の紳士基準に大きく引っかかる。
「俺の為にも、ぜひ使ってください」
「……分かった。ありがとうね大槻君」
綾香は晴翔から着替えを受け取る。
「それじゃあ、涼太君、一緒に更衣室に行って着替えてこようか」
「うん」
晴翔は涼太と手を繋いで、水遊びエリアにある更衣室に向かう。その後に続いて、綾香も女性の更衣室へと向かった。
更衣室で涼太の着替えを手伝った後、晴翔は自分のシャツを手で絞って水気をできるだけ取った後に、再びそれを着る。
しっとりと肌に纏わりつく濡れた生地の感触に、晴翔は思わず渋面を顔を貼り付けてしまうが、綾香のことを考えすぐに表情を元に戻す。
着替えを終えた晴翔と涼太は、女子更衣室の入り口の前で、手を繋ぎながら綾香の着替えが終わるのを待つ。
涼太は朝から遊び続けて疲れてしまったのか、先程から瞼を重たそうにしており、時折り首がコクンと傾いている。
おんぶをした方がいいかなと晴翔が考え始めた時、更衣室の入り口から綾香が出てきた。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
「…………あ、いえ。全然大丈夫です」
一瞬反応が遅れる晴翔。
自分のシャツを着た綾香。
その姿に、一瞬目を奪われてしまった。
綾香にとってはオーバーサイズでダボっとした感じのシャツ。袖は長くて手がスッポリと隠れてしまい、裾は膝の少し上のところまである。
俗に言うところの『彼シャツ』コーデとなった綾香を見て、晴翔はどこか独占欲の様なものが刺激される。
普段自分が着ているものを綾香が着ている。
その事が、まるで綾香が自分の彼女にでもなったかの様な気がして、晴翔は変に意識してしまう。
「どう、かな? 似合ってる?」
少し恥ずかしそうにしながら微笑む綾香に、晴翔は少し言葉に悩みながら答える。
「変ではないと思います」
「そっか、よかった」
自分の服を着せておいて似合っているとは、今の晴翔にはどうしても言う事ができず、直接的に褒める言葉を口にできない。
それでも綾香は嬉しそうにはにかんだ表情を浮かべる。
「それじゃあ、帰ろっか」
「……そうですね。帰りましょう」
少し名残惜しさも感じつつ、晴翔は綾香の言葉に頷く。
帰りの途中では、涼太の眠気が限界に達し、見かねた晴翔が自分の背中にバスタオルを敷いて涼太をおんぶして東條家まで帰った。
東條家に着く頃には、空は夕焼けと夜が混在していた。
「涼太君、家に着いたよ」
晴翔は背中にいる涼太に優しく声を掛けながら、軽くゆすって彼を起こす。
「んん、んんあ? あれ? ここどこ?」
薄目を開けたまま、ボンヤリと言う涼太に綾香が答える。
「お家よ。さぁ、大槻君の背中から降りて」
「……うん……」
涼太は力なく頷くと、いそいそと晴翔の背中から降りる。
「ほら涼太。大槻君帰るから、ありがとうとバイバイして」
「……うん、おにぃちゃん、ありがと……バイバイ……」
寝ぼけ眼を擦りながら、ボソボソと言う涼太に綾香は苦笑を浮かべる。
「大槻君、涼太をおんぶしてくれてありがとう」
「いえいえ」
「それに着替えも、今度洗って返すね」
綾香は着ているシャツの襟を少しつまみながら言う。
「今日はすごく楽しかった。本当にありがとう」
「俺も楽しかったですよ」
お互いに笑みを交わし合う。
その後、2人は無言のまま少しだけ見つめ合う。
「……えと、それじゃあ、また明日」
「……はい、また明日」
少しの気まずさを含みながら、言葉を投げかけ合う。
居心地がいい様で、でも気恥ずかしい感じもあり。
早く立ち去りたい様な、でもずっとこうしていたい様な。
そんな複雑な雰囲気の中、晴翔は口を開く。
「それじゃあ」
「……うん」
軽く片手を上げて晴翔は綾香に背を向ける。
振り向く瞬間に、一瞬彼女が寂しげな表情を浮かべた様な気もするが、それを確認する為に振り返ることもできず、晴翔はそのまま自分の家の帰路に着いた。
東條家から晴翔の自宅までは30分以上は掛かる筈なのだが、彼は気付けば自宅の玄関の前に来ていた。
道中、ずっと今日の綾香とのことを考えて上の空だった為、まるで瞬間移動したかの様な錯覚をする晴翔。
彼はゆっくりと玄関の扉を開けて、家の中に入る。
「ただいまー」
明かりの付いていない家の中に、晴翔は祖母へと声をかける。
その後、晴翔は玄関に腰を下ろし靴を脱ごうとしたところで、ふと動きを止める。
おかしい、変だ。
太陽はすでにほとんど沈み、家の中はすっかり暗くなっている。
だと言うのに、家の中の明かりは一切ついていない。
今日、祖母はどこかに出かける予定はないはず。
家に居るはずなのに灯りをつけていない……。
綾香の事で思考が停止していた晴翔の脳内に、一瞬にして様々な考えが過ぎる。
そのどれもが悪い予想ばかりである。
「ばあちゃん!」
晴翔は叫ぶ様に祖母を呼ぶと、靴を脱ぎ捨てて大急ぎで駆ける。
廊下には、いない。
居間には、いない!
晴翔は焦る気持ちを必死に抑えながら、家の中を巡る。
先程から心臓が痛いほどに早鐘を打っている。
「はぁ、はぁ、ばあちゃん!」
乱れる呼吸の中、晴翔が台所に入ったところで、彼はやっと祖母の姿を確認する事ができた。
しかし、その祖母は台所の床に倒れている状態であった。
全身の血の気がサッと引く感覚に見舞われる晴翔。
彼は慌てて祖母の元に駆け寄る。
「ばあちゃんッ!!」
祖母と晴翔の2人だけが暮らしている家に、彼の悲痛な叫びが響いた。
お読み下さり有難うございます。




