0984:平和なアルバトロス王国。
――聖王国から戻って一週間が過ぎていた。
夜。ご飯を終えたあとユーリの様子を伺って、ミナーヴァ子爵邸の私室で私は机に座している。クロも机の上で首を傾げていた。ジークとリンも今は私の部屋に一緒におり、特になにをするでもなく過ごしている。
フィーネさまから個人的に手紙が届いているのだが、黒衣の枢機卿さまは余計なことを聖王国で画策しているようだ。
ヴァナルと雪さんと夜さんと華さんをフィーネさまの下に残しているので、彼女の暗殺や襲撃の心配は下がるはずである。あとはフィーネさまの派閥に所属している方々の警備を厚くして頂いて、危険を避けるくらいしか対策が取れない。黒衣の枢機卿さまが暴力に訴えてくれれば、力で返せば良いけれど今の所は言葉の応酬だけとのこと。
あと黒衣の枢機卿さまは私の力とウルスラと呼ばれる少女と力比べをさせたいようだと記されていた。他国に手は出せないし、聖王国から助けて欲しいと望まれない限りは動けないなあと手紙から視線を外して天井を仰いだ。
『大丈夫かなあ……フィーネ』
クロは私が机の上に置いた手紙を読んで、ぽつりと小さな声で呟いた。いつもであればヴァナルも私が座る椅子の横で首を傾げているけれど、彼は今聖王国で過ごしている。雪さんたちも一緒にいればヴァナルの横で心配している台詞を彼女たちは同時に言うのだろうなと苦笑いになった。
毛玉ちゃんたちは初めてヴァナルと雪さんたちがいないことを噛みしめているようで少し元気がない。時折、寂しそうに鼻を鳴らして二頭を探しているのだが、親離れしないといけないし慣れて欲しいものである。今は毛玉ちゃんたちは私の足元で、五頭が団子になって大人しく過ごしている。
「大丈夫だと良いけれど……大聖女が同時に存在するってアリなのかな」
フィーネさまは大聖女さまが二人在位することに文句はないようだったけれど、周りから確実に優劣を付けられるだろう。聖痕が現れたという聖女さまは治癒魔術に特化して随分と類まれなる力を持っている。過ぎた力は危ういが、上手く使えば聖王国の看板になれるのだろう。フィーネさまが強制的に地位を剥奪されることがないようにと願うしかない。
「どうだろうな。聖王国の事情だから俺たちに状況を正しく判断する材料が少ない」
「フィーネがアルバトロス王国にくれば問題はなくなるけれど……」
そっくり兄妹もフィーネさまのことを心配してくれているようだ。侯爵家自前の隠密がいないので、情報を掴むために聖王国に向かって貰えない。家宰さまの提案でアルバトロス王家か後ろ盾であるハイゼンベルグ公爵家かヴァイセンベルク辺境伯家に話を通して隠密行動を取れる方を借り受けようとなった。
手紙をさっそく差し出せば構わないよと返事をくれている。人選は三家で吟味してくれるようで、私はどんな情報を掴んで欲しいのか伝えただけだけれど。もう少しすれば第一報が入るだろうと報告を受けている。
「フィーネさまは聖王国を立て直した方だし、簡単に逃げてこないんじゃないかな。それこそ立場が弱くなって命の危険を感じない限りは」
私はジークとリンを見る。フィーネさまは明るくて時折抜けているけれど、腹を括れば強い方である。そして聖王国を簡単に見捨てないはずという確信もあった。
フィーネさまがあっさりとアルバトロス王国に逃げて亡命要請を掛ければ、私はフィーネさまが所属している方々にキレ散らかす。その辺りはフィーネさまも聖王国も知っているだろうから、今頃右往左往しているかもしれない。とはいえ、私の存在がフィーネさまを無下に扱わないように抑止になってくれていればそれで良い。
「エーリヒも彼女を心配しているようだしな」
ジークが片眉を上げながら、エーリヒさまとフィーネさまを心配しているようだった。結ばれたばかりなら、そりゃエーリヒさまはフィーネさまのことを凄く心配するのだろう。逆に彼がいつも通りであればエーリヒさまの評価がダダ下がりである。しかしジークとエーリヒさまは……。
