第百七十七話 夕凪
更新が遅れて申し訳ありません。
ここから数話ほど連続投稿いたします。
実はこの物語のこれまでの全ては、ここからの一連のシーンを描くためだったりします。
では……どうぞ。
週末が終わり、気怠げな空気が充満した朝の教室に、ことさら気怠げな声が上がる。
「だりぃ〜。なんで俺は夢の国から現実に戻ってきちまったんだ」
友哉は晴翔の机の上に乗り、盛大に体を逸らして天を仰ぎ嘆きの声を上げる。
「夢の世界に戻りてぇ〜〜現実ダルすぎぃ〜〜勉強この世から消えろ〜〜」
「ダルいダルい言ってっと、余計にダルく感じるぞ?」
晴翔が呆れ顔で言うと、友哉は「はぁ〜」と盛大に溜息をつきながら彼を見る。
「いいよなハルは、現実世界に戻っても、最高に可愛い彼女がいてさ」
「そうだな」
「肯定すんなムカつく」
「しょうがないだろ。綾香は最高の恋人なんだから」
「東條さんは最高だ。けどお前がそれを認めるのはムカつく」
「嫉妬か?」
「嫉妬だ」
いつものような軽いノリで会話を交わす二人。
このままだと、スライムのように溶けてしまいそうなほど、友哉は気怠さ全開である。
晴翔は教室中央でクラスの女子達に囲まれている綾香にそっと視線を向ける。すると、ちょうど彼女と目が合いニコッと微笑みかけられた。その瞬間、周りの女子達から小さな歓声が上がる。
晴翔は微笑み返してから、おもむろに綾香から視線を逸らす。すると、スライム直前の友哉が「イチャイチャすんな」と文句を言ってきた。
「お前も彼女作れよ」
晴翔がそう言うと、彼からキッと鋭い視線を向けられる。
「なんだそれは! リア充の余裕か!? くそっ、こうなったら大天使涼太君のご加護に頼るしかない!」
友哉は遊園地で涼太にプレゼントされたハート型のキーホルダーをポケットから取り出し、それを握りしめて祈りを捧げ始める。
「お前、それ持ち歩いてるんだな」
「あったりまえだろ。このキーホルダー絶対ご利益あるぜ!」
「……そのキーホルダーのご利益がどんなのか、知ってるか?」
「恋愛運アップのご利益だろ? 俺をバカにすんな」
「お、おう……」
『当たり前のことを聞くな』と言わんばかりの友哉に、晴翔は曖昧な表情で頷く。
と、そこに咲が2人のもとにやって来た。
「やっほー2人とも……って、赤城君は何やってんの?」
「大天使のご加護を全身で浴びてる」
怪訝な表情の咲に、友哉は両手を大きく広げ、天井を見上げながら厳かに言う。
「またやってんのね、それ……」
呆れ顔で言う咲は、友哉の右手に握られているキーホルダーに視線を向けると、そそくさと自分のカバンに付けていたペアのキーホルダーを取り外して、サッと自分のポケットにしまう。
彼女の一連の動作を友哉は祈りを捧げるのに夢中で見逃している。
しかし、晴翔はバッチリと見ていた。
涼太君のご加護は本物かもな。
緩んでしまいそうになる口元を必死に引き締めながら、晴翔は心の中で涼太の凄さをしみじみと実感する。
「感じる……感じるぞ! 涼太君のすんごいパワーをッ!」
相変わらずアホなことをしている親友に、晴翔は「そうだな」と適当に相槌を打つ。
「ところで、2人に伝えておきたいんだけど」
咲は熱心に祈りを捧げている友哉をスルーしながら話し始める。
「今日はリレーの練習無しでいい? みんな、昨日の疲れが溜まってるでしょ?」
「まぁ確かにね。了解だよ」
「赤城君もオッケー?」
「オケオケ!」
「んじゃ、そういうことで」
用件を伝え終えた咲は、軽く片手を振ってから立ち去っていく。
晴翔は咲の背中に視線を投げ掛けてから、友哉の方を見る。彼は「きてます……きてます!」とブツブツと呟く怪しい人物になっていた。
「友哉、お前もっと心を込めて祈ったほうがいいぞ? そしたら本当にご利益があるかもな」
「俺は真剣だ! ナンマイダ〜ナンマイダ〜!」
