第百七十六話 満ち足りた朝
晴翔は布団から起き上がると、枕元に置いてあるスマホで時刻を確認する。
「ちょっと寝坊したか」
昨日の遊園地で思ったよりも疲労が溜まっていたらしく、彼はいつもより少しだけ遅い時間に起床する。
それから、習慣の早朝勉強を行なってからキッチンへと向かった。
そこでは、すでに清子が朝ごはんの準備をしていた。
「おはよう、ばあちゃん」
「おはよう晴翔」
お互いに挨拶を交わすと、晴翔は清子の隣に立ち、一緒に朝食の準備を始める。
「ばあちゃん、早速そのエプロン使ってるんだね」
「涼太君が買ってくれた大切なお土産だからねぇ」
晴翔は、昨日行った遊園地のマスコットキャラがワンポイントで刺繍されている祖母のエプロンを見て言う。
清子は顔の皺を深くしながら、とても嬉しそうに自分のエプロンを見下ろした。
晴翔はじゃがいもの皮を剥きながら、そんな祖母の姿に頬を緩める。
「涼太君、一生懸命ばあちゃんのことを考えて選んでいたから、大切に使ってね」
「もちろんだとも。このエプロンは、私の宝物だよ」
笑みを浮かべながら、晴翔と清子が朝食の準備をしていると、少し眠たそうな顔をした綾香がキッチンへとやってきた。
「おはよう晴翔。おはようございます清子さん」
「おはようございます、綾香さん」「おはよう綾香。眠たそうだね」
晴翔は挨拶を返しながら、彼女の重たそうな瞼を見て言う。
「もう少し寝てたら?」
「ううん、一緒にご飯作る」
綾香はふるふると首を振ると、清子の隣にやってきた。
「早く清子さんの料理を習得して、晴翔の胃袋を掴まなくちゃ」
健気なことを言ってキッチンに立つ彼女に、清子はニッコリと笑みを深くして、優しく丁寧に綾香に料理を教える。
「綾香さん。ナスは塩水に浸すと色良く料理できるんですよ」
「そうなんですね。えーっと、お塩はどのくらいですか?」
「味の邪魔をしないようにほんの少しで大丈夫です」
「このくらいですか?」
「そうですね。そのくらいです」
清子はとても嬉しそうに、自分が持っている知識を惜しみなく綾香に伝える。
綾香も、少しでも清子の料理の味に近づけるように、真剣な表情で耳を傾けて手を動かす。
晴翔は、綾香と清子が並んで立っている姿を見て、胸の中に嬉しさが込み上げてくるのを感じる。
清子は家政婦として、東條家と順調に打ち解けている。
修一や郁恵は、彼女の丁寧な掃除や美味しい料理に満足し、涼太もよく懐いている。
綾香は最近、清子に教えてもらいながら一緒に編み物もしている。
晴翔は自分の大切なたった一人の家族である清子が、東條家に受け入れられている現状に、嬉しさと感謝の気持ちを噛み締める。
彼は、そんな小さな幸せを感じながら朝食を作る。
そして、ジャガイモとワカメの味噌汁を作り終えた時、綾香と一緒に料理をしていた清子が、調理がひと段落して「ふぅ」と少し疲れたように息を吐き出した。
「大丈夫ですか?」
綾香が心配そうな顔を向けると、清子は微笑んだまま「大丈夫ですよ」と答える。
「歳をとると、体が昔のように思い通りに動かなくてねぇ」
「もう煮物もできましたし、あとは器によそうだけなので、座って休んでいてください」
まるで自分の祖母であるかのように、親身になって心配する綾香。
清子は柔らかい表情で首を振ると「よいしょっ」と腰を伸ばす。
「せっかく、こんなにやり甲斐のあるお仕事を貰えたのですから、まだまだ頑張れますよ」
「あまり無理はしないでくださいね」
「はい。ありがとうございます」
本当の祖母と孫のように見える二人の姿に、晴翔は心が温かく安心感に満たされるのを感じながら、清子に言う。
「ばあちゃんも若くはないんだから、無理をして倒れたりしないでよ」
「まだまだ、私は元気だよ。綾香さんや涼太君に、もっとたくさん美味しいものを食べて、笑顔になって欲しいからねぇ」
「私、清子さんの料理すっごく好きです。毎日清子さんのご飯を食べられて幸せです」
「ふふふ、ありがとうねぇ」
