残された居場所と莫大な借金と夕日の見える海と
〖片浜優〗
―目の前に置かれた借用書の額に、片浜優は困惑していた。世間的に考えて、そりゃもう自分が19歳で、何故だかしらないけれど先日変わった法律で、成人とみなされてしまった以上、祖母の借用書に関しては父も母もいない次いで孫の自分に降りかかってくる災難であることは理解できてはいる。別に投げ出そうとは考えていないし、投げ出し方も解決策もわからないから困惑している。
「先代も亡くなって、女将さんもとうとう。君には気の毒だけど、ご両親もいらっしゃらないことで。私達も色々考えてはいるんだけど、お金のことばかりはねぇ」
黒縁眼鏡を整えながら、専務の吉原武はため息をついた。
「0から作ったこの旅館だから、いや、でもまさか先代もあんな早く亡くなられるとは。自分の一番好きな場所に建てたこの旅館で、長く働いていきたかったろうに」
此処〖松の屋〗旅館は、優の祖父母が建てた、目の前に小さな浜辺のあるそれに見合った小さな旅館である。小さいといっても部屋数が少なく外から見た建物自体が小さめであって、敷地面積はかなり広い。玄関のある本館を抜ければ、山に面した立派な中庭があり、自慢の露天風呂が3つに大浴場が二つ、松林に囲まれた離れが2部屋、色とりどりの鯉が泳ぐ池をアーチ状の橋が架かっており、そこを渡れば大広間だ。
「幸い銀行さんも、事情を組んでくれて少し考える時間をくれるそうだから、今日は離れにでも泊まってゆっくり考えてください」
吉原はそう言い残して事務所を出て行った。残された優はもう一度だけ借用書を確認したが、そこには変わらず1700万円の残額が記載されていた。
「いや、ゆっくり考えたってどうしようもねーだろ、これ」
高校を卒業して1年経たず、まさかこんな莫大な借金を背負うことになるとは思ってもみなかった優は、とりあえず吉原が淹れてくれたお茶を口にして落ち着こうとするが、それでも借用書の額は変わっていなかった。
「仮に返していくとして、間違いなく大学に通いながらのバイトで間に合う額じゃない。そもそもこの旅館はどうすんだ?」
一人悩みながらスマホで借金について調べてみる。が、妥当な回答などそう簡単にネットに転がっているわけでもなく、優は再び湯呑に手を伸ばしたところで、既に飲み干していたことに気づいた。されど喉潤わず。
祖父母には感謝している。幼くして両親を亡くした自分を、0から始めた旅館を切り盛りしながらここまで育ててくれた。こんな額の借金があることは知らなかったが、祖父が亡くなった時は人並みに涙も流した。祖母の死に目には会えなかったが、最後家を後にした春の庭の桜と、散る花びらを愛おし気に眺める祖母の優しい顔を今でもよく覚えている。
しかし現実、今の自分にこんな額を返していく当てもなく。
「あのう、少しいいですか?」
そうこう考えていて気付かなかったが、いつのまにか目の前に髪を二つ縛りにした女性が座って、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「あ、俺ですか?」
「うん、そうだけど。あれ、お孫さんの優君だよね?何度か会ってる気がするんだけど」
松の屋の従業員のようで、確かにまだ此処に住んでいた頃、顔を出したときに何度か見かけた気がするが、優は名前までは知らない人だった。見たところ自分とあまり年の変わらないぐらいか、などと考えながら優は空の湯呑を口に運ぶフリをした。
「あの、ね。ものすごーく言いづらいんだけど、女将さんの事も急だったし、借金の事情もわかったうえで、ね?」
「え、まだ何かあるんですか?」
彼女は優と目を合わさず、窓の外の沈みかけた夕日を遠い目で見ている。
「ここ、ほら、旅館なわけで、さ」
「見りゃわかりますよ、自分の家だし」
