第百五十五話 雲の隙間から差し込む夕日
「それでは、お邪魔しました」
石蔵は玄関で靴を履くと、振り返って頭を下げる。
「また遊びに来てね。ブラウニーとても美味しかったわ」
玄関までお見送りに来ていた郁恵が、ニッコリと笑いながら言う。
「雫ちゃんも友哉君も、いつでも遊びに来てね。もちろん咲ちゃんもね」
「はい、またお邪魔させて頂きます」
「ありがとうございます。じゃな、ハルと東條さん」
雫はペコリと頭を下げ、友哉は晴翔と綾香に軽く手を振る。
その隣では、咲が「郁恵ママ、また来ますね〜」とゆるい挨拶を交わす。
そこに、郁恵の足元にくっついていた涼太が、ゆっくりと前に出てきて石蔵を見上げた。
「ん? どうしたんだい涼太君」
近付いてきた涼太に石蔵が腰を屈めて尋ねると、彼はピクッと肩を揺らしたあと、おもむろに口を開く。
「……今日はありがとうございました。おかし、とってもおいしかったです」
ブラウニー効果のおかげで大分恐怖心が薄れたのか、涼太は少しビクビクしながらも、石蔵にぺこっと頭を下げる。
「っ!?」
石蔵は、涼太のお礼に大きく目を見開くと、嬉しさを堪えきれないかのように、口元にニッコリと笑みを浮かべる。
「涼太君が喜んでくれて、兄ちゃんもすごく嬉しいよ」
「えへへ……」
「涼太君はどんなお菓子が好きなのかな?」
「えーっと、僕は……いちごが乗ったケーキが好きです」
「そうかショートケーキが好きなんだね! じゃあまた今度作ってあげるね!」
「は、はい……ありがとうございます」
テンションが高い石蔵に、涼太は少し気圧された様子を見せるが、それでも石蔵に対して小さく頭を下げる。
そのやり取りに、隣の雫が反応する。
「カズ先輩、私もショートケーキ食べます」
「はいはーい! 私も食べたいです」
「私も食べたいな……」
雫に続いて咲も目を輝かせて手を上げ、綾香はポソッと呟く。
『ケーキ』という単語に反応を示す女子達に、郁恵がニッコリと笑う。
「家のキッチンで良ければ、いつでも自由に使ってね」
「あはは、ありがとうございます。では、また近いうちにお借りするかもしれません」
郁恵の言葉にありがたく頭を下げる石蔵に、晴翔は協力を申し出る。
「その時は、またコツとかレシピとか教えて下さい」
「おう、いくらでも教えてやる」
気前よく頷く石蔵。そんな二人の会話に、友哉はのんびりと口を開く。
「これを期に、俺もついにパティシエ男子デビューだな」
そう言いながら呑気に笑う友哉を咲が揶揄うように言葉を投げかける。
「赤城君は、つまみ食い男子でしょ? 赤城君と料理したら、レシピの半分の量しかできなさそう」
「藍沢さんそれはモリすぎ。さすがの俺も自制心ってものがちゃんとありますので。食べても三分の一までです」
「食べ過ぎだろそれ」
ドヤ顔で言い放つ友哉に、晴翔が即行でツッコミを入れる。
そして、緩く穏やかな笑いに包まれながら、石蔵たちは『お邪魔しました』と東條邸を後にした。
それから暫く石蔵たち四人は住宅街を歩く。
東條邸に向かう時は降っていた雨は、今はもう止んでいる。そして、駅方面へと向かう別れ道のところで四人は一旦立ち止まる。
「あ、俺達はこっちなんで」
「おう、そうか。咲ちゃんは電車だったか」
「はい。和明先輩、今日はごちそうさまでした! 次のショートケーキも期待してますっ!」
咲は石蔵に対する緊張がすっかりなくなったようで、普段の彼女らしく明るい表情とともに敬礼しながら朗らかに言う。
それに対して石蔵も「おうよ」と笑みで返す。
「じゃ、さようなら和明先輩、雫ちゃん」
友哉と咲は揃って手を振ったあと、駅方面へと歩いていく。
雫は二つ並んだ背中を眺めながら、スッと顎に手を添えた。
「あの二人、お似合い」
「ん? そうなのか?」
「です。私のセンサーがビクンッビクンッ反応しています」
「ほーん?」
あまり興味が無さそうな反応を示す石蔵に、雫は「はぁ~」と大袈裟な溜息を吐きながら、家に向かって歩き出す。
