【短編】ほんの少しのハッピーエンド
※この問題にはいろいろな立場がある事は分かってますし、彼の選択だけが正しいと言っているわけではありません。
部屋でTシャツを着て、 暑さを防ぐために帽子を被り、 私は玄関へと向かった。
玄関に常備しているマスクを着けて運動靴を履くと、 妻の晴恵が声を掛けてきた。
「あなた、 また散歩?」
「ああ」
「子供みたいに散歩ばかりしてないで、 そろそろまた遠くに出たいわ。もうずっと、 私たち家族旅行もしてないのよ」
「きっと、 そのうちまた出来るようになるさ」
「そんな事言って、 もう2年以上も経つじゃない。いい加減、 疲れてきたわ」
「……」
晴恵の言葉に答えず、 私は家を出た。
帽子を被り、 私は家の前の細い道を歩き出した。
シャッターの閉まったままの店を横目に見ながら、 私は歩いていく。
元々この町にその手の店は少なくなかったが、 コロナ以降さらに増えたような気がする。
晴恵の言う通り、 コロナ禍以降私たちは皆で旅行にも行けていない。
外食チェーン店に勤める私は、 かつては時折家族と一緒に遠くに出掛けることを激務の中の楽しみとしていた。
だがコロナ以降、 それもやめてしまった。私たちは高齢の母と同居しているし、 まだワクチンを打っていない幼い娘もいる。家族を感染から守るための決断だった。
それ以来、 一人でこの町の路地を散策するのが私の休日のささやかな楽しみとなった。
子供の頃に戻ったように細い路地を進んでいくと、 まるでゲームのワープゾーンのように思わぬ場所に出口があったりする。 旅行には行けなくとも、 そんな時はこの小さな町も少しは輝いて見えるような気になる。
不思議な気分だった。 子供の頃は当たり前のようにこの町の路地に入ったり出たりして遊んでいたのに、 大学を卒業して子供の頃を過ごしたここに帰ってきたら、 もうこの路地の入口は私の視界に入らなくなっていたのだ。
コロナ禍でこの町のあちこちを散策するようになる前までは。
トカゲなどの小動物を見ながら狭い路地を歩いていると、 子供の頃、篤弘と探検ごっこをしていた頃のことを思い出す。
この町で小さな運送屋を営んでいる篤弘は、 大人になってもここに住み続けている数少ない友人だった。以前は時折二人で会ったりしていたのだが、 コロナ禍以降はその機会もめっきり減っていた。
私は、 妻の「子供みたいに」という言葉を思い出した。 確かにそうかもしれない。
でも、 少しくらいはいいじゃないか。 ただでさえ楽ではない生活に、 コロナが追い打ちをかけた。これくらいの楽しみもなしにやってられるか。
私は、 心の中でそう繰り返した。その度に、 少しずつ頭から家族の顔が薄れていくような気がした。
そんなある日、 私は奇妙な路地を見つけた。
もうこの辺りの路地は大方散策し尽くしたはずなのに、 その入口は初めて見るような新鮮さを感じさせた。
興味を引かれて奥の方に進んで行くと、 そこはまるで別の世界にでも通じるかのように長く、 暗かった。
明らかにおかしい。
周囲の建物の様子からすると、 いくら何でももう路地を抜けるか突き当たりにぶつかるはずだ。
奇妙な事はそれだけではなかった。 初めて訪れた場所なのに、 そこはまるで遠い昔に訪れた事があるような気がした。
もう引き返すべきだと私の理性が告げていた。
だが、 好奇心にかられた私の足は止まることはなかった。まるで、 子供の頃のように。
「これ以上、 こっちに来たらだめだよ……」
その声に振り返ると、 すでに周りは現実とは思えない暗い空間に変わっていた。
「やれやれ。 本来ここを見つけられるのは子供くらいだったんだけど、 コロナ禍とやらで遠くに行けなくなって、 身近な町に籠る大人が増えたみたいだね」
「ここはどこだ? あんたは一体……」
「ここは<時の集積所>さ」
「時の集積所だって?」
「ああ。 時間の流れは、選択によって様々に枝分かれしていくっていう話を聞いたことはないかな。 平たく言うと、 ここは様々に枝分かれした世界線を管理している場所で、 君が見つけたのはその扉っていうわけさ。 僕は、 まあここの管理人って所かな」
響く声が何やら合図のような物をかけた。
すると、 信じがたい話だが周囲の空間にこの町の風景、 そればかりか今のこの町からは失くなった建物までもが映し出された。
「とにかく、 ここは人間が来るような所じゃない。 早く今来た道を引き返すんだ」
私はその声に従って帰ろうとしたが、 その時ある考えが脳裏をよぎった。
「なあ、 様々に枝分かれした世界線が集まってるってことは、 仕事もコロナもない世界もあるんじゃないのか?」
「……それを聞いてどうするつもりだい?」
「私もそちらの世界に行くことは出来ないのか?」
「一つの世界線に同じ人間が二人以上集まることは許されない。 時空のひずみが生まれて、 最悪こちらの世界に帰れなくなってしまうよ」
「こちらに帰れなくなってしまう」だって?むしろ、 それは望む所じゃないか?