「ほら、働き方とか特殊なのよ。例えばね、朝お客様に朝食をお出しするでしょ?それ片づけて、お客様をお見送りしたら、今度はお部屋の掃除。そこから夕方のチェックインまでは中抜けの休憩。あ、厨房はこの間に夜の仕込みとか、番頭さんはなんだかんだで色々管理とか、あと仲居さんもね、」
「いや、大変な仕事だなぁって眺めてたし、大体のことはわかっちゃいるけど、」
彼女は料理人だろうか。割烹着のようなものを着ていて、名札には函南の文字がある。
「だから知ってると思うけどね、裏の従業員用の寮に住んでる人もいるのよ。通ったりするの大変だから」
いい加減に察してくれと言わんばかりの勢いで女性は言うが、優はそんなことも理解したうえでさっきから悩んでいたのでため息だけついておいた。
「な!?ため息つくことないでしょ!私達からしたら住むところと仕事が無くなるかもしれないのよ!?」
机にバン!と手をつき函南瑞希は叫んだ。
「だからそれも込みで悩んでんだけど、」
調べて出てくる解決策として、一番有効打なのは売却だった。それでも全額には届かないし、何より片田舎の有名でもない旅館を買い取ってくれる物好きなどそう簡単には見つからない。そうなればいよいよ松の屋は差し押さえられ、同じ土地にある寮に住んでいる従業員は仕事も済むところも無くしてしまう。優はそんな責任も感じて、今回のことについて深いところまで悩んでいる。
「あれ?もしかしてそこまで考えてくれてたの?」
「でももうまとまる気もしないんで今日は休みます」
このやり取りでどっと疲れた優は、借用書を持って立ち上がった。
「なーんだ、とりあえず考えてはくれるのね!じゃあよろしくね!ほら、後継いじゃってくれればいいのよ!あ、湯呑洗っとくから貸して!ねぇ莉乃ちゃーん?あれ、どこー?」
湯呑を片手に瑞希は厨房のほうへ駆けていった。その背中を見ながら優は、もう一度深くため息をついた。喉は乾いたままである。
――――
〖大瀬成海〗
―女将である片浜幸の葬儀もひと段落し、大瀬成美は手早く仕事着に着替えバケツに水を汲んだ。旅館の経営者がいなくなったからといって、既に来館されているお客様とご予約のお客様だけでも最後まで持て成そう、と従業員会議で決定した。だが成海たちにとってはそのあとが問題だ。仕事も住むところも、1週間程度で見つかる当てもない。雑巾を絞りながら、成海は沈みかける夕日を一目見た。
「しかし来月からどうするのかねぇ、一応お孫さんが帰ってきて色々考えてくれてるみたいだけど」
掃除機を抱えてため息をつきながら、仲居頭の戸田美穂は項垂れる。
「でも皆此処が好きなんですね。そうじゃないと、あんな意見一致しないですよ」
最初はこんな風に窓磨きから仕事を始めたことを思い出し、成海は少し笑みを浮かべる。仕事と一括りにして嫌がる人は多いが、彼女はこの仲居の仕事が好きだった。
「お客様の笑顔を生むおもてなしをすること、先代や女将さんが決めた松の屋のルール。皆そういうお二人だからこそ、ここまでやってきたのよねー。じゃあこれからは?」
一切掃除機の電源を入れず、美穂は成海に話しかける。早く掃除済まさないとお客様が来てしまう、などと思いつつも成海はちゃんと返事をする。仕事中のこんな美穂とも、もう2年の付き合いだ。
「お孫さんが後を継いだりしないんですかね?」
「成海ちゃんそれ本気で言ってるー?ないない、絶対ない。あの子まだ高校出たばっかりでしょ?逃げちゃうわよ、あんな借金見たら」
「やっぱりそうなっちゃうんですかね!?」
成海が手を止めて美穂に言い寄る。
「そうなったら私たちは晴れてホームレスよ!成海ちゃん、若いアンタ達の出番よ。い、ろ、じ、か、け」
「いやいや、そこは美穂さんが大人の色気で!」
「でも1700万の色仕掛けってどんな感じッスか?」
