1.H ヒューマス
四月に高校生活が始まり、早いものでもう一ヶ月が経とうとしている。
「きりーつ、きをつけー、れー」
「ありがとうございましたー」
委員長の覇気のない号令と、それに追従する生徒たちの眠そうな挨拶。随分とこの光景にも慣れたな、などと考えつつ、俺─東谷清は教科書を取り出し、次の授業の支度をする。
待望の高校生活…のはずだったが、俺は、見事にクラスから浮いていた。
理由は簡単。
新学期が始まって以来、ほぼ誰とも関わることなく、オープンオタクとして過ごしていたからである。
ひたすらに教室の隅でラノベを読み倒したり、推し作品のファンアートを描いたり。憧れの高校生活、俺は今までと何も変わらない過ごし方をしていた。
おかげで周りには割と敬遠されているし、もちろん友達などほとんどいない。
しかしそんな俺の耳に、弱々しい声が飛び込んで来る。
「助けて…化学の教科書忘れた…」
声の主は北原玄斗。クラスから浮いていた俺に声を掛けてきた、物好きな男である。
先程友達が「ほとんど」いない、と言ったのはこういう例外がいるからである。おかげで辛うじてボッチを回避できているので、こちらとしても文句はないが。
「阿呆。隣のクラスのやつに借りてこい」
「阿呆って酷い‼︎」
玄斗がそう言い返してくるが、正直この口の悪さはもう矯正できる気がしないので彼には我慢していただきたい。
ちなみにこの玄斗はほんの少しのんびりとした奴で、こうして忘れ物をすることが割とある。
「次の時間化学だぞ。」
俺が一言促すと、玄斗は慌てて駆け出して行った。
どうやら解決しそうなので推しのファンアートでも描こうかと思った俺は、スケッチブックを求めてカバンを漁ろうとした。
その時だ。化学実験室の方から大きな爆発音が聞こえてきた。教室のスピーカーからはけたたましく警報が鳴り始め、同時に周囲はざわめき出した。
初めは何が起きたのかわからなかったが、爆音と放送の内容から察するに実験失敗的なことらしい。
さてどうしたものか。地震でもないから机に潜るのも違うしな…などと考えた次の瞬間、視界が一瞬金色に輝き、直後俺の胸に激痛が走る。
地面に蹲る程に強いその痛みは、胸から全身に広がって行く。
しかし次の瞬間、霧が晴れるかのようにスッと体から痛みが消えた。
立ち上がってあたりを見回したところ、多くの人が地に伏し苦しんでいる様が目に入った。
しかし俺と同じくすぐに痛みは消えたようで、他の奴等も次第に立ち上がる。
そんな中クラスの女帝…もとい委員長の西山皇菜が立ち上がろうとし、そしてふらついて態勢を崩した。
そこに、一人の男子が慌てた様子で駆け寄る。
「大丈夫か西山⁉︎」
彼はそう言いながら、転んだ西山に手を差し伸べた。西山は礼を言いつつそいつの手を取り立ち上がるが、少し顔を抑えて苦しそうな様子だ。
サラッと異性に手を差し伸べられるとかあの男コミュ力強くない?などと余計なことを考えていると、後ろの扉から担任が慌てた様子で駆け込んで来た。
しかし、その担任の心配の声は彼の後ろから聞こえてきた轟音に掻き消された。
彼の入ってきた扉が崩れ落ちたのである。
コレはただの実験失敗なんかじゃない…そう確信した。
事故の一言で片付けるには余りに理解の範疇を超えた事態が起きている。
流石の俺も焦り出し、教室にあるもう一つの扉から廊下へ飛び出した。
すると他の生徒たちも同じく走って逃げだしたようだ。あまりにおかしなことが続きすぎて半ば放心状態なのだが、そんなことを言っている暇はない。
芋を洗うようにごった返す廊下を通り、とりあえず外を目指す。
しかしもう出口も目前かと言う時に、女子のハッとしたような叫び声が聞こえてきた。
「皇菜ちゃんがいない!!!」
それを聞いた俺は何故だか教室に向かい駆け出した。
人の波をかき分け走りに走る。
自分でも何に突き動かされたのかはわからなかった。西山皇菜とそこまで親しい訳でもなければ、彼女を探す義理もない。あの叫んだ女子が人混みの中でたまたま西山を見落としていたのかも知れない。
だがそれでも俺の足は止まらなかった。
「待って清‼︎どこ行くの⁉︎」
