986:侯爵領視察後。
侯爵領領都の領主邸はかなり広く、見学するのも随分と時間を要した。家具類は揃っているので引っ越しをしようと思えば直ぐにでも可能である。
王都の侯爵邸に引っ越すのが年が明けて温かくなった春頃の予定としているので、こちらへの引っ越し完了も来春を目途にしようと決めた。来年の夏の長期休暇の半分は侯爵領の領主邸で過ごすはずだ。
代官さまが地下室に放り込んだ問題のブツの処理も無事に終え、前の住人の痕跡はほぼ消えたはず。あとは私が過ごし易いように命令を下すだけ。庭も広いしエル一家とグリフォンさんと卵さんとポポカさんたちもこちらで過ごす方が余裕があるだろうと、厩の改築とポポカさんたちの部屋の確保をお願いしておいた。
命令の異質さに代官さまが目を真ん丸にして驚いていたけれど、ソフィーアさまとセレスティアさまが『慣れてください』『アストライアー侯爵ですもの』と仰ると彼はなるほどと納得していた。解せない。
侯爵領に赴いてから数日が経っていた。今度は小麦畑の視察に赴いている。毛玉ちゃんたちもあまりの広さに驚いているようで、五頭はきょろきょろと視線を彷徨わせながら周囲を観察していた。一面に広がる壮大な景色に私は目を細めて後ろに控えてくれている方々の顔を見る。
「一面、小麦畑! ちょっと真ん中を突っ切って歩いてみたいかも」
王都の外に広がっている小麦畑もかなり広大だけれど、侯爵領も負けず劣らず……というか王都の小麦畑よりも数倍広い気がする。侯爵領の主産業なので当たり前なのかもしれないが、王都からあまり出たことがない私には新鮮な光景である。
ハイゼンベルグ公爵家もかなり広大な領地を管理しているはずだが、一度も訪れたことがない。公爵さまにお願いして一度領地見学を申請しても良さそうだ。職場体験や工場視察で学生が知識を得るように、私も領主として知識を得られるかもしれない。
「イガイガしないか?」
「虫や蛙もいましょうに。ナイは気になさらないのですか?」
ソフィーアさまが片眉を上げながら、セレスティアさまが不思議そうに仰っていた。
「確かに麦畑の中をあるけば肌がイガイガするかもしれませんが楽しそうなのです。虫と蛙は人間から逃げていくので問題ないかと」
麦畑のど真ん中を突っ切れば当然肌がイガイガするだろうけれど、映画で見たワンシーンの再現をしてみたい。ソフィーアさまとセレスティアさまには昔本で読んだシーンを、自分でも体験してみたいと伝えれば理解してくれるだろうか。
微妙な所だし、穂が実りもう直ぐ収穫なので私が歩けばその部分の麦は駄目になってしまう。勿体ないことはできないし、領民の皆さまの収入を減らす行為だなと描いた夢は諦める。
その代わり収穫後に毛玉ちゃんたちとエル一家と広い畑を駆けるのは楽しそうだ。セレスティアさまを誘えば速攻で承諾してくれるだろうし、ジークとリンとソフィーアさまも『子供か』と呆れながら付き合ってくれる。クレイグとサフィールも誘いたいし、ユーリとアンファンもきてくれるだろうか。
「次にくるのは収穫後だから、その時は毛玉ちゃんとエルたちと畑を借りて遊ぼうか。きっと楽しいよ」
私が毛玉ちゃんたちに声を掛けると彼らは鼻を鳴らしてなにかを伝えようとしている。お出かけできることが嬉しいようで、私たちが外に出る際に良く耳にする鳴き方だった。
『ボクたちも沢山飛べるねえ。アズとネルはあまり飛ばないし丁度良い運動になるかな。ねえ、ナイ。辺境伯領の仔竜たちも誘って良い?』
私の肩の上で話を聞いていたクロが良いこと思いついたとばかりに声を上げる。
「良いんじゃないかな。というかクロが誘えばみんなこない?」