二人がくだらない事をやっていると、アルバイトの江浦彰人が欠伸をしながら歩いてきた。彼は主に料理の跡片付けや風呂掃除、管内の清掃など、アルバイトだが基本的には仲居がやらないことは何でもやる。先代からは、何をやっていいかわからないなら、とりあえず何でもやれと言われ、長い年月を経て何でもできるようになってしまった何故か〖アルバイト〗の男性従業員だ。
「だって1700万ッスよ?そりゃもう、19歳の純情少年なんか果てちゃうぐらいの事ッスよね!?」
彰人が目を輝かせて二人に話しかけてくるので、二人は冷たい目で返してあげた。
「まぁ、アンタも困るよね、此処無くなっちゃたら」
「美穂さんも早いとこ旦那見つけないからこういうことになるんスよ?もう三十路ッスよね?」
彰人がやれやれというジェスチャーをしたところで、美穂はやっと掃除機のスイッチを入れ、吸い込み口を彰人に向けた。
「そういうことを言うのはこの口かぁ!!!アンタももう25でしょ、四捨五入したら三十路よ!」
「い、やあああ、そんなもんで口は、汚いッス、色んな意味でェェェ、ゴボッ!」
二人のやり取りを止めることなく、成海は再び窓の外の夕日に目をやりながら、喚起のために窓を開けた。近所の子供たちのほかに、麦わら帽子を被った白いワンピースの女性も見えた。成海はこの職場から見える景色を愛しく思い、現状に寂しさを感じた。
「こんな風にバカやりながら働けるのも、もう終わっちゃうのかな、」
悲し気に夕日を見つめる成海が、泣き出しそうになったので、美穂は掃除機を彰人に投げつけて、あとはやっといて!とジェスチャーをする。彰人は掃除機を重そうにキャッチし、二人の邪魔をしない様気を使い、離れの方に向かっていった。
「何とかなるわよ。だってあの二人のお孫さんなんでしょ?大丈夫よ」
成海と同じ夕日に目を向け、美穂は優しく呟くように言った。
確かに夕日はとても綺麗で、赤く染まりかけた眩しさにその先に見えるはずの富士山は見えなかった。
秋風に黒のストレートの髪が靡くまで、成海は髪を結んでいない事に気づかなかったので慌てて結んだ。
――――
〖大岡莉乃〗
―休日に学校以外で制服で過ごすのも、なんだか珍しくてこんなにも寂しい気持ちになるものなのかと、大岡莉乃はギターケースを背負いながら裏口の玄関で靴を履く。今日はこのまま休みなので、少し目の前の海岸で練習でもして気を紛らわそうとしていた。
まだ17歳の自分を、住み込みで働くことを許して置いてくれた女将がいなくなってしまった事に、気持ちの整理が追いつくほど大人ではないと、莉乃は自分で自分を理解している。口数の少ない自分を、ちゃんと笑えることもあるから、などという理由で雇ってくれた女将はもう、遺影の中でしか笑っていないと思うと、葬儀はとても最後までいられなかった。
「あ、莉乃ちゃんこんなとこにいたー!あれ?練習?もうすぐ日が暮れちゃうよ?」
今後の事がどうなるのか、直接女将の孫に聞いてくると勢いよく駆けていった函南瑞希が戻って来た。自分とは正反対で、いつも元気いっぱいな瑞希が、自分を妹のように可愛がってくれることに、莉乃は照れ臭く過ごしていた。それでも今日は、瑞希の笑顔を見てもあまり元気が出ない。
「少しだけ引いてきます。夕飯の支度、少しだけしておきました」
今できる精一杯の平静を装い、莉乃はちゃんと瑞希の目を見て話した。
「そっか。あ!でね、ちゃんと聞いてきたの!これからの事!そしたらね、一応は考えてくれてるみたい。だから何とかなるかもしれないよ?」
いやそれは多分、何も思いつかず悩んでいるのでは?と思いつつも口には出さず、
「そうですか、良かったです」
と莉乃は返した。
「私たちもだけど、莉乃ちゃんは特別よね。何とかなるといいけど、ほら」
