0982:派閥の力。
――聖女ウルスラと直接話した数日後。
聖女ウルスラが大聖女の座に就くことが決定した。就任式は月が替わったその日に行われる予定となっている。私、フィーネ・ミュラーが所属している派閥の皆さまは聖女ウルスラが大聖女になることを快く思ってはいない。
やはり自分が所属している派閥と黒衣の枢機卿が所属しているもう一つの最大派閥と敵対関係に陥ることを危惧しているようだった。執務室で書類仕事を捌いていると、先々代の教皇さま――正しくは三代前の教皇さまだけれど――が部屋を訪ねてきた。三年前より彼の顔に浮かぶ皺は深くなり、月日が過ぎたことを象徴している。
「フィーネ、大聖女が二人同時に存在することに納得しているのかい?」
三代前の教皇さまは深い皺を更に深めた。
「私は構いません。過去に大聖女が二人存在していたことはあったと聞き及んでおりますから」
私自身に問題はない。聖王国の顔が二つあったとしても構わないと考えているし、ウルスラと敵対するつもりもなかった。彼らが気にかけてくれているのは、私は聖王国を立て直した功労者として周りからの扱いが変わってしまうことを危ぶんでいるのだろう。
月日が経てば功績なんて色褪せてしまうものだし、状況は日々変わっていく。ウルスラに聖痕が現れたことは、私に大聖女の座を降りろという神さまのお導きなのかもしれない……って神さまは本当に存在しているみたいだから、冗談抜きで大聖女を辞せと告げられているのだろうか。そうだとしたら凹むなと三代前の教皇さまの顔を見た。
「ああ。歳の近い姉妹だったと記録に残っている。もう一つ事例があるが、その時は直ぐに片方の大聖女が辞めてしまったらしい」
三代前の教皇さまが眉尻を下げながら教えてくれた。おそらく悪い意味で大聖女の座を辞したのだろう。ようするに時代の流れや派閥に人間関係が複雑に絡み合って、長く同時に大聖女が存在したこともあれば、直ぐに一人になってしまった時代もあるということだ。
私とウルスラが同時に大聖女の位に就いた場合は何年座すことができるだろうか。ナイさまが黒衣の枢機卿を危険に感じてヴァナルを残してくれたから、彼がなにか企んでいることは確かなのだろう。
ナイさまは鈍い所があるけれど、身の危険に対しては敏感である。その身の危険は私に向いていたわけだけれど、ナイさまに気にして貰えてちょっと、いや、大分嬉しかった。所属国は違うのに、ちゃんと繋がっていること身を以て感じることができた。そしてエーリヒさまも別れ際、凄く心配そうに私を気遣ってくれていたのだから。
「あの男は次の教皇の座を狙っておるようでな。地盤固めに必死なのだろう。聖女ウルスラに聖痕が現れたことは彼にとって都合が良い。良過ぎるくらいだ」
黒衣の枢機卿は裏でいろいろと動いているそうだ。問題行動ではないし、政治活動だから咎めることもできないと三代前の教皇さまが教えてくれた。一応、私が所属する派閥からも次代の教皇さまを推挙するし、他の派閥の枢機卿も立候補するはず。
以前は七大聖家の当主の誰かが就いていたけれど腐敗を阻止するために廃止して、枢機卿を務めていれば誰でも教皇選出の儀に立候補できるように制度を変えた。単純に七分の一の確率から、西大陸の教会に所属している枢機卿の座に就いている人の数分の一となっている。聖王国で枢機卿の座に就いていれば多少は優位かもしれないが、確率の話に限って言えば難しくなってしまった。
「しかし聖女ウルスラの力は本物です。少し真っ直ぐすぎるきらいがあるので、悪い方に利用されなければ良いのですが」
私はゆっくりと目を閉じて、数秒待ってから開き三代前の教皇さまを見た。聖女ウルスラは聖女として相応しい振る舞いをしている。寄付額は最低限を指定しているし、身分に囚われず分け隔てなく信者の方と接していた。神に対しての祈りも真面目に捧げているし、仕事をサボる様子もない。私より大聖女に相応しいかもしれないと考えているから、彼女が大聖女の位に就くことに不満はない。
ただやはり世間に揉まれていないというか、擦れていないので悪い人に騙されそうだ。決めつけは申し訳ないけれど、黒衣の枢機卿さまのような方に操られていそうである。
「まだ十五歳と幼いが、フィーネも彼女と同じ歳に大聖女として酸いも甘いも知ったではないか」
三代前の教皇さまがふっと柔らかい笑みを浮かべる。三年前はナイさまとアルバトロス王国と亜人連合国の方々に聖王国の上層部がお尻を叩かれた形となるので、彼も人のことは言えない気がするけれど。
私もふふふと小さく笑っていると、部屋の扉を叩く音が聞こえた。来客予定はないので誰だろうと、護衛の人に取次ぎを頼めば同じ派閥の方が訪れてきたと教えてくれる。三代前の教皇さまに私は目配せをすれば、彼は小さく頷いてくれる。そして護衛の方に私は小さく頷くと、執務室に同じ派閥の方が数名扉の前に立っていた。
「どうぞ、お入りください」
私の声に導かれ、同じ派閥の男性三名がゆっくりと部屋の中に入ってきた。私が席を勧めるとやんわりと断られてしまったので、直ぐに終わる話なのだろう。
彼らは私が所属する派閥の中でも比較的新参である。年齢も若く――といっても私とは十歳以上離れている――将来を有望視されている方々だった。三人が私の執務室に訪れるのは珍しいので、本当にどうしたのだろう。
「失礼致します。丁度良かった、大聖女フィーネさまだけではなく、貴方もいらしたか」
