第百十話 少しの間だけ、我儘になってもいい?
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綾香はそっと扉を閉めると、おもむろに部屋の中に入ってくる。
「勉強してたんだね」
彼女は机の上に広がっている勉強道具に視線を向けて言う。
「うん、まぁこれは日課だから」
「そうなんだ、さすが晴翔君だね。私も見習わなきゃ、テストももうすぐ始まるし」
夏休み明けの定期考査が来週に迫っている事を思い出したのか、綾香は少し憂鬱そうな表情を晴翔に見せる。
そんな彼女に、晴翔は優し気な目を向ける。
「そう言えば、全科目80点以上でご褒美だったっけ?」
「うん、約束覚えててくれたんだね」
「もちろん」
頷く晴翔に綾香は嬉しそうに頬を緩める。
「晴翔君のご褒美楽しみ」
「おぉ、全教科80点以上取るのはもう確定?」
既にご褒美を貰うつもりになっている綾香に、晴翔は少し揶揄う様に言う。
「だって、今回のテスト勉強はその為に頑張ったもん。でも……」
一旦言葉を区切ると、彼女は少し俯きながら上目遣いに言う。
「もしダメだったら、その時は慰めてくれる?」
「……いいよ。慰めてあげる」
「ふふ、やった」
狙ったようなあざとい仕草ではあったが、晴翔はその魅力にやられて苦笑を浮かべる。
そこで彼は、綾香が部屋に来てから立ちっぱなしだという事に気が付く。
「ごめん綾香、立ちっぱなしだったね。一旦すわ……」
『座ろうか』と言いかけて晴翔は口をつぐむ。
いま晴翔が使わせてもらっている部屋は、将来的には涼太の部屋になる予定だが、現状は空き部屋同然となっており、物が全くそろっていない状態である。
机だけは、修一が晴翔の為に急遽用意してくれたが、その他のベッドや腰を下ろせそうなクッションは全く揃っていない。
現在床にあるのは、先程晴翔が寝る為に敷いた布団のみとなっている。
「座れるところが無いね……」
部屋を見渡して言う晴翔。
そんな彼に、綾香が頬を赤く染めながら遠慮がちに口を開く。
「じゃあ……晴翔君の上に座ってもいい?」
「え? それは……いいけど……どうやって座るの?」
机の前の椅子に座っている晴翔が、戸惑いがちに言葉を返す。
「それはね……」
綾香は顔を赤くしたままゆっくりと晴翔に近付くと、そのまま向き合う様な形で彼の太ももの上に腰を降ろした。
「こうやって座るの」
そう言って対面に座る綾香は両腕を伸ばし、晴翔の両肩にそっと手を添えた。
急激に距離感が縮まり、太ももから伝わる感触と温もりに、晴翔の耳には彼自身の鼓動がハッキリと聞こえてくる。
「あ、綾香? ちょっと近すぎない?」
「……イヤ?」
「嫌じゃないけど、その……ちょっとドキドキし過ぎて胸が痛いかも」
「そんなにドキドキしてくれてるの?」
「それは、まぁ……好きな女の子がこんなに密着してきたら、誰でもドキドキはするよ」
「ふふふ、そうなんだ。私もドキドキしてるよ?」
そう言って潤んだ瞳で視線を絡めてくる綾香。
首もとまで恥ずかしそうに赤く染めながらも、甘えるように距離を縮めてくる彼女の様子に、晴翔はふと気が付き、申し訳なさそうに視線を下げた。
「ごめん綾香、やっぱり雫との事で不安にさせちゃったね」
彼のその言葉を聞いて、綾香は僅かにピクッと身体を揺らす。
「…………」
彼女は黙ったまま俯く。
先程雫の話をした時、綾香は気にしていないと言っていた。しかし、口ではそう言いつつも、内心ではやはり晴翔と雫の関係について不安になっていたのだろう。
学校で見た彼女の驚いた顔を想い出しながら、晴翔がそう考える。
すると、俯いていた綾香が、小さな声で話し出した。
「……違うの、不安……になったんじゃないの……」
綾香はそう言うと、ゆっくりと顔を上げて晴翔と目を合わせる。
「ねぇ晴翔君……」
「ん?」
「ちょっとだけ……少しの間だけ、我儘になってもいい……かな?」
囁く様に、ほんの僅かに後ろめたさを含めながらも、勇気を出して甘えてきてくれている彼女に、晴翔は優しく微笑む。
「うん、少しと言わずに、存分に我儘になってもいいよ」
「……晴翔君甘すぎ。そんな事言われたら私、どんどん欲張りになっちゃう」
「別に俺は構わないよ?」
「もう……」
綾香は怒った様な表情を作りたかったのだろうが、それは見事に失敗して、溶けた様なデレデレの顔付きになってしまう。
彼女は晴翔の両肩に添えていた腕を更に伸ばして、彼の首の後ろで両手を握る。
「あのね、さっきも言ったけど、私は晴翔君からの気持ちをちゃんと受け取っているから、不安にはなってないの。ただね……嫉妬しちゃったの」
「それは、雫にって事?」
「……うん」
小さく頷く綾香。
彼女は晴翔に少し顔を寄せながら説明をする。
「学校で、堂々と晴翔君と話してる堂島さんを見てね、羨ましいって思っちゃったの。私は晴翔君と話せないのにって」
「そっか……」
「晴翔君の彼女は私なのに、なんで私は話せないで堂島さんは話せるのって」
そう言った後に、綾香は少し自虐めいた苦笑を浮かべる。