「それでも構わない。 とにかく、 もうこんな毎日は終わりにしたいんだ」
「それじゃあ、 こっちの世界にいる君の家族や友達や周りの人はどうなるの? この世界線の人間の人生は、 この世界線の人間だけの物なんだよ」
「……! このまま、 こっちで過ごせというのか?」
「それでも、 今までも君はそうして生きてきたはずじゃないか。普通の毎日も悪くないものだよ」
その言葉が、 私の神経を逆撫でした。
「普通の毎日だって? それが嫌だから言ってるんじゃないか。 あんたみたいに、 安全な所から見てるだけの奴に何がわかる。 2年経っても、 コロナは終わりはしないで家族からも冷たい目で見られる。 その間にも、 会社の業績は下がる一方だ」
「仕方ないな……。 じゃあ、 君を説得するのにうってつけの奴に会わせてあげるよ」
響き渡る声がそう言うと、 目の前の空間に一人の子供の背中が映し出された。
この背中には見覚えがあった。 いや、これは……
「これは……そう、 私だ。 子供の頃の私じゃないか……」
その瞬間、 強い衝撃とともに、 私の脳裏にひとつの記憶が甦ってきた。
「思い出したよ。 どうりでここに見覚えがあるはずだ。 子供の頃にも、 私は一度ここに来たことがあったんだな……」
「そう。 確か、 その時の夢はプロ野球選手だったかな。 あの時、 君は君の望む世界に行かずに、家族や友達のためにこっちの世界で夢を叶えることを選んだんだ。 あの時の君が今の君を見たらどう思うかな?」
「……」
私は愕然とした。 晴恵は子供みたいと言っていたが冗談じゃない。 家族を捨てようとした今の私は子供以下じゃないか……。
「もう一度聞くけど、 まだ向こうの世界に行きたいと思うかい?」
「いや。 こっちの世界で何とか頑張ってみるつもりだ」
「じゃあ、 さっき来た道を引き返すんだ。 ここを出てしばらくすると、 ここであった事の記憶は消える。 子供の頃みたいにね。 ……そうだ。 最後に聞くけど、 君はプロ野球選手とは関係ない仕事をしてるみたいだけどやっぱり夢を叶えていた方が幸せだったと思うかい?」
頭に妻と娘の顔を思い浮かべて、 私は首を横に振った。
そして、私は歩いてきた方に向かって引き返していった。
やがて、 暗い空間は少しずつ消えていった。
*
*
*
気がつくと、 私はあの空間へと入った路地の前に立っていた。
時間を確認するために携帯を取り出すと、 篤弘からのメールが来ていることに気がついた。
「今度、 久し振りに二人で会って酒でも飲まないか?」というような事がそこには書かれていた。
もちろん、 私の答えは決まっていた。
家に帰って玄関で手の消毒をしていると、 妻と娘が近寄ってきた。
さっきの不思議な出来事の記憶が薄れないうちにと、 私は口を開いた。
「なあ、 次の休み、 家族でどこか出かけるか。 このところ、 ずっとお前たちをないがしろにして悪かったな」
「本当に!?」
娘の琴美が弾んだ声で言った。
「あなた、 本当に大丈夫なの?」
「ああ。 もちろん、 感染対策はしっかりするぞ」
私の脳裏に、 時の集積所で言われた言葉が蘇る。
「普通の毎日、 か……」
「……?」
私は、 今まで守ってきた妻と娘、 そして母の顔を見渡した。
彼女たちの明るい顔を見ている時、 やはり私はこの小さな町が少しは輝いているように見えるのだ。
(おわり)