一人の男性が半歩前に立ち私と三代前の教皇さまと相対する。彼らは立ったままなので私も立って話を聞いた方が良いだろうと席から立ち上がった。三代前の教皇さまは厳しい顔つきになって彼らと視線を合わせている。いつも穏やかな方なのに珍しいと私は彼に向けていた視線を元に戻して、三人の男性を確りと見据える。
「なにかありましたか?」
私の言葉に男性三人がごくりと息を呑む。取って喰いやしないのに妙な雰囲気を携える彼らの言葉を私は待った。
「申し訳ありません。今日限りを持って派閥を抜けさせて頂きたい」
深刻な表情を浮かべた男性三人が私と三代前の教皇さまに頭を下げる。そして顔を上げた彼らの目は真剣そのものだった。
「え……でも……何故……――理由をお聞きしても宜しいでしょうか?」
何故、派閥を出ようとするのだろうか。そんなに簡単に鞍替えできるもの……そういえば彼らは最近私が所属する派閥へと入ってきたのだった。流れる風に吹かれて、あっちへ向かいこっちへ向かう方たちなのかもしれない。
「……大聖女フィーネ。私は耄碌して耳が聞こえ辛い。彼らが伝えた言葉をもう一度教えてくれるかな?」
先ほどまで厳しい顔を浮かべていた三代前の教皇さまは菩薩のような表情になっていた。彼の背後から黒いオーラが見える気がするけれど、まさかいつも穏やかな三代前の教皇さまが悪鬼羅刹のように変わることなどあり得ないから私の気の所為だろう。
「は、はい。派閥を抜けたいと彼らは仰いました」
三代前の教皇さまの雰囲気に気圧された私は少し上擦ってしまう。
「そうか、そうか。して大聖女フィーネよ、君はどう考える?」
指を顎に手を当てて考える仕草を見せた三代前の教皇さまに、男性三人は彼の雰囲気に吞まれたのか小さく縮こまっていた。
「私に彼らを引き留める権限はありません。ですので、彼らの言葉を受け入れるべきではないかと考えております」
派閥の所属に関しては契約書を交わしているわけでもない。ただ空気を読んで、誰々はどこそこの派閥に属していると察するだけだ。今回のように直接、入る抜けるを宣言することもあるが、聖王国では自然に形成されていることが多かった。
「ふむ。それは何故? 派閥の人数が少なくなれば、多数決で話を決める際に我々が不利になろう。大聖女フィーネはその大事さを身に染みて知っているだろう」
「もちろんです。私たちの派閥が持っている力はいずれ弱くなりましょうし、そうなれば他の派閥が強くなるのみ。強い方につきたいと願うのは当然の心理かと」
今いる男性たちは世間の空気を読んだのだ。大聖堂を訪れた信徒の皆さまは聖女ウルスラが起こした奇跡を目の当たりにしているし、彼女に聖痕が現れたことも知っている。
彼らがウルスラが所属している黒衣の枢機卿さまの派閥に入りたいと願う気持ちも理解できた。強い者の下にいれば守ってもらえるし、お零れにも預かれよう。ただ、また私たちの派閥に戻りたいと口にした時は百パーセント無理になっているけれど。
「確かに、心の弱い人間には致し方ないことなのか。そうだな、聖女フィーネの言の通り、君たちは好きにすると良い。そして己の行動を後悔しないように聖王国に尽くしなさい」
三代前の教皇さまの言葉に男性三人がぐっと歯噛みしてなにかを堪えている。黙って鞍替えされるより正直に申し出たことは有難いけれど、もう少し上手く動くか誤魔化すことはできなかったのだろうか。
動くにしたって少しタイミングが早い気がするので、彼らは無事に黒衣の枢機卿さまの派閥に合流することができるのか。大丈夫かなと彼らの心配をしていると、男性三人は執務室からすごすごと撤退していく。
「……馬鹿なことを」
男性三人を見送ったあと三代前の教皇さまが目を細めながら小さく声を零す。私も緊張していたのか胸を撫で下ろしていた。
「しかし彼らの気持ちは理解できます。私の下にいれば今いる地位を落とす可能性もありますから」
沈む船には乗りたくないし、乗っていたくはないだろう。沈むつもりはないけれど、彼らは私が失脚すると判断したのかもしれない。
「なにを言う、フィーネ。君は聖王国の大聖女だ。そして国を立て直した者なのだよ。我々が君に不義理を果たせば神から鉄槌が下る。そうならぬように我らは君を助けよう。あの時君がアストライアー侯爵に誓った様にな」
三代前の教皇さまが柔らかく笑むので、私も彼に笑みを返す。三年前はナイさまに聖王国の方々がお尻に火を付けられ、私も一緒に炙られただけである。あの時の私はナイさまに誓ったというより、自分の立場が危ういと感じ取って致し方なくだった。
今は、どうだろう。みんなで立て直した聖王国を波乱に導きたくはない。聖女ウルスラと大聖女の座に一緒に立っても構わないし、私は必要ないなら退くつもりだ。
「さて、ここで話していても埒が明かないでしょう。私は大聖堂にお務めに参ります」
「分かった。無理はしてくれるなよ、フィーネ。苦しいなら我々を頼って欲しい。アストライアー侯爵やベナンター準男爵もいよう。己の心に溜め込まず、いろいろと相談しなさい」
私は三代前の教皇さまに頷く。今の状況よりも三年前の時の方が切羽詰まっていた。私が邪魔なら誰かから命を狙われることもあるだろう。暗殺を防ぐためにヴァナルとフソウの神獣さまが一緒にいてくれる。
そうして彼の下から去り大聖堂へと移動している途中、私の目の前に黒衣の枢機卿さまが立っており不敵な顔を向けているのだった。