0910:変化を願う。
今日はナイが休みの日で、俺は用事を済ませるために貴族街の一角にあるとある伯爵家の敷地内にある別館に足を進めた。糊の効いた白シャツとスラックスを着て、いつもの教会騎士服ではないことが少々落ち着かないし、最近俺の肩に乗っているアズ、アズライトがいないことも少し違和感を覚える。
玄関で扉をノックすると、執事が館の中へと招き入れてくれとある部屋に通された。テーブルには老齢の男女が椅子に腰かけ俺を見て深い皺を更に深める。
「よくきたね、ジークフリード」
「ジークフリード、いらっしゃい。今日も私たちの相手をよろしくね」
ラウ男爵夫妻が小さく笑い、客である俺を迎え入れてくれた。客というのはおかしいが、週に一度の俺の来訪を彼らは楽しみにしてくれている。面倒なことを頼んでしまったのに、こうして世話を焼いてくれるのだから良い人たちなのだろう。
俺たち兄妹はラウ男爵家の籍から抜けてしまったが、今までと変わらぬ付き合いをと望んでくれている。孤児上がりの平民騎士を疎まず受け入れてくれるのは本当に感謝しかない。
「いえ、私の方が世話になっている形です。遅くなり申し訳ありません」
俺はラウ男爵夫妻に目線を下げる。時間に遅れてはいないが、先に部屋で待たれていれば頭を下げるしかない。俺は彼らと同じ爵位を持っているが、生粋の貴族と成り上がりの貴族ではやはり格が違う。
「気にしなくていいさ」
「ジークリンデは元気にしている?」
席に腰掛けた俺の顔を見た夫妻が、妹のリンを気遣ってくれる。
「はい。屋敷でナイの……アストライアー侯爵閣下の傍に控えております。いつも通りです」
ナイは休日に屋敷から外に出掛けることは珍しく、基本屋敷の自室でゆっくりと流れる時間を楽しんでいる。今頃、リンも彼女と一緒に同じ空間で休みを満喫しているはずだ。
「そうか。偶には爺と婆の茶飲み相手を務めて欲しいと伝えてくれるかな?」
「不器用で喋らないけれど優しい子よ。きっときてくれるわ」
夫妻が視線を合わせた。ラウ男爵家から籍を抜けて俺たちは自分の貴族籍を持つことになったから、今の俺のようにラウ男爵家にリンが足を向けることは減ってしまった。リンがどう考えているかは分からない。
偶にはナイから離れて、ナイが一人になれる時間を作らないと疲れは溜まる一方だ。本人は気付いていないかもしれないが、限界まで動き続けて疲れを溜めてしまうこともある。いつも誰かが側にいては落ち着くものも落ち着けないだろうから。偶には……な。
「分かりました。次は妹を誘ってみます」
リンが素直に首を縦に振ってくれるのか。ナイが一緒にくるなら迷わず決めるだろうが、俺と一緒にこの屋敷にきてくれるかと問えば微妙な返事をしそうだ。もちろん妹はラウ男爵夫妻に感謝している。三年という短い期間だったが、貴族というものを俺たちに確りと教えてくれたし、ナイが爵位を得てからは護衛の立ち居振る舞い方も仕込んでくれた。妙な相手が主人に絡んだ時の対処に厄介な相手と絡まない方法、本当に二人からは沢山のことを学ばせて頂いたのだ。
俺の厚かましい願いもこうして叶えてくれているのだから、夫妻の小さな望みを叶えるためにも妹を連れてこないといけない。
「さて、ジークフリード。今日も領地経営について学んで行こう。君は吸収が早いから教える私も楽しいよ」
「騎士の道をずっと歩むのかと考えていましたが……でも貴方も爵位を得て領地を賜る可能性があるのです。無駄にはならないわ。詰め込み過ぎは良くないけれど、旦那さまが仰る通りジークフリードは直ぐに覚えてしまうもの。少しつまらないかもしれないわ」
ふふふ、と笑う夫妻に俺はなんとも言えない顔になる。お二人にはどうして俺が領地経営を習いたいと申し出た理由は告げてある。彼らは俺の考えを認めてくれ、こうして当主夫妻から直接教わることになった。