辺境伯領の竜さんたちがアルバトロス王国の空を飛ぶのは王国民の皆さまの中で常識となっていた。二年の月日で随分と様変わりした常識であるが、亜人連合国所属の竜の皆さまであれば問題を起こすことはないし、偶に民の方から魔物被害等のトラブル対処をお願いされており持ちつ持たれつの関係を築いていた。
『……そうかも。じゃあ代表に頼んでお願いしてみよう』
肩の上ですりすりと顔を擦り付けてくるクロに私は苦笑いを浮かべた。
「同じだよ、ソレ。私がディアンさまにお願いしても竜の仔たちみんなきそうだけれどね……」
『じゃあ誰が誘っても同じだ』
私とクロが顔を合わせてなるようになるさと笑ってみせる。とりあえず視察を再開すべく、代官さまと土地の管理者との皆さまと私で小麦畑の問題点の洗い出しや、灌漑整備の必要箇所に小麦の品種改良の話を持ち掛ける。
長年、小麦の生産に携わっている方々なので小麦の育成については彼らの方が詳しい。私は病気や虫害対策の必要性や肥料の改善、灌漑設備の充実に農機具の改良等を提案して、彼ら労力が減るようにと願うばかりだ。
他にも耕作放棄地があることを知り割と広い場所だったため、引退している領民の方を先生にして孤児院の子供たちに農作業のやり方やコツを伝授して頂くことにした。先生方にはお小遣いほどのお給金を支払うことにして、生活困難者の支援になれば良いなという腹積もりである。孤児院の子供は将来の巣立ちに向けた習い事感覚だ。
あとは教会で文字の読み書きを教える人の常設をお願いする。文化が成熟していない場所での教会の立ち位置はかなり重要だ。毎朝祈りを捧げに教会へと向かう方もいるし、孤児院も教会が運営している。子供の遊び場にもなっているし、教会の中には図書室もあった。教会の図書室を開放して勉強の役に立てて頂くのもアリだし、侯爵領規模であれば私が図書館を新規に建てて無料開放する手もある。
あと侯爵領は広いので街の中には貧民街も存在していた。貧民街はセーフティーネットの一つとなっているので潰す気はない。ただ貧民街から抜け出したいと願う方たちの救出ルートは確保しておきたかった。規模が大きくなっただけで私が執り行っていることは、子爵領で実践していることと同じだ。私が侯爵領でやりたいことを語っていると、代官さまが慌てて口を開く。
「ご当主さま、侯爵家の当主となられて日が浅いのです。もう少しゆっくりと計画を進められても宜しいのではないでしょうか」
「申し訳ありません。しかし知っておいてもらうのは大事なことかと。領民の方々が将来に希望が持てなければ働く意欲も失せてしまうでしょうから」
他にもやりたいことがまだまだあるので、念のために伝えておく。あとは侯爵家の私設部隊や温室栽培の確立とかいろいろである。そうして領内の小麦畑の視察を終え、耕作放棄地のいくつかには田んぼを新たに造り上げて赤米とフソウで頂いた種籾を苗にして来年の五月頃に田植えをすることに決めた。
アストライアー侯爵領産のお米……良い響きだなと感心していると、小麦畑の只中にぽつんと小さな林が残っていた。どうして開墾していないのだろうと不思議に思って首を傾げていると、代官さまが困り顔で私を見る。
「この場所は禁忌の森です」
代官さまが林について教えてくれた。森と称するには規模が小さい気がするけれど、人々から呼ばれているならば森なのだろう。禁忌という危ないワードが付されているので危ない場所なのだろう。
「名前を聞く限り、なにかあるのですよね?」
私は代官さまに視線を向けてごくりと息を呑む。嫌な予感しかしなかった。
「満月の夜、森の中から呻き声が聞こえます。そして原因を排除するために森に入った領民は戻ってくることはありませんでした」