「行ってきますね」
瑞希の言葉を遮って、莉乃は戸を開けて外に出た。オレンジ色の日差しと、冷たくなりかけている秋の風が、莉乃の頬を撫でた。
「私には、此処しかないのに」
――――
〖片浜優&三島青葉&大岡莉乃〗
―浜辺では近所の子供たちが駆け回り、寄せて返す波間で笑い声をあげている。
優はそこまで大きくはない流木に腰掛け、借用書を夕日に透かしみてはため息をついた。祖父母への感謝と、従業員の人生、莫大な借金。19歳の優には重すぎる困難である。
「何年になるんだ?俺がまだ小学生になる前だろ、10年以上かけても半分も返せてねーのかよ。やっぱ儲かってねぇんじゃねーか」
振り返った先にある松の屋を見ながら、優は呟いた。
祖父が亡くなったころだったか、祖母と言い合いになったのを今でも覚えている。
「大丈夫なのかよ、じぃさんいなくなっちまって」
まだ中学の学ランに身を包む優は、申し訳なさそうに洗濯機に体操着を入れた後で、湯呑でお茶をすする祖母に問いかけた。
「何がだい?」
落ち着いた口調で祖母は言った。
「一人でやっていけんのかよ。此処建てた時の借金だってまだあるんだろ?」
祖母の目の前の座布団に胡坐をかき、優は頬杖をついた。
「生意気なこと言ってんじゃないよ。覚えときな優。人生なんてね、死ぬまでの暇つぶしみたいなもんなんだよ。借金があろうと、旦那が先にいなくなろうと、私はこの暇つぶしを楽しむつもりさ」
真っ直ぐこちらを見ながら言い放つ祖母の威圧に負け、優は目を逸らして口を尖らせた。
「いつも聞いてるよ、んな事は」
「それにね、一人じゃないんだよ。だから私は、」
そこで記憶が途切れているのか、祖母が口を噤んだのか、優はもやもやした気持ちになった。結局目の前にあるのは現実で、何をどうするか決めなければならない大人になった自分と、どう向き合っていいかもわからないからとりあえず夕日を眺めた。
「そういやばぁさんも、こうして夕日見てたっけか。何をそんな、余生楽しむみたいに生きて、孫にこんなもん残してくかね」
1700万の文字は、変わらず優を取り囲むように刻まれていた。
「その流木、ちょうどいい高さですよね」
うつむいていた優は突然話しかけられ顔を上げる。そこには制服を着たショートカットの少女が、ギターケースを背負って立っていた。
「あ、何、ここ座って弾くとか?それ」
優は立ち上がって、流木を譲るような素振りをした。
「いえ、今日はやっぱりいいです」
少女は黙って親切を受け入れ、流木に座ってギターケースを自分の右側に立てかけながら言った。
でも座るんだ、と思いつつ少女の横顔を見て、祖母の葬儀の途中で抜け出した子である事を優は思い出した。
「まだ高校生なのに、ばぁさんの旅館で働いてるのか?」
問いかけると少女はそっと優を見た。
「学校行きながらだと大変だろ、この辺バスも少ないし」
駅まで約40分、片道では700円以上かかるが海沿いの景色は楽しめる。
「別に。でももし心配してくれるなら、女将さんの後継いでくれてもいいんですよ」
少女は優から目を逸らして、砂浜を指でいじりながら言った。優は髪をかき上げてしゃがみ込む。
「簡単に言うよなぁ、1700万だぞ?俺まだ19歳だし」
「簡単じゃないですよ」
「え?」
少女の声に少し力が入ったので、優は言葉を止めてみた。
「19でその借金もすごいですけど、私なんか女子高校生のホームレスになっちゃいますよ」
「いや、なんでそうなるんだ?帰りゃいいだろ、親んとこに」
言いかけて優は、もしかしたらこの子も自分と境遇が似ていたらと考えて反省した。
二人が何も話さなくなるうちに、夕日はほとんど沈んでしまい、一番星が遠くで煌めいていた。
「でもまぁ、何とかするよ」
「え?」
間をおいて優がはっきり言ったので、少女は顔を上げた。