「つまらない、というのはジークフリードに失礼じゃないかな?」
「あら、そういう意図はなかったのだけれど……ごめんなさいね。少しくらい手が掛かる子の方が可愛いもの。わたくしの子供にはできなかったことですしねえ」
貴族が受ける教育は家庭教師が施すものである。夫妻に今回の件を断られたなら、家庭教師を紹介して欲しいと願い出るつもりだった。けれどこうして茶を飲みながら教えを乞うている。彼らの話は理解し易いし、俺が望めば更に詳しく教えてくれるし難しいことも学べる。家庭教師に習っていたのは学院に入学する前の一時だけだから、比べるのはおかしいのかもしれないが……。
「私たちばかり喋っても仕方ない。今度こそ始めよう」
ラウ男爵の声に頷き、真面目に授業を受けることになる。彼らは俺の気持ちを知っている。しかし俺の気持ちが叶うことがない未来があり得ると諭してくれた。俺も勿論、望む未来がこないこともあると覚悟している。
俺だけで決められることではないし、そもそも相手の意志が一番大事だ。もし彼女が望まぬ婚姻を求められた時、俺が手を挙げることができるなら逃げ道を用意してやれる。
そのための爵位を得ることはできた。少し心許ないが、護衛騎士だけの立場より確りとしたものだ。生粋の貴族であれば、俺が今学んでいることは幼い頃から学び身に着けていただろう。だが、その事実に悲観してなにも行動に起こさない方が悪手だ。遅い出発かもしれない。俺の願いが叶わないかもしれない。
この先がどうなるかなんて未知数だけれど……どうか彼女の未来が明るいものであるようにと願うのだった。
◇
――東大陸の共和国に赴いていました。
エーリヒさまから届いた手紙にはそう記されていた。そしてナイさまから届いた手紙にもエーリヒさまが問題解決のため共和国に赴いていたと綴られていたので本当の話である。アルバトロス王国から聖王国へ届いた書状にも同じことが記されており、ナイさまがまたトラブルに巻き込まれて、最後の仕上げをアルバトロス上層部の皆さまが必死に処理をしているようだった。
ただ今回の件を聞く限り悪いのは共和国側なので、エーリヒさまとアルバトロス上層部に心配はしていない。むしろ怒っているであろうナイさまの気持ちが、共和国の大統領さまの胃に直撃していないかなという心配の方が大きかった。
「大丈夫かしら?」
聖王国教会の大聖女に宛がわれた部屋で椅子に腰かけていた私は、手紙を読み終え天井を見上げると自然と声が零れていた。
「どうしましたか、フィーネお姉さま」
部屋にいたアリサが私の声を拾い、不思議そうな顔を浮かべて声を掛けてくれる。私は視線をアリサに向けて息を小さく吐いた。私を見ていたアリサが小さく首を傾げたので、きちんと説明した方が無難だろうと判断する。
「いえ、少しだけ共和国の皆さまに同情を……でも悪いのは問題を起こした本人だから同情する必要がないのかもしれないけれど……」
研修生に寄贈された本を共和国に戻って売るのは勝手――頂いた本を売るのは抵抗があるものだけれど――だが、ナイさまから譲り受けたとなれば少々話は変わってくる。黒髪黒目のお方から頂いたとなれば東大陸では価値が上がるだろう。東大陸で黒髪黒目の人は現時点で確認されておらず、数百年単位で現れていないとか。
東大陸では価値のある方が西大陸のアルバトロス王国に存在していて、とあることが切っ掛けで関わることになっている。ナイさまのお陰もあって聖王国も共和国と関わっているので、彼の国が潰れると利益を得られなくなる。
「?」
「アリサは詳しく知らないものね」
こてんと首を可愛らしく傾げたアリサに笑みが零れた。海を越えた国の話は情報を得辛いのだから、知らないのは当然だろう。
「ええ。しかしわたしが聞いてしまっても良いのですか?」