「あれ? こっちに戻ってエーリヒさまとジークが話す機会があったんだ。いつの間に」
本当に二人はいつの間に言葉を交わしていたのだろうか。
「ああ、城に出向いた時に偶然にな」
「そっか」
王城では私と離れることもある。王城で魔力補填を行っている最中はジークとリンは待機を余儀なくされている。その間に待機をリンに任せてジークがエーリヒさまに会いに行っても問題ない。
補填部屋前の立ち入りは、私が魔術陣を壊した際に入場者の限定が緩くなっているので、エーリヒさまが許可を貰って入ったのかもしれないのだ。特に不思議に思う必要はなかったかと、気にしないで欲しいとジークに視線を向ける。
「妙なことにならなきゃ良いけれど」
私がジークとリンに視線を合わせると、そっくり兄妹が微妙な表情を浮かべる。
「黒服の男がナイに喧嘩を売らなければな」
「ナイを良いように扱おうとしてた。嫌な奴」
聖王国で黒衣の枢機卿さまと相対した時に妙な雰囲気だったし、彼は彼に都合の良いことを言っていた。他国のことなので強く言葉を発せないし、面倒になればフィーネさまの手を煩わせるので穏便に済ませたつもりだ。
むむむとそっくり兄妹が微妙な顔になって『聖王国を亡国にするなよ、エーリヒが悲しむ』『亡国にしても良いけれど、面倒になるね』と言いたげであった。
「とりあえず、明日から侯爵領の視察だから聖王国の動向を気にしつつ普段通りに過ごそう。他国の私たちが関わると、いろいろな国から突き上げをくらうだろうしね」
聖王国にもアルバトロス王国にも迷惑を掛けるつもりはない……いや、違う。トラブルを引きつけて迷惑を掛けているので、それ以外の所で迷惑を掛けないようにしたい。これから先は聖王国を気にしつつ、西の女神さまの情報や引き籠もり対策を講じながら日常も送ろうとジークとリンに伝えて、就寝の準備に入るのだった。
◇
――心配だ。心配過ぎる。
離れていることがこんなにもどかしいのだと初めて知った。夜。勤務が終わり外務部の自席で頭を抱えている。公務員に過ぎない俺がフィーネさまにできることはかなり限られている。
神さまの島から戻ってきて、いの一番に彼女に向けた手紙を認めオーロラの写真とミズガルズで見つけたお土産を送った。その数日後、聖王国に赴けばあんな事態が起こるなんて誰が予想できるだろうか。
「なんでこんなに問題が起こるんだろう」
俺は人気の少ない外務部の部屋で深く息を吐く。無意識に溜息を吐いてしまったことにハッとして、誰にも気付かれていないはずだと周囲を見渡した。
外務部に配属されてからというもの、東大陸に向かったり西大陸の西の端にあるヤーバンに赴いたりと忙しいし、アルバトロス王国に他国の重要人物がくることも多かった。
現代日本の外務省職員がどれほど海外出張をするのか知らないし、他国の外務部に勤めている人たちがどんな仕事振りなのかも知らない。同じアルバトロス王国外務部に所属している他の面子より外に赴くことが多い気がする。最近はユルゲンも引っ張り出されているようなので、彼と俺の間には友情が芽生えている気もする。
「……大丈夫かなあ」
「おや。なにか心配事がおありですか?」
椅子の背凭れに体重を掛けた俺が呟くと、不意に声が掛かった。先程まで俺の近くには誰もいなかったはずなのに、いつの間に気配もなく近づいてきたのだろうと後ろを振り向く。そこには外務部のトップを務めるシャッテン卿が笑みを携えて立っていた。俺は上司が現れたことに姿勢を正して椅子から立ち上がった。
「申し訳ありません、失礼な態度を取ってしまいました」
「いえいえ、お気になさらず。もう勤務時間外となっておりますし、硬い挨拶は不要でしょう」