ああ、やはり幽霊系の話である。魔獣や魔物に魔力や精霊が存在するのだから怖がらなくても良いじゃないかと周りの方は仰るけれど、苦手なものは苦手なのである。ジークとリンが私の苦手な話であると分かり微妙な雰囲気を携え、ソフィーアさまとセレスティアさまも苦手ならば無理をしなくて良いのではという表情を浮かべていた。
「幽霊の話であれば止めましょう。夜に寝られなくなると困ります」
成人しているのに幽霊の話は止めてくれという当主の願いに、代官さまは苦笑いを浮かべている。
「森の中に入らなければ問題は起こらないので基本は放置で良いかと。ただ状況が悪化すれば祓い師を呼んで対策を打つべきでしょうね」
祓い師とは、単純に悪魔払い師とかを差す言葉である。大体、教会の神父さまか魔術師か呪術師の方が担っているけれど、専門職となれば割と法外な値段を要求される。
祓い師のコミュニティーが形成されており、彼らがどうやって幽霊や悪魔を祓うのか謎に包まれていた。本当に要求されるお金が法外であれば私が浄化儀式を執り行うべきかなと代官さまに伝え今日の視察は終わりを迎えた。
――数日後。
アルバトロス王都の子爵邸で着替えを終えた私は気合を入れていた。今日は聖王国に移動して、明日に控えた新大聖女さま就任の儀に陛下の名代として参加予定だ。普段より気合が入っているのは、黒衣の枢機卿さまに喧嘩を売られている形で再会を果たすからである。
「危ないことは起こらないはず。でも、今までトラブルに巻き込まれ続けているから気を付けようね。私が言える台詞じゃないけれど」
本当にトラブルに巻き込まれ続けている私が言えた台詞ではないけれど、気を付けるにこしたことはない。ヴァナルと雪さんと夜さんと華さんはフィーネさまの下にいるので、身の安全や危険の察知能力は下がっているのだから。
ジークとリン、そしてソフィーアさまとセレスティアさまも戦う力を持ち得ているけれど、なるべく危ない目にあうのは避けたい。でもまあ黒衣の枢機卿さまがどうでるか分からないし、聖女ウルスラと呼ばれている少女の本心も分からない。
「ナイの所為じゃないからな。それにナイを守るために俺とリンが側にいるんだ。頼ってくれて良い」
「兄さんの言う通りだよ、ナイ。ナイが危ない目に合うなら絶対に助けるし、そうなる前に排除するから」
そっくり兄妹の言葉に私はありがとうと伝えた。そしてジークとリンと私はいつものようにグータッチをすれば、クロとアズとネルと毛玉ちゃんたちともグータッチならぬ鼻タッチを終える。そうしてクレイグとサフィールに行ってきますの挨拶をして、ユーリと乳母さんとアンファンにも出かけてきますと伝えておく。
なんだか子爵邸にいる時間が少ない気がするけれど、お仕事だから真面目に務め上げよう。働かなければ美味しいご飯が食べられない。
ジークとリンと私が子爵邸の廊下を歩いていると、ソフィーアさまとセレスティアさまも合流して転移部屋のある地下室を目指す。魔力を注ぎ込み王城の転移部屋に移動すると、外務部の方に近衛騎士の皆さまと教会の方たちが私たち一行を待っていてくれた。各々の方と形式的な挨拶を済ませて良く知る方と視線を合わせる。
「ベナンター卿、おはようございます」
「侯爵閣下、おはようございます」
部屋の隅っこで控えていたエーリヒさまと挨拶を交わし、彼の隣に立っている緑髪くんとも挨拶を交わした。彼ら二人は外務部の若手エースとして聖王国へ赴くそうだ。
「またご一緒できるのですね。頼りにしております」
「いえ、俺の力は微々たるものです。ただアルバトロス王国への報告や雑務はお任せください」
仲の良い方や顔見知りの方が多いと仕事がやり易い。カルヴァイン枢機卿さまとシスター・ジルとシスター・リズとも軽く挨拶を交わして、聖王国へと転移するのだった。