「これだからカズ先輩は。もう少し恋愛というものに意識を向けたらどうです?」
「別にそこに無関心な訳じゃねぇよ」
石蔵も歩き出した雫に並びながら答える。
「ただ、人の恋愛感情をあーだこーだ推察することに興味が無いってだけだ」
「まぁ、魔人の先輩にヒトの心は理解できないですもんね」
「お前な……」
相変わらずイジッてくる雫に、石蔵は呆れ顔を見せる。
しかし、彼女はそれを完全にスルーして顔を空に向けた。
「雨、止みましたね」
「だな」
「雲の切れ間から夕陽が出てますね」
「だな」
「綺麗な空です。カズ先輩には全く似合わない空ですね」
厚い雲の隙間から光の筋が差し込み、雲の表面を淡く黄色に染めている。
綺麗で幻想的とも言える空模様を雫は無表情のまま見上げて歩く。
「やっぱり、カズ先輩は曇天がお似合いです。その方が強面もバエです。こんな空では威力半減です」
「…………」
雫の言葉に、石蔵はふと歩みを止める。
数歩先まで歩いてから、彼女は石蔵が立ち止まったことに気が付き、首を傾げた。
「む? どうしました?」
「雫、お前……」
「もしかして、怒りました? 怒っちゃいました?」
無表情のまま、まるで煽るかのような言葉を発する雫。
しかし、付き合いの長い石蔵は、彼女の瞳の奥に不安な光が揺らいでいるのをしっかりと感じ取っていた。
「怒ってねぇよ。怒るわけないだろ。てか……怒れねぇよ」
「?? いい人アピールですか?」
「お前にそんなことしても意味ないだろ」
首を傾げる雫に、石蔵は呆れて言う。
「ですね。カズ先輩の凶悪さはすでに知っているので」
「あのな……」
石蔵は呆れ顔で「はぁ」と溜息を吐き出すと、少し真顔になって雫をジッと見詰めた。
「む? なんですか、そんな熱烈な視線を向けてきて、愛の告白ですか? すみませんが、私はハル先輩一筋……じゃなくて、孤高を愛する気高き女なので」
雫は、いつもの言い回しをしようとしたが、その途中で言葉を変える。
「雫、お前……」
「なんですか。言っときますが私はアイアンハートなので」
まだ何も言っていない石蔵に対して、雫は一方的に言葉を発すると、再び歩き出す。
まるで、何かから逃げるように。
石蔵は、そんな逃げようとする彼女にそっと腕を伸ばした。
彼は、幼い頃から雫を知っている。
晴翔を含めた三人で、誰よりも信頼でき、心の近い友として過ごしてきた。そんな石蔵だからこそ、雫の変化に気付いた。
普段から、彼女は石蔵のことをイジッてくる。だが今日のイジリはいつもと様子が違うことに。
石蔵に腕を掴まれた雫は、無言で振り返る。
「…………」
「……お前、やっぱり今日、辛かったんじゃないのか?」
「……は? なんで私が辛くなるんです? 意味がわかりません」
雫はその無表情を僅かに顰める。そして、腕をグイッと引いて石蔵に掴まれている腕を解こうとした。
しかし、彼はしっかりと彼女の腕を掴んで離さない。
石蔵は、今日の雫の様子がいつもと違うことに、一緒に東條邸に向かっている時から気が付いていた。
その変化は、お菓子作りを始めた時からより一層顕著になっていった。
一見すると普段となにも変わらないように見えた雫。
しかし、長い時間、そばで彼女を見てきた石蔵にとっては、あまりにも大きな違いだった。
「雫はずっと……晴翔のことが好きだっただろ」
「……だから何ですか。そんなのカズ先輩に関係のないことです」
突き放すかのような言葉を発する雫。
彼女はもう一度腕に力を込めて腕を振り払おうとする。
それでも、石蔵は彼女を離さなかった。
「関係ある。俺にとっては関係があるんだよ」
今日一日、雫は石蔵をイジッてきた。イジリ倒してきた。
それはまるで、心の中の何かを外に投げ出すかのように。必死に普段の自分を保とうとするかのように。
石蔵は知っていた。雫の感情を。
彼女の気持ちが誰に向いているのかを。
そして、石蔵は知った。
その気持ちが、いま行き場を失っていることを。