まるで祈祷師のように、両手でキーホルダーを握りしめ、それを左右に振る友哉。
「もっと真剣に、切実な思いを込めて」
「大天使涼太君よ! 哀れな仔羊に寛大なる慈悲を〜!」
「もっともっと」
「彼女欲しい〜! デートしたい〜! 勉強イヤ〜! 毎日休日にしてくれ〜! エンドレスホリディ〜!」
「それ、恋愛と関係ないだろ」
気怠さと煩悩にまみれた友哉に、晴翔は冷静にツッコミを入れた。
その日の学校は、一日中友哉が「だりぃ〜」と言っていたこと以外は何事もなく終わる。
そして放課後。
晴翔と綾香は2人並んで家への道を歩く。
「今日一日中、赤城君が『だりぃ〜』って言ってたね」
「夢の国ロスらしいよ」
「それならしょうがないね」
「友哉の場合、ショックが大き過ぎだけどね」
笑いながら答える晴翔に、綾香も「たしかに」と笑みをこぼす。
「咲がシャキッとしなさいって怒ってたからね」
咲が友哉の背中を叩いて喝を入れている場面を思い出し、綾香は「ふふ」と笑う。
「このままだと友哉は、藍沢さんに呆れられて愛想を尽かされるな」
「うーん。でも咲もなんだかんだで楽しそうだけどね」
「そうなの?」
綾香の言葉に晴翔は首を傾げる。
「ほら、咲って面倒見がいいでしょ? だから、赤城君みたいな人をお世話するのって、意外と好きだと思うんだよね」
「てことは、やっぱりあの2人って相性いいのかな?」
「私はそう思う」
小さい頃からの付き合いである綾香がそういうのなら、きっと友哉と咲は相性がいいのだろう。
そう晴翔が思っていると、隣を歩く綾香が少し弾むような声音で言う。
「咲と赤城君が付き合ったら、すごく楽しいと思うなぁ」
「というと?」
「ほら、昨日みたいにみんなでデートができるし、もしかしたら旅行デートとかもできちゃうかも」
「なるほど、それは確かに楽しそう」
綾香と2人でするデートもいいが、大人数でワイワイと賑やかにデートをするのも良いかもしれない。
晴翔がそんなことを思いながら歩いていると、スッと左手を握られた。
彼は手を繋いできた綾香の方に視線を向ける。
彼女は柔らかな笑みを浮かべながら、遠くの空を見上げた。
「いい天気だね」
「だね。きっと今日も綺麗な夕焼けになるよ」
「後で一緒に夕焼け見ながら散歩する?」
「いいよ」
「やった」
ニコニコと嬉しそうに笑う綾香。
彼女の笑顔に、晴翔も幸せを感じながらゆっくりと歩く。
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「清子さん。ここの編み方ってどうすればいいですか?」
「ここはね。まず鎖編みを一つ立ち上げて、そこから26目まで普通の細編みで大丈夫ですよ」
「わかりました。えっと、裏山にかぎ針を通してっと……」
「そうですそうです。上手ですよ」
夕食後、綾香は清子に編み物を教えてもらっている。
最近は、夕飯を食べ終えた後に清子と一緒に編み物をするのが彼女の日課になっている。
熱心に編み目を見つめながらかぎ針を動かしている綾香。それを清子が微笑みながら温かく見守っている。
仲の良い二人の姿に、晴翔が表情を緩めていると、涼太の催促の声が耳に入る。
「つぎ、おにいちゃんの番だよ」
「おっと、ごめんね」
晴翔は綾香達から視線を外し、オセロの盤面を見下ろす。
彼女に気を取られていたせいか、なかなか厳しい手を涼太に指された晴翔は「むぅ」と唸る。
「涼太君、すごく強いね」
「えへへ。僕、おにいちゃんに勝っちゃうよ?」
「そう簡単には負けないぞ」
そう言いながら、晴翔は反撃の一手を指す。
清子が東條家の家政婦になったことから始まった綾香との半同居生活。
本来、日曜日と月曜日は清子の仕事は休みであるため、大槻家で過ごす予定だった。しかし、最近は月曜日の昼過ぎに清子が東條家へ戻って来るため、晴翔も自然と綾香の家に来る流れになっている。
