第百八話 理想の彼女でしょ?
晴翔は自宅に帰ると、東條家で暮らす為の荷物の最終チェックをする。
「着替え、充電器、勉強道具、あとは…………よし、これで大丈夫だな」
忘れ物が無いかボストンバッグの中を確認した晴翔は、リュックを背負い家の戸締りをして東條家に向かう。
ちなみに、祖母は昼過ぎくらいに東條家に行き、すでに家政婦としての仕事を開始している。
祖母の新しい働き口として受け入れてくれた東條家に、感謝の気持ちを抱きながら歩く晴翔。
そんな彼は、立派な豪邸の前で一旦立ち止まる。
彼はインターフォンを鳴らす前に、自身のスマホを取り出してメッセージなどが来ていないか確認した。
そして、なにも来ていない事に小さく息を吐く。
晴翔の脳裏には、雫に連れ去られる自分を見て、大きく目を見開く綾香の表情が思い描かれる。
てっきり、彼女からその事について何かしらメッセージなどで訊かれると思っていた晴翔だったが、予想に反して綾香からはなにも反応が無い。
「まぁ、これから直接会うわけだし、そこで話をするか」
一人呟くと、晴翔は東條家のインターフォンを鳴らした。
『は~い』
「大槻です」
『あら大槻君、いま玄関開けるわね』
郁恵の明るい声が聞こえてきた数秒後、玄関の扉が開き彼女本人が姿を現す。
「おかえりなさい、大槻君」
「あ、はい。お邪魔します」
ニコニコと晴翔を迎え入れる郁恵。彼は彼女の『おかえりなさい』という言葉に少し恥ずかしさを感じて、ペコッと頭を下げて家の中に入る。
「大槻君、そこは『お邪魔します』じゃなくって『ただいま』って言わなきゃダメよ?」
「あ、そう、ですね」
ニコニコとした表情のまま言う郁恵に、晴翔は恥じらいを含んだ苦笑を浮かべる。
「ただいまはね、場所に対してだけじゃなくて、待っている人の所に帰ってきた時にも言うものなのよ?」
「はい……ただいま」
「うふふ、おかえりなさい」
郁恵の優し気な微笑みに、晴翔はむず痒い様な恥ずかしさを覚える。しかし、それと同時に心が温かくなる様な感覚も得る事が出来た。
そんな気持ちを抱きながら晴翔がリビングに入ると、ちょうど綾香が涼太の遊び相手をしていた。
プラスティックの剣を持って涼太と対峙していた綾香が、彼を見て笑みを浮べる。
「あ、晴翔君。おかえりなさい」
「あ、うん。ただいま」
にこやかな笑みで綾香に『おかえりなさい』と言われ、晴翔は先程郁恵に言われた時とは、また少しだけ違った喜びを感じる。
「綾香、その……今日の学校の事だけど……」
晴翔は彼女に雫の事を説明しようとする。しかし、その話は満面の笑みを浮べた涼太によって遮られてしまった。
「おにいちゃんおかえりーーーッ!!!!」
涼太は手に持っていたプラスティックの剣を放り投げると、晴翔目掛けて突進する。
「おっと、ただいま涼太君」
晴翔は腰を屈めて涼太を受け止める。
「おにいちゃんは、きょうから僕たちと一緒に暮らすんでしょ?」
「そうだね。これからよろしくね」
「うん!! よろしくお願いしますッ!!」
キラキラと輝く瞳に満面の笑みを加えた、最高に嬉しそうな表情を向けてくる涼太に釣られて、晴翔の表情も緩む。
そこに、キッチンで夕食の準備をしていた祖母が、晴翔と涼太の二人の姿を見て、目元を綻ばせた。
「おかえり晴翔」
「ただいま、ばあちゃん」
家に帰ったらまず初めにする晴翔と祖母のいつもの会話。
それを、自分の家ではなく東條家で交わしている事に、晴翔は少し変な気分を味わう。
祖母は大きなボウルで鶏もも肉の下拵えをしている。どうやら今日の夕食は唐揚げのようだ。それを見て、晴翔はいつもの様に祖母に言う。
「ばあちゃん、俺も何か手伝おうか?」
「いや、今日は大丈夫だよ。それよりも荷物を片付けて、涼太君と遊んでおやり」
普段晴翔は、祖母と一緒に料理をして彼女の料理スキルを盗むようにしている。だが、今日は東條家で過ごす初日という事で、祖母は涼太と遊ぶ様に言う。
彼はそれに頷いた後、涼太の頭に優しく片手を置く。
「涼太君、荷物を片付けたら夕飯まで一緒に遊ぼうか」
「やったーーー!!」
喜びを爆発させる涼太に、晴翔は笑みを浮かべる。
そこに、綾香が声を掛けてくる。
「晴翔君、荷物運ぶの手伝うよ」
彼女はそう言いながら、晴翔が持ってきたボストンバッグに手を掛けた。
「あ、これは重いからこっちのリュックをお願いできる?」
「わかった。じゃあ涼太、晴翔君の荷物を片付けてくるから、ちょっとだけ待っててくれる?」
晴翔からリュックを受け取りながら、綾香は弟にお願いをする。
ちょうどそこに、リビングに戻ってきた郁恵が涼太に言う。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんが戻ってくるまで、お母さんと遊んでましょう」