「なんで、カズ先輩に関係あるんですか。これは私の問題です」
「俺の問題でもあるんだよ」
石蔵は、雫の感情を知っていたからこそ、自分の感情を抑え込んでいた。
彼女に必要なのは自分ではない。そう考えて、雫を見守っていた。
幼い頃から、大切にしていた関係を守るために、自分の気持ちよりも、彼女や彼を優先した。
雫が喜ぶなら。晴翔の心の溝が埋まるのなら。
石蔵はそれでいいと納得していた。
しかし、状況は変わった。
雫の気持ちが行き場を失ったのなら、それを放っておくことはできない。
一度は抑え込んで、納得した石蔵の感情がそれを良しとしない。
「なんでカズ先輩の問題になるんですか。私のことが好きなんですか?」
石蔵は決心した。
今まで大切にしてきた三人の関係。
そこから、晴翔は一歩踏みだした。夏休みで得たきっかけをもとに、大きな一歩を踏み出した。
ならば、自分も踏み出そうと。
「あぁ、好きだよ」
「……は?」
一度決心したのなら、自分の気持ちをしっかりと伝える。
漢なら、ウジウジ悩まず行動あるのみ。
石蔵は自分の心情に従って動き出す。
「ずっと、お前が好きだった」
「は? はっ⁉ はぁーーーっ!?」
石蔵の告白に、雫の無表情は跡形もなく消え去る。
いつもは余り感情の籠らない瞳は、可愛らしく大きくなり、口はポカンと開けられたままとなる。
「な、ななな、なななななぁ! なにを言ってるんですかッ⁉」
「お前が好きだと言っている」
「すす、すき、すきき、好きとか! 公衆の面前でそんな事言って恥ずかしくないんですかッ⁉」
「あぁ、恥ずかしくない。お前のことが本気で好きだからな」
「んあはぁッ⁉」
石蔵の真っ直ぐな言葉に、雫の口からは奇妙な音が漏れる。
「お前は晴翔のことが好きだと知っていたから、俺は自分の気持ちを抑えていた。晴翔と一緒にいることが雫の一番の幸せなら、それでいいと思っていた」
石蔵は、雫の腕を浮かんだまま、彼女を逃がさないように言葉を紡ぐ。
「けど、その晴翔は綾香ちゃんと一緒になっちまったからな」
「な、なんですかそれ! 失恋した今ならチョロいぜ! ってことですか!!」
「まぁ、そう言われればそういうことになっちまうな。言い訳はしねぇよ。けどな、俺は惚れた女の悲しむ姿なんか見たくねぇんだ」
「ほ、惚れた女とか言うなッ!」
「いいだろ別に。本気で俺はお前に惚れてんだからよ」
「ッッ!!」
ひたすらに真っ直ぐに言葉をぶっつけてくる石蔵に、自称アイアンハートである雫は、普段の無表情からは想像できない程に、慌てふためいている。
「傍から見れば、雫の言う通り、俺は弱みに付け込んで落とそうとしてる卑怯な男かもしれねぇ。でもな、周りからどう思われようが、関係ねぇ。俺にとって大事なのは、お前の気持ち、それだけだ」
「カズ先輩は卑怯男です! 弱みに付け込む悪魔です! 女の敵です!」
「あははは、評価最低だな」
雫の言葉に、石蔵はあっけらかんと笑う。
そして、その笑いを収めると真剣な目で雫を見詰めた。
「お前がまだ晴翔のことを好きなのは知っている。それでもいい。むしろその気持ちは忘れるな。雫にとって晴翔は大事な男だろ? 簡単に忘れるんじゃねぇ。俺は、晴翔のことを好きなことも含めた雫が好きだからよ」
「っ!?!?!? カズ先輩は寝取られ願望のある変態男ですッ!!!!」
「ばか野郎。ちげぇよ」
「ば、ばか野郎はカズ先輩です!!!! バカで、アホで、おたんこなすで強面で、卑怯で女の敵で魔王で強面でギャップ男でバカで強面でスイーツバカで強面の最低男です!!!!」
雫は石蔵のことをこれでもかという程に罵倒する。
しかし、彼に掴まれている腕を振り払おうとすることはもう無かった。
いつも無表情な彼女の顔は、雲の切れ間から差し込む夕日に照らされて真っ赤に染まる。
その姿は、どうしようもない程に、恋に振り回されて困惑する女の子の表情であった。
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