なんだかんだ、ばあちゃんも賑やかなこっちの方が居心地がいいのかもしれない。
晴翔はそんなことを思う。
オセロ対決をしている涼太は、かわいらしく「う~ん、ここに置いたらこうで……」と悩ましげに呟いている。綾香は時折談笑を交えつつ、楽しそうに清子と編み物をしている。
修一は郁恵とダイニングテーブルを挟んで、新しい釣り道具の購入許可をもらおうと、必死に釣り竿のパンフレットを片手に熱いプレゼンをしている。
それを郁恵は、ニコニコと微笑みながらサラリと受け流していた。
賑やかで楽しく、温かい東條家での日々。
それが、晴翔にとっての日常になりつつあった。
「この釣り竿はね。とても小さな当たりも見逃すことなく感じ取れるんだ! つまり釣果が格段に向上する! ということはだよ? たくさん新鮮な魚を釣ってきて、豪華な海鮮尽くしを家で食べられるということなんだ!」
「うふふ、それはとても魅力的ね。わかったわ。その釣り竿でたくさんお魚を釣ってきてね」
「っ!! もちろんだとも!!」
見事郁恵から購入許可を勝ち取った修一が、ガッツポーズをしながら満面の笑みを浮かべる。
夫の嬉しそうな反応に微笑みながら、郁恵は編み物に熱中している綾香に声を掛けた。
「そろそろお風呂に入ってきたら?」
「あれ? もうこんな時間だ。清子さん、また明日続き教えてください」
「はい、喜んで」
綾香は途中の編み物を片付けてお風呂に行く準備をするためソファから立ち上がる。
「あ、そういえば。編み物の糸っていろんな種類があるんですよね?」
「そうですよ。最近はたくさんの種類がお店に並んでいますね」
「私それを見てみたいんですけど、その……よかったら、今度一緒に編み物の糸を見に、一緒にお出掛けしませんか?」
少し緊張を含んだ表情を見せながらお誘いをする綾香。
清子はそのお誘いに、とてもうれしそうに顔の皺を深めた。
「はい。ぜひ一緒に行きましょう」
「ありがとうございます! 楽しみです!」
清子が快諾してくれて、綾香もニコッと笑う。
二人の会話に、オセロに集中していた涼太も反応を示した。
「おねえちゃん、おばあちゃんとお買い物に行くの?」
「うん」
「僕も一緒に行く!!」
「いいわよ」
「やった!! おにいちゃんもいっしょに行こうね!」
心の底から嬉しそうに喜ぶ涼太に、晴翔もにっこりと笑う。
「うん、一緒に行こうか」
温かく優しい東條家との日常。
晴翔は、綾香に続いてゆっくりとソファから立ち上がる清子を眺めながら思う。
こんな日常が続くなんて、なんて幸せなことなんだろうと。
夏休みが始まる前は、唯一の家族となってしまった清子との二人での生活だった。
とても静かな生活。
それが、今は笑みの絶えないにぎやかな生活となっている。
晴翔は、自分の恋人になってくれた綾香と、自分たちを受け入れてくれた東條家に感謝の気持ちを抱きつつ、幸せな日々に口元を緩める。
そんな彼の瞳に映り込む祖母の姿。
晴翔にとって、ただ一人の家族。かけがえのない大切な存在。
その姿が一瞬ふらついた。
と思った次の瞬間、ぐらっと大きく揺れて体勢が崩れる。
晴翔には、それがスローモーションのように映る。
しかし、それは清子がドンと床に倒れこむ大きな音で、一瞬にして元に戻る。
「……ばあちゃん?」
あまりに突然の出来事過ぎて、晴翔は呆然とした表情を浮かべる。
お風呂に行こうとしていた綾香は、清子の倒れこむ大きな音に振り返り、そこで動きを止める。
涼太はびっくりしたように、大きく目を見開いた。
修一と郁恵は、何事かと椅子から立ち上がる。
まるで時が止まったかのように感じる一瞬。
晴翔にとって永遠のような一瞬。
とても永く、そして、とても短い一瞬の後、晴翔の体は勝手に動く。
「ばあちゃんッ!!!!」
晴翔は叫びながら祖母のもとに駆け寄った。