第百一話 お泊りの朝に
更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
晴翔はいつも早い時間に起きて、早朝勉強をしている。
その習慣は既に体に染みついてしまっている為、東條家に泊まった翌日の朝も、彼はいつもの様に空が白み始める時間帯に目が覚める。
晴翔はゆっくりと上体を起こし、ふと隣に視線を向けると、そこには手足を目一杯に広げて大の字に寝ている涼太の姿があった。
「さすが涼太君。大胆な寝相だ」
晴翔は呟きと共に笑みを浮べると、涼太の足元でクシャクシャに丸まっていたタオルケットを広げて、彼のお腹に掛けてあげる。
そして、気持ちよさそうな涼太の寝顔を崩さない様に、ゆっくりと布団から出ると、部屋の隅に置いてあった自分の荷物から、ハンドタオルと歯磨きセットを持って一階の洗面所へと向かう。
まだ眠気が残る中、晴翔はボーっと洗面台の鏡に映る自分の姿を見ながら歯を磨く。
東條家の洗面台は、豪邸に相応しく白を基調とした広々とした造りとなっていて、晴翔は若干優雅な気持ちになりながら、顔を洗い持ってきたハンドタオルで顔を拭く。
冷たい水で顔を洗い、完璧に眠気が吹き飛んだ晴翔は「ふぅ」と小さく息を吐き出し、鏡を使って身嗜みを整える。
と、その途中で彼は、鏡の端に白い水垢が出来ている事に気が付いた。
「むむ、これは……」
発見した水垢に顔を近づける晴翔。
すると、その他にもいくつかの水垢が見つかる。
「ふむ、水垢よ。俺に見つかったが百年目、完膚なきまでに洗い落としてやる」
若干早朝の謎テンションに入ってしまった晴翔は、発見した水垢に対して決め台詞を吐くと、洗面台の下に収納していた掃除用具を取り出す。
夏休みの間、東條家の家事代行を行っていた晴翔は、この家の事を既に熟知している。
いま彼が手に持っているスプレーボトルも、家事代行の時に使っていた祖母直伝のお酢で作った自家製水垢用洗剤である。
彼はその自家製洗剤を水垢に吹きかけ、少し時間を置いてから布巾で拭き取っていく。
まだ小さな水垢だった為、そこまで長い時間洗剤に浸けていなくても、水垢は簡単に取れていく。
「ふふふ、ばあちゃん特製洗剤の威力を思い知ったか」
静かな早朝に、ニヤリと不敵な笑みを浮べた晴翔の呟きが小さく漏れる。
その後も、掃除スイッチが入ってしまった晴翔は、鏡に続いて洗面台周りを掃除していく。
やがて、隅々までピカピカにした晴翔が、満足気に洗面台を眺めていると、不意に背後から名前を呼ばれた。
「晴翔君?」
その声に晴翔が後ろを振り返ると、そこにはパジャマ姿の綾香が立っていた。
「あ、おはよう綾香」
「おはよう……掃除してたの?」
「うん。なんか歯を磨いてたら鏡の水垢が気になっちゃって」
少し恥ずかし気に答える晴翔。
綾香はそんな彼に視線を向けた後、いたるところが綺麗になっている洗面台へ目を向ける。
「鏡以外も綺麗になってる……」
「あぁ……なんか俺の掃除スイッチがONになっちゃって」
「ふふ、何そのスイッチ」
綾香は晴翔の言葉を聞いて、面白そうに口元に手を当てて笑みを溢した。
そんな彼女の姿に、晴翔は思わず見惚れてしまう。
普段は見る事の無い綾香のパジャマ姿は、何故か無防備な感じがする。更に、いつもは綺麗にまとまっている髪も、寝起きの今だけはほんの僅かに乱れていて、頭頂部辺りにぴょこんと、アホ毛の様な寝癖が立っている。
そして、パッチリと大きく綺麗な二重の瞳も、今は眠気で気だるげな瞼が重たそうに少し降りてきていて、全体的にぽわっとした雰囲気を纏っている。
寝起きのボーっとした感じの綾香が、無性に愛おしく感じる晴翔は無意識のうちに言葉が漏れ出てしまった。
「綾香の寝起き姿、メチャクチャ可愛いんですけど」
「へ? ……へッ!?」
一瞬キョトンとした表情を見せた綾香。しかし、そのすぐ後に真っ赤に顔を染めると、慌てて両手で顔を隠す。
「だ、ダメッ! 見ちゃダメッ!!」
「え? 駄目なの?」
「ダメだよ! だって髪はボサボサだし、顔だってまだ洗ってないし!」
「その少し髪が乱れてるところが、俺には凄く魅力的なんだけど?」