「凄い我儘で滅茶苦茶な事言ってるよね私。だって私が学校では恋人関係を秘密にしようって言い出したのに……」
少し落ち込んだ様な声音で言う彼女。
晴翔は優しく微笑んだまま、慰める様に言葉をかける。
「でもそれは、中学時代のトラブルにトラウマがあるからでしょ? ならしょうがないよ」
「……うん。でもね、今日の堂島さんを見て、やっぱり私も学校で晴翔君と普通に接したいって思ったの。でも、やっぱりちょっと怖くて……」
「綾香……」
晴翔は自分の膝の上に座る綾香に手を伸ばし、優しく抱き締めてあげる。
「そんなに無理する事はないよ? 学校では一緒にいられないけど、家ではこうして二人でいられるんだし。学校の方はゆっくりと二人で考えていこう」
「晴翔君……ありがとう」
綾香は嬉しそうに笑みを浮かべると、彼の首に絡めていた腕を引き寄せて、晴翔の首元に頬を寄せる。
「大好き……」
「俺もだよ」
晴翔はそう返すと、彼女の柔らかな髪をそっと撫でる。
「ねぇ、晴翔君……」
綾香は晴翔の首元から一旦顔を起こすと、甘える様に彼の名を呼ぶ。
「なに?」
「彼女の特権、使ってもいい?」
お互いの鼻が触れ合いそうな至近距離でそう言う彼女に、晴翔は小さく首を傾げる。
「特権? いいけど……」
その言葉を聞いた瞬間、綾香は晴翔に顔を寄せる。
てっきりキスをされると思った晴翔は、少し顔を上に向ける。だが、予想に反し綾香の唇は彼の口元に来る事はなく、そのまま頬の横を通り過ぎて行く。
予想が外れ「あれ?」と晴翔が思った瞬間、左耳に少し湿ったほんのりとした痛覚が伝わる。
「ッ!?」
今まで晴翔が経験した事がないその感覚に、思わず綾香を抱き締める腕に力が入る。
「っん」
途端、左耳に彼女の吐息が掛かり、晴翔の心臓は爆発寸前の状況になる。
密着する綾香に、自分の鼓動が伝わるのではないかというくらい、早鐘を打っている晴翔の心臓。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、彼女はもう一度、晴翔の左の耳たぶを甘噛みしてくる。
はむはむと何度も優しく噛みついてくる綾香。
晴翔は、左耳の感触に耐える様にグッと目を閉じる。
暫く晴翔の耳たぶを堪能していた綾香は、ようやく彼の左耳から顔を離し、ゆっくりと正面に戻ってくる。
「晴翔君の耳たぶ、齧っちゃった」
そう言いながら悪戯っぽい笑みを浮かべる綾香が、晴翔の目にはとても妖艶に映る。
「……前に齧らないでよって言ったのに」
彼女の纏う雰囲気に飲まれないよう、抵抗するように晴翔は抗議する。
「うん、言われた。でも、彼女なら彼氏の耳を齧るのは普通でしょ?」
コテンと顔を傾けて言う綾香の可愛らしさに、晴翔は堪え切れずに笑みを浮かべてしまう。
「恋人の練習をしてる時から思ってたけど、綾香の恋人の基準は全然普通じゃないと思うんだけど……」
彼女は恋愛漫画や恋愛小説を好んでよく読んでいる。そして、それらフィクションの要素が、綾香の恋人基準を形成している。
「耳齧られるの、イヤだった?」
「別に嫌というわけじゃないけど、その……変な気分になるというか、何というか……」
「イヤじゃなかったんだね? なら右の耳たぶも齧っていい?」
「綾香さん、俺の話、聞いてました?」
「うん、耳を齧られるのは嫌じゃないって」
ニッコリと笑みを浮かべながら言う綾香に、晴翔は観念して小さく両手を挙げる。
「わかったよ。もう自由にしていいよ」
「やた」
若干なげやり気味に言う晴翔に、綾香は嬉しそうな表情を見せる。
それと同時に、ギュッと彼の首元に抱き付く。
「そんなに耳たぶ齧り心地いいの?」
「うん、最高だよ」
問い掛ける晴翔に、綾香は彼の耳元でそっと囁く様に答えると、そのままカプッと右の耳たぶを甘噛みする。
相変わらず慣れない感触に、晴翔はジッと耐える。
嫌な感触という訳では決してないのだが、むず痒い様なこそばゆい様な、なんとも名状しがたい刺激に、晴翔は何とか理性を保つ。
左耳同様、右耳たぶも暫くの間はむはむと彼女に甘噛みされた後、満足した表情で綾香は晴翔の正面に戻ってきた。
「晴翔君の耳たぶ齧るの癖になりそう」
「それは癖にしないでください、お願いします。俺の心臓がもちません」
ニコニコと恐ろしい事を言う綾香に、晴翔は苦笑を浮かべながら頭を下げる。
「晴翔君も耳たぶを齧ってみれば、その魅力が分かると思うよ?」
綾香はそう言うと、おもむろに晴翔の首から右手を離し、その手で自身の髪を耳に掛ける。
女性の、髪を耳に掛けるというグッとくる動作を間近で見た晴翔は、視線を綾香の右耳に向ける。
「いいよ晴翔君。私の右耳の耳たぶを齧っても」
僅かに顔を左に向けて、まるで右耳を差し出す様に言う綾香。
そんな彼女に、晴翔はバレない様に小さく唾を飲み込むと、自分の理性をフル動員して言葉を発する。
「……いや、やめておくよ」
「そうなの?」
「うん、なんかこう……色々と止まらなくなりそうだから」
「……?」
晴翔の言葉に、綾香は純粋な表情で首を傾げる。
そんな彼女に、晴翔は只々苦笑を浮かべた。
お読み下さりありがとうございます。