「う~ん……うん!」
涼太はチラッと晴翔と綾香を見た後に、母親の言葉に頷いた。
すんなりと頷く弟の姿に、もう少し駄々を捏ねると思っていたのか、綾香はちょっと意外そうな表情を浮かべていた。
そんな姉に、涼太が得意げな表情を向ける。
「おねえちゃんはこれからおにいちゃんといっしょに生活をして、本当の家族になるための愛をはぐくまないといけないんだよ。僕はおにいちゃんに早く本当の家族になってほしいから、そのお手伝いをするんだ」
「あ、そ、そうなの……ありがとう……」
弟のお手伝い宣言に、綾香は恥ずかしそうに顔を赤くする。
「ちなみに、その……愛を育むっていうのは、誰が言ってたの?」
「お母さんとお父さんが二人で話してたよ! だからね、僕はおねえちゃんとおにいちゃんが二人になれるように協力する!」
そう言った後に涼太は「がんばっておねえちゃん!」と眩しい眼差しを向けてくる。そんな弟の反応に、引き攣った笑みを浮べた後、綾香はキッと母親に視線を向ける。
娘の鋭い眼差しを受け、郁恵は「あらあら」とニッコリと笑う。
「聞かれちゃってたのねぇ」
「聞かれちゃってたのねぇ、じゃないから! もう……晴翔君、いこ」
綾香は疲れた表情を浮かべると、軽く晴翔の腕を引っ張りリビングから出る。
晴翔は苦笑を浮かべながら、彼女に腕を引かれて二階に上がり涼太の部屋に入った。
晴翔が東條家で寝泊まりする間、彼は涼太の部屋を使う予定となっている。
綾香と隣り合わせの部屋で荷ほどきを始める晴翔に、綾香が赤い顔のまま困り顔を浮かべて言う。
「ごめんね晴翔君、いつもパパとママが変な事言って」
「いや、全然気にしてないよ。というか、綾香と一緒に生活できるのは俺としても凄く嬉しいし、愛を育むって言う表現はちょっとあれだけど……まぁ、お互いをもっと知るいい機会だとは思っているよ」
「う、うん。そうだね……私も晴翔君の事、もっと知りたい」
晴翔の言葉に、綾香は喜びを頬に浮かべる。
嬉しそうな反応をしている彼女を見て、晴翔も笑みを浮かべる。
「そうだ、今日の学校での事なんだけど」
「あ、うん。えっと、堂島さん……だっけ?」
二人になれたところで、晴翔は綾香に雫の事を説明する。
「うん。雫は俺が通ってる道場の師範の娘でさ。小さい時から一緒に空手をやってきた、まぁ……幼馴染的な感じなんだよね」
「そうだったんだ。晴翔君と堂島さん凄く親し気だったけど、幼馴染だったら仲が良いのも当然だよね」
雫の事を聞いた綾香は、そう言いながらウンウンと頷く。
晴翔は、そんな彼女の目を見て真剣な表情で口を開く。
「確かに雫とは仲がいいし、大事な友達だけど。俺が好きなのは綾香だから。綾香だけだから」
「うん……ありがと、嬉しい」
晴翔の言葉を聞いて、綾香は口元を緩める。そして、ニヤついてしまった表情を彼から隠す様に俯く。
「実はさ、雫には綾香と付き合ってるって事は伝えてるんだけど、学校での綾香との事を話したら、協力するって……それで今日教室まで来てくれたんだけど……」
晴翔はどう言おうか少し悩む様に言葉を区切った後、おもむろに口を開く。
「雫は凄く良いやつで、本人も純粋に協力してくれてるだけだと思うんだけど、その……ごめん」
謝罪の言葉と共に、晴翔は頭を下げる。
彼の謝罪に、顔を赤らめていた綾香は慌てた様に両手を振る。
「な、なんで晴翔君が謝るの? 謝る事なんて全然ないよ?」
「いや、もしかしたら綾香を不安にさせたかもしれないと思って」
教室からの去り際に見た、彼女の驚いた表情を想い出しながら晴翔は言う。
しかし、綾香は首を横に振りながら答える。
「ううん、全然だよ。確かに、急に晴翔君と仲の良さそうな子が現れてビックリはしたけど、でも……」
綾香はチラッと晴翔と目を合わせると、モジモジと恥ずかしそうにしながら言葉を続ける。
「私は、その……晴翔君からちゃんと想われてるって感じてるから、不安になったりはしてないよ?」
「そ、そか……」
「うん……」
2人の間に、気恥ずかしさを含んだ沈黙が流れる。
そんな甘い静寂を誤魔化すように、綾香が大袈裟な仕草で「えっへん」と胸を張った。
「どう晴翔君? 彼氏の女友達に寛容な私、いい彼女じゃない?」
赤く染まった頬を紛らわせるように、可愛らしいドヤ顔を見せる彼女。
晴翔は、自身の胸の中に愛おしさが込み上げてくるのを感じ、そのまま綾香を優しく抱きしめた。
「そうだね。綾香は俺にとって、これ以上ないほど最高で完璧な彼女だよ」
抱きしめた綾香の耳元で晴翔はそっと呟くと、彼女はくすぐったそうに腕の中で身じろぎをした。