頭を下げた俺にシャッテン卿が緩く首を振った。そして彼がなにかお困りごとでもと声を上げ、退勤したユルゲンの席に腰を下ろしたのだった。俺は今の状況を相談するか迷ったものの、外務部の長を務める方である彼は相談するのに一番の適任だろうと意を決する。
「その……私のか、彼女がトラブルに巻き込まれているようでして。私が彼女に手を貸すのは力不足ですし、見守ることしかできないのがもどかしいなと」
誰かの前で彼女と口にしたのは初めてのような気がする。フィーネさまの名前を安易に口にするのは憚られるので、少し誤魔化した表現となっているがシャッテン卿は気付いてくれたようだ。彼は顔が赤くなっている俺に微笑ましい視線を向けて口を開く。
「確かに男として見ているだけの状況は情けない気持ちに陥ってしまいますよねえ」
シャッテン卿がベナンター卿の気持ちは理解できますよと俺の肩を軽く叩いた。彼はむーと考える素振りを見せて更に言葉を紡ぐ。
「ちなみにですが、とある侯爵閣下が隠密行動を取れる方を募集しておりまして。陛下から外務部も人員を割けるなら頼むと命が下っております」
ふふふとシャッテン卿が良い顔で笑う。とある方というのはナイさまだろう。新興貴族が急激に成り上がったことで、アストライアー侯爵家には人員が全然足りていない。
足りていない故に王家とハイゼンベルグ公爵家とヴァイセンベルク辺境伯家に、それに連なる信用ある家から人員を割いている。しかし何故、王家から外務部に隠密できる人材を抽出せよと命が下るのだろうか。
「外務部からもですか?」
「ええ、もちろん。外務部ですので諜報員と工作員を擁していますよ。そして西大陸の各国に散っておりますねえ」
どこの国もそうでしょうとシャッテン卿が教えてくれた。俺は平和ボケしていたのかもしれない。言われてみればそれはそうだと直ぐに納得できた。国外の情報を収集してアルバトロス王国に益を齎すことも立派な仕事の内である。
「枠が空いておりますが、ベナンター卿も参加してみますか?」
有難い話ではある。でも経験が全くない人間に諜報活動ができるとは思えない。
「しかし私は素人ですよ。諜報なんて担ったことありません」
俺の言葉にシャッテン卿がふふふと笑う。なんだろうなにか試されているような気がして身構えてしまう。
「これは命令ではなく、貴方はどうしたいですかという問いかけですね」
「申し訳ありません。有難い話ではありますが、国と国を繋ぐ裏仕事に素人が手を出せば火傷してしまいましょう。私は今の場所で私にできることをやります」
本当はフィーネさまの下に今直ぐ駆けて彼女の下へと行きたい気持ちで溢れている。でもこれは聖王国の問題だ。黒衣の枢機卿がナイさまを上手く使おうと画策しているようだが、彼女を御せる人物は少ない。
ナイさまは話をすれば内容を聞いてくれる方だし、アルバトロス王国のことを考えて強気に出ることが少ない。黒衣の枢機卿を勘違いさせてしまっている状況だなと目を瞑った。
「そうですか。では浮かない顔をしていないで、確りと仕事と私生活を充実させてください」
「うっ……その、申し訳ありません。きちんと仕事と私生活を送りたいと思います。声を掛けてくださってありがとうございました」
しまった。またしても見抜かれている。フィーネさまに関することは俺の顔に出易いようだ。
「いえいえ、僕は君の上司ですからね。様子がおかしければ気に掛けるのは当然です。少しは気持ちが落ち着きましたか?」
「はい。私が私のできることを日々努めていこうと思います」
まだ慌てるには早い段階なのだろう。聖王国では新たな聖痕持ちが現れて大聖女の座に推す声が高まっている。そして聖王国上層部も承認するようだ。
フィーネさまと同時に大聖女が存在することになるけれど、二人の大聖女さまの意思次第だろうし俺が口を挟むことではない。どうか、上手く聖王国の運営が運びますようにと願わずにはいられなかった。