晴翔がそう言うと、彼女は両手の隙間からチラッと彼の方を見て「うぅ……」と唸り声を上げる。
「晴翔君のイジワル……」
「別に意地悪してるつもりは無いんだけどな」
耳まで赤くしている綾香に晴翔は苦笑を浮かべる。
「本当に可愛いって思ったんだけどな。思わず抱き締めそうになったよ」
「…………本当に?」
相変わらず手で顔を隠したまま、隙間から覗いてくる彼女の姿が可愛らしく、晴翔は笑みを浮べて頷く。
「うん、本当に」
「うぅ、じゃあ……いいよ。抱き締めても」
「いいの?」
「でも、顔は見ちゃダメだからね」
「う~ん。それは残念」
晴翔はそう言いながらも、そっと彼女の近くによると優しく包み込むように、自身の両腕の中に綾香を閉じ込める。
両手で顔を隠していた彼女は、さっと晴翔の胸に顔を押し当てて見られない様にした後、空いた両腕を彼の背中に回した。
「ねぇ、ちょっとだけ顔見せてよ」
「うぅ~ダメ」
綾香は晴翔の胸に顔を埋めたまま、フリフリと首を横に振る。
可愛らしい抵抗を見せる彼女に、晴翔は残念そうな声音で言う。
「そっか……俺も綾香の嫌がる事はしたく無いから、無理にとは言わないけど」
そこで晴翔は、少し綾香を抱き締める腕に力を籠める。
「彼氏として可愛い彼女を見たいっていうのは、正常な願望だと思うんだよね」
晴翔の言葉に、綾香の背中がピクッと小さく震えた。
「……今の私、可愛くないもん」
「綾香が可愛くないときなんて、今まで一度も無かったよ」
「じゃ、じゃあ晴翔君はいつでも私を見たいって事になるよ?」
「否定はしない」
「も、もう! バカバカ!」
綾香は晴翔に回した腕で、背中をポカポカと叩いてくる。
攻撃力ゼロの攻撃を、晴翔が甘んじて受け入れていると、やがて彼女の腕が止まる。
「す、少しだけだからね? 一瞬だからね?」
念を押す様に綾香は言うと、晴翔の胸に押し当てていた顔を放し、ゆっくりと晴翔を見上げる。
至近距離で彼女を見下ろした晴翔は、柔らかな笑みを浮べる。
「可愛いよ」
短くそう言うと、彼はそっと顔を近づけて彼女の唇を奪う。
途端、綾香はサッと再び晴翔の胸に顔を押し当ててしまう。
「も、もうお終いですッ!」
「あら残念」
それほど残念そうには感じられない様に晴翔は言う。
「…………やっぱり晴翔君はイジワルだ……」
彼の胸に顔を押し当ててそう言う綾香の口元は、これでもかという程にニヤけてしまっていた。
ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー…ー
晴翔はきんぴらごぼうに使用するごぼうを水に浸けた後、人参の皮を剥いて細っ切りにしていく。
その隣では、綾香がタッパーに入っているだし汁を鍋の中に移していく。
このタッパーに保存しているだし汁も、晴翔が家事代行をしていた時の作り置きの一つである。
「晴翔君、お味噌汁の具は何にする?」
「う~ん、玉ねぎと油揚げはどう?」
晴翔はお浸しにするナスの下準備をしながら答える。
「いいね。玉ねぎと油揚げ……えーっと、油揚げは……」
玉ねぎをキッチン下の収納から取り出した綾香は、続いて冷蔵庫の中を覗き込んで油揚げを探す。
「あ、油揚げは冷凍庫に入れてあるよ」
「これ?」
「そうそうそれ」
既に小さく切って冷凍保存されている油揚げを取り出す綾香。
家事代行のお陰で、晴翔は東條家の冷蔵庫事情も熟知している。
「これって解凍した方が良い?」
「いや、そのまま鍋に入れても大丈夫」
「おっけ」
お味噌汁は綾香に任せて、晴翔はきんぴらごぼうを炒めつつ、先程下準備したナスを電子レンジに入れて加熱する。
炒めるフライパンから、ごぼうの風味と胡麻油の香ばしい香りが広がり、玉ねぎを切っている綾香が笑顔を見せる。
「いい香り」
「朝の和食って、なんかいいよね」
そんな会話を交わしているところに、東條夫妻がやって来た。
「あら! 大槻君ったら朝ご飯を作ってくれてるの?」
晴翔と綾香が並んでキッチンに立っているのを見て、郁恵が驚いた様に言う。
「泊めて頂いたお礼にと思いまして。それと、野菜室に残っていたナスを使わせてもらいました」