アリサはアルバトロス王国の王立学院に留学してから随分と物腰が落ち着いた。以前なら問答無用で話を聞き出そうとしていただろうに、自制することができるのは本当に成長した証である。
「構わないわ。共和国もアルバトロス王国も手紙に記された件を広めてくれとお願いされているもの。共和国は王政を執っていないのはアリサは知っている?」
「少しだけ耳にしました。聖王国も特殊ですが、王政ではない国も珍しいですよね」
聖王国は宗教国家だから、アリサの言う通り特殊だ。西大陸の国々も北大陸も東大陸のアガレスも王政制度だから、民主主義国家は本当に珍しい。というか南大陸もほとんどの国が王政を執っていると聞いたので、共和国の文化は進んでいるのだろう。
アリサに分かり易いように順を追って事態を説明すれば、彼女の顔色がどんどん悪くなっていく。おそらく聖王国上層部の皆さまもアルバトロス王国からの情報提供によって事態を知っているから、アリサのようにどんどん顔色が悪くなっただろうと容易に予想がついた。全て説明し終えるとアリサはどっと疲れた様子で口をどうにか開く。
「……そんなことを望んだお方がいたのですね。怖いもの知らずというか、ただの馬……あ、いえ、素敵な夢を見ている方なのだなあと」
「まあ、庇い切れないと判断した共和国は件の人物を本国に送還したから、これ以上悪化することはないでしょうね。次に問題が起こればそれこそ共和国の立場が悪くなるもの。ある程度、問題行動が見逃されていたのは今回が初めての取り組みだからでしょうね」
現場に居合わせていないので安易なことは言えないが、当事者の皆さまは肝が冷えていたことだろう。ナイさまが怒ると怖い。割と容赦のない所がある上に、諸共自爆しても良いと考えていそうなのだ。
おそらくジークフリードさんとジークリンデさんと孤児仲間がいなければ、好き勝手に暴れていた可能性もある。言い方は悪いけれど、ナイさまが大切にしている皆さまは無茶と無謀を起こさないための彼女に付けられた枷だろう。本当に仲間と共に貧民街から生き抜いてくれて良かった。一人だけで生き教会から救い出されていれば、ナイさまは今頃世界征服をしていたのではと思えてしまう。
「耳の痛い話だけれど……進むべき道は間違わないように選ばないとね」
「はい、お姉さま」
私の言葉にアリサが綺麗に笑う。乙女ゲームのシナリオはもう過ぎてしまっている。これからなにが起こるのか未知数だけれど私はこの世界で生きている。ちゃんと前を向いて進んで行かなければならないし、後輩の聖女の育成や教会のこれからも考えなくてはならない。やらなければいけないことが沢山あって大変だけれど、お陰で充実した毎日を送っている。でもまあ、仕事と遊びのメリハリは大事なわけで。
「アガレス帝国の戴冠式が終われば、次は南の海ね。凄く楽しみだわ」
アガレス帝国で皇女殿下の戴冠式がもう直ぐ行われる。私もウーノ殿下から招待状が届いており参加すると返事をした。エーリヒさまとナイさまに再会できるし、東大陸のアガレスで教会を開く手筈にもなっている。
それらを終えれば次は南の島でバカンスに入るのだ。初めて南の島に訪れた時はなにもなかったけれど、亜人連合国のダークエルフさんたちのお陰で寝泊りする場所が完成している。海で泳ぐこともできるし温泉もあるので本当にリゾート気分で遊ぶことができるだろう。みんなが一緒だし本当に楽しみだ。
「しかしお姉さまの珠の肌が陽の光で焼けてしまうのは……」
「大丈夫よ。魔術で解決できるもの。アリサも一緒に楽しみましょうね」
貴族令嬢や聖女が陽に焼けるのは問題がある。白い珠のような肌を信条としているのでアリサは心配になったようだが、この世界には魔術だってあるのだ。問題ないとお互いに笑って、夏に向けた話を広げてみる。さて頂いた手紙の返信にはなにを記そうかと、アリサといつもの日常を過ごしながら、彼と進展できると良いなと願うのだった。