と、俺に気づいた玄斗が止める声が聞こえたが、俺は無視して走り続けた。
しかし、とうとう西山の姿を見ることはなく廊下を走り抜け、教室の前まで辿り着いてしまった。
無駄足だったか、やはり俺なんかが探さなくても既に外に避難しているのだろうか、などとも考えたが、念の為教室の中をチェックすることにした。
教室の中に足を踏み入れると、探していた人物と目が合った。いや、合ってしまった、というべきか。
そこにいた西山の様子は、いつもの男勝りながら快活な彼女とは大きく異なっていた。
その眼の光はくすみ、鋭く俺を睨みつけていた。
「西山サン…だよな?」
そう問いかけたところ、西山が微かな声で呟いた。
「……ヒューマス」
俺はなんのことか理解できず、彼女に問い返そうとした。
しかしその時、西山の目の前から一枚の葉っぱが飛んできて、俺の頭上を飛んでいった。
驚いてその場から一歩退いた後、俺の目の前に黒い塊が轟音と共に雪崩の如く降り注いできた。
頭上を見上げると、俺の頭の上にあった天井に、大きく穴が空いていた。目の前の瓦礫と併せて考えると、崩れ落ちた、と考えるのが妥当だろう。
何故だ?一体何が起きているんだ?俺が動転しかけたその時、西山が口を開き、そして今度ははっきりと、しかしどこか機械的な声でこう言った。
「殺す」
彼女は俺を見据え直したかと思うと、瓦礫の山を飛び越えて間合いを詰め、殴りかかってきた。
あっっっぶな‼︎
襲いかかってきそうな気配があったのでたまたま回避できたが、彼女の拳はとても見てから回避できるようなスピードではなかった。
「せっかく心配して助けに来てやったってのになんだお前⁉︎」
キレてそう問いかけるも、彼女は答えない。
また殴りかかって来そうだったので、距離を取り、どうすべきか模索する。
彼女の目的がわからない。パニックに陥っているのか?それにしては殺意が明確すぎるような気がする。彼女を連れ戻したかったのだが、今の彼女を正気に戻すのは俺にはだいぶ手に余る。校舎が崩れる怪現象も起きているので、早いとこ安全を確保したいのだが…
少しの間彼女から意識を逸らしていたところ、先ほど見たような黒い葉っぱが制服の左腕を掠めた。
焦って左腕を見たところ、袖の一部が腐蝕したかのように黒く傷んでおり、直後その周りの布がボロボロと崩れ落ちた。
本当に何が起きているんだ?コレはまるでさっきの扉や天井のような…そうか、この葉っぱが扉や天井の崩壊を引き起こしたということか。
理屈は全くわからないが、どうやらこの葉っぱは大層危険な物のようだ。
葉っぱの正体について少し考察したところで西山に意識を向けると、彼女の前には例の葉っぱが現れ、そして俺目がけて飛んでこようとしていた。
やっべ‼︎
先ほどより早い速度で飛んで来るそれを、俺は飛び退いて回避した。
本格的に不味い。
今の俺には彼女をどうすることもできないのだ。
彼女の間合いに入れば即あの拳の餌食だろうから、近づいて抑えることも反撃して彼女を行動不能にすることもできない。と言うかそもそも女子に本気で殴りかかるのはこんな状況でも少し気が引ける。かと言って逃げ出そうと思えば例の危険な葉っぱが飛んでこないとも限らない。
さてどうしたものか、と悩んでいるうちに、またも葉っぱが飛んでくる。
俺は先ほどと同じように素早く飛び退いて回避した。
しかし避けた先には運悪く先ほどの瓦礫が転がっており、それを踏んだ俺はバランスを崩し、足を挫いた。
本当にヤバいな…
動くに動けない中、西山が歩いて近づいてくる。
なんとか立ち上がって逃げようとするが足は動かず、彼女の拳が俺の腹に叩き込まれた。
「ぐぁっ…」
余りの痛みに、地面に膝をつく。
くっそ…ここで終わりか…
大して仲良くもないクラスメイトを助けようとカッコつけて飛び出して来て…そのクラスメイトに撲殺…
我ながら随分と滑稽な最期だな…
西山の拳が俺に向けて振り下ろされようとしたその時、何故か彼女が後ろに吹っ飛んだ。
その直後に聞こえて来たのは、いつも休み時間に俺に向かって話しかけてくるあの声…
「清ー‼︎大丈夫ー⁉︎」
切羽詰まっていながらもどこか間の抜けた玄斗の声が、教室に響いた。