「ほら、なんか知らんが19はもう大人なんだろ?責任てのがのしかかってきても、自分で何とかしねーと」
あくまでも自分は大人と言い張る優に、少女はクスリと笑う。
「口だけだと、無責任っていうんですよ?」
「、、、わかってるよ」
すっかり日が暮れて街灯の明かりだけの浜辺で、こんな所で格好をつけても何も変わりはしないと、優の悩みは膨らんだ。それでもやるしかない、それがきっとこの国の人が好きな責任という言葉の意味だろうと、空に向かって嫌味を投げかけた。
「あの人お客さんですかね?日が暮れてバスもないのに」
考え込む優に、少女は海に目を向けながら言った。
優も目を向けると、麦わら帽子を被って白いワンピースに身を包んだ女性が一人、くるぶしまで波間に入り立っていた。
「さぁ?この辺の人なんじゃねーの?てか寒くねーのかね」
「見かけない人ですね。もしお客さんなら、そろそろ夕食の時間ですけど。聞いてきてくださいよ」
少女は自分は行きませんよと言わんばかりに、両手を流木につきながら腰かけたまま動かない。
「なんで俺が、、、」
「ほら、もしお客さんだったら困っちゃいます。後継ぎさん最初のお仕事です」
もう考えるのに疲れた優は、とりあえず声をかけてみることにした。
「、、、観光ですか?」
変に思われないように、女性の視界にちゃんと入る位置についてから優は尋ねた。薄暗い浜辺で、波の音にかき消されたかもしれない優の声に、女性はちゃんと反応して優の方を見た。
「そう見えますか?」
そう尋ねてくる女性は、小さなショルダバッグを持っているだけで、旅行者らしき所持品は見受けられない。
「いえ、ご近所さんでもなさそうですし、もうバスも走ってないから、その、」
「あ、ナンパでしたか?」
女性は悪戯っぽく笑ってみせた。
「いや、それはないですね。失礼な意味ではなく、余裕が無い方の意味で」
「あ、そうですか」
あまりにも優が全否定するので、女性はポカンと口を開けた。優はというと、状況を理解できずあたまをかいている。
「寒くないんですか?もうすぐ11月ですよ」
そう尋ねられて、女性は自分の服装を見て首を傾げた。10月末の浜辺、靴ではなくおしゃれなサンダルを履いている。
「最後だと思って、何も考えずに来ちゃったからなぁ。失敗だね」
「やっぱ観光ですか?」
「観光だとしたら今日は野宿だね」
被っていた麦わら帽子を月にかざして、女性は言った。
「いや、風邪ひきますよ」
言いながら優は振り返り、流木に腰掛けてこちらを眺める少女に聞こえるように声のボリュームを少し上げた。
「おーい、今日1部屋くらい空いてねーのか?」
突然自分に話題を振られ、驚いた少女は声を裏返らせながら返答する。
「週末ですけど空いてたと思いますよ。夕飯だけ間に合うかわかりませんけど」
それを聞いて優は振り返る。
「うち、そこで旅館やってるんです。良かったら泊まっていってください。夕食間に合うかわからないんで、少し安くするように言いますから」
これで少しくらい、雀の涙くらい返済に充てれれば。大人の優にできた精一杯の営業だった。
「へぇ、そうなんだ。仕方ないね、声かけられちゃったし。しぶといなー、私も」
「はい?」
「何でもないよ。あ、別に安くしなくていいから、とりあえず1泊」
女性は人差し指を立てて優を一目だけ見て、旅館の方へ歩いて行った。
女性が旅館に入っていったのを見たところで、少女はギターケースを持って立ち上がった。
「ちなみにうちは、1泊2食付き2万円です。初仕事成功ですね」
「やめてくれ、気が滅入る」
とは言ったものの、きっと何とかするとはこういう事なのだろうと、優は勝手に思い込んでいた。
二人も去った後の浜辺には、静かに漂う波と、夕日に代わって役目を得た月が水面を照らしていた。