綾香の言葉に清子は心の底から嬉しそうに微笑む。その二人を見て、晴翔の心も晴れ渡る。
晴翔達は、穏やかで幸せな空気に包まれながら朝食やお昼のお弁当を作っていると、修一がリビングへやってきた。
「清子さんに晴翔君おはよう! 朝からいつもありがとうございます」
朗らかな笑顔で挨拶をした修一は、晴翔達と一緒に料理をしている綾香に視線を向けた。
「おはよう綾香。そうやって晴翔君達と一緒にキッチンに立つ姿が、だんだんと馴染んできたね」
「も、もうパパ。そういうことはハッキリと言わなくていいから……」
父親の言葉に、綾香はほんのりと頬を赤くしながら、器によそったナスの煮物をダイニングテーブルに運ぶ。
「言葉にするのは大事なことだよ?」
「それはそうだけど、パパのは恥ずかしいからやめて」
「あはは、わかったよ。お、美味しそうな煮物だね。これは綾香が作ったのかい?」
朝からとても楽しそうに笑う修一は、運ばれてきたナスの煮物に目を輝かせる。
「うん、清子さんに教えてもらいながらね」
「綾香さんは一生懸命に覚えようとしてくれるので、私もとても教え甲斐があるのですよ?」
清子はお盆で漬物とインゲンの胡麻和えを運びながら修一に伝える。
「そうですか。いやぁ清子さんが先生なら、綾香が料理上手になるのは間違いないですね!」
清子の言葉に、修一は確信した顔で「うんうん」と頷く。そして、晴翔に向かって上機嫌に言う。
「晴翔君、きっと綾香は素晴らしいお嫁さんになってくれると思うよ!」
「ちょっ!! パパ! さっきそれやめてって言ったばかりでしょ!!」
まったくいうことを聞いてくれない父親に、綾香は頬を膨らませてプンスカ怒る。
「綾香は、今の時点でも俺にとってこれ以上ないくらいに最高の彼女ですからね。修一さんの言うことは間違いないです」
晴翔は、レタスときゅうりの温泉卵サラダに鰹節とポン酢をかけながらにこやかな笑みで答える。
夏休みの時は、いまのようにグイグイくる修一にドギマギしていた。しかし、東條家で寝食を共にするようになり、さすがの晴翔もだいぶ慣れてきた。
「綾香と出会えて、こうして恋人になれたことに毎日感謝しています」
「いやぁー! 私も晴翔君のような素晴らしい男の子が娘の彼氏で鼻が高いよ! 婿になってくれたら最高なんだけどね!」
「だから! パパッ!!」
朝からハイテンションな修一に、綾香が叫ぶ。
彼女は、父親の言葉に対する抗議で怒った表情を作ろうとしているが、晴翔の言葉が嬉しすぎて蕩けたような笑顔になってしまっている。
賑やかな東條家の朝の風景。そこに、郁恵と涼太も加わる。
郁恵に手を引かれながらリビングにやってきた涼太は、眠たそうに片手で目を擦っていた。しかし、キッチンに立っている清子を見ると、その眠たそうな顔がパッと一瞬で輝いた。
「あ! おばあちゃんエプロン使ってくれてる!!」
自分が選び、晴翔と一緒に買ったお土産であるエプロンを清子が早速使ってくれていることに、涼太は嬉しそうにはしゃぐ。
「ありがとうね涼太君。このエプロンのおかげで、毎日お仕事頑張れるよ」
「えへへぇ」
優しい清子の笑顔に、涼太は少し照れくさそうにはにかむ。
郁恵は涼太の頭をそっと撫でる。
「よかったわね。さ、みんなが美味しい朝ごはんを作ってくれているから、テーブルにつきましょう」
「うん!」
涼太は元気よく頷くと、自分の席に飛び乗る。
続いて郁恵も、朝食の準備をしてくれた晴翔達に「ありがとうね」と微笑んでから席についた。
「あら? 綾香ったら顔が赤いけど、どうかしたの?」
「……べ、別に何でもないよ」
「ふ〜ん?」
綾香は母親の視線から逃れるように、炊飯器からお茶碗にご飯をよそっていく。
晴翔も全員が起きてきたので、味噌汁をお椀によそいダイニングテーブルに並べた。
朝食が食卓に並び、全員が席に着いたところで修一が手を合わせる。
「それじゃあ、朝から素晴らしい朝食に感謝して、いただきます」
彼の後に全員が『いただきます』と手を合わせ、東條家でのいつもの朝食が始まった。