「もう大槻君ったら。そんなに気を遣わなくても良いのよ?」
そう言いながらも、郁恵は何とも嬉しそうな笑みを浮べる。
その隣の修一も、晴翔が炒めているきんぴらごぼうを眺めて相好を崩す。
「おはよう晴翔君。朝食を作ってくれてありがとう!」
「おはようございます修一さん。もうすぐ出来上がるので座って待っていてください」
晴翔はにこやかにそう言うと、電子レンジから加熱していたナスを取り出し、それを先程綾香が使った作り置き出汁の中に投入する。
そこに続いて涼太が、何とも眠たげに目を擦りながらリビングへとやって来た。
「あ、お兄ちゃんいた……」
キッチンにいる晴翔を見て、ポツリと涼太が溢す。
「おにいちゃんいつから起きてたの? 僕もおにいちゃんと一緒に起きたかった」
「ごめんね。今度自分が起きる時は、涼太君も一緒に起こしてあげるよ」
起きた時に晴翔が隣にいなかったことに対して、ほんの僅かに不満そうな顔をする涼太。
そんな彼に、晴翔は優しく言う。
「涼太、もうすぐ朝ご飯出来るから顔洗って歯を磨いてきなさい」
綾香が出来上がったお味噌汁をお椀によそいながら弟に言う。
「そういえば綾香。今日は大槻君と花火を観に行くのよね?」
「うん、そうだよ」
郁恵がダイニングテーブルに腰を下ろしながら娘に問い掛ける。
「浴衣どうする? 私のを着ていく?」
「え? 良いの?」
「良いわよ。いろんな浴衣を着て、大槻君の心をしっかりと掴まないといけないでしょ?」
「そ、それは……そうだけどさ。本人を前にそんなにハッキリと言わないでよ。恥ずかしいじゃん」
綾香はそう言いながら、赤く染めた頬でチラッと晴翔を見る。
先日の雨で花火大会が延期になった日。
晴翔が開いてくれたお家縁日で、綾香は既に浴衣姿を彼に披露している。今日行く花火大会も、彼女はその時と同じ浴衣を着ていく予定だった。
しかし、それではせっかくの浴衣姿の新鮮味が損なわれてしまうと、郁恵は自分の浴衣を貸すと言う。
何とも微笑ましい反応を見せる娘に、郁恵がニコニコと笑みを浮べていると、彼女は当然何かを思い付いた様にポンと手を叩いた。
「そうだわ! 大槻君は甚平を持っているかしら?」
「え? いえ、甚平はちょっと持っていないです」
「そうなの。なら修一さんの甚平を借りたらどうかしら?」
そう言って郁恵は夫の方に笑みを向けた。
「おぉ! それは良いじゃないか! 晴翔君なら私とほとんどサイズも変わらないだろうから、問題なく着れるんじゃないかな?」
妻の視線を受けて、何やら察した修一は大きく頷きながら楽しそうに晴翔に自分の甚平を差し出す。
「え? いいんですか?」
「もちろんだとも! ただ一つだけ条件を付けてもいいかい?」
「はい、何でしょうか?」
修一の言葉に小さく首を傾げる晴翔。
彼は楽し気な表情のまま、甚平を貸す条件を晴翔に告げる。
「条件は、花火大会が終わったら、綾香を家まで送り届けて欲しいんだ」
「え? それが条件ですか?」
晴翔はてっきり、たこ焼きや焼きそばなどの屋台飯をお土産で買ってきて欲しいと頼まれると思っていた。
だが、予想に反して修一が提示した条件は晴翔にとって当然の事であった。
「うむ。約束してくれるかな?」
「それは、もちろんです。しっかりと責任をもって綾香さんを家まで送り届けます」
大切な彼女をちゃんと家まで送り届けるのは、彼氏として当然の義務であると、晴翔はそう考えている。
ましてや、その彼女は普通にしていても美少女なのに、浴衣で着飾っていては、どんな輩が現れるか分からない。
修一の条件があっても無くても、どのみち晴翔は綾香を家までしっかりと送り届けるつもりでいた。
「そうかそうか。うむ、楽しみにしているよ!」
「え? は、はい」
何故かテンションが上がっている修一。
その隣の郁恵も、とっても愉快そうにニコニコとした表情をしている。
「じゃあ、朝食を食べ終わったら甚平を貸すよ」
「ありがとうございます」
東條夫妻の反応が良く分からないが、取り敢えず晴翔はお礼を述べて、完成した朝食をダイニングテーブルに並べた。
お読み下さり有難うございます。