0895:久しぶりの治癒院。
春の陽気が眠気を誘う今日この頃。三年前はヒロインちゃんの突飛な行動に驚いていたと目を細める。学院を卒業して社会人となったから、聖女のお仕事も再稼働というか学院生時代よりも活動時間を増した。
聖女の仕事で開拓費を稼いで領地経営に注ぎ込みたい気持ちがある。もちろん税金を投入しても良いけれど、領地の皆さまから預かった大切な資源を己の趣味や思い付きで使う訳にはならない。思い付きや実験としてやりたいことはポケットマネーから出すと、家宰さまとソフィーアさまセレスティアさまにクレイグと子爵領の代官さまには伝えている。
伝えた皆さまには、良い心掛けだが加減はしてねとお願いされてしまったが。
流石に魔力をぶっ放してしまうとアマゾンのような密林になりかねないので、正攻法で行うのだが……欲望が駄々洩れると叶ってしまう傾向がある。気を付けておかなければいけないが、こればかりはどうしようもない。妙なことになれば領内だけで流通させようと心に決めている。
今日は出掛ける予定があるので、侍女さんたちに聖女の衣装を纏うため介添えをお願いしているところだ。着替えの最中はクロもロゼさんもヴァナルも雪さんと夜さんと華さんと毛玉ちゃんたちは廊下で待機してくれている。
お猫さまが間違えて時折入ることがあるけれど、侍女さんの手に依って追い出されている。ジルヴァラさんだけは嬉しそうに笑って、私の着替えの様子を部屋で眺めているけれど。そのうちジルヴァラさんは介添えもしてくれそうな気配があった。
少し前まで、私が着替えをしている最中は毛玉ちゃんたちが鼻を鳴らして『早く遊んで』コールを廊下で行っていたのに、最近は着替えの時間くらいであれば待ってくれるようになっている。着替えを終えて侍女さんが部屋の扉を開けると、毛玉ちゃんたちが勢い良く走ってきて私の周りをくるくるする姿は鼻を鳴らしていた頃と変わらない。
「開けますね」
着替えを終えて侍女さんが苦笑いを浮かべて扉のノブを握る。お願いしますと伝えると、ドアノブを捻る音が聞こえゆっくりと内側に扉が開かれる。
案の定、毛玉ちゃんたちが一気になだれ込んできて私の周りをくるくると回って、部屋にいる侍女さんたちとジルヴァラさんに『構って!』攻撃を繰り広げていた。毛玉ちゃんたちから遅れること少しヴァナルと雪さんたちが部屋に入ってくる。ヴァナルの頭の上にはロゼさんが乗り、クロは雪さんの頭の上に乗っていた。ヴァナルと雪さんが私の下にくると、ぺたんとお尻を床に付けてお座りをした。尻尾をぶんぶん振っているので、どうやら構って欲しいようだ。
触るよと分かり易く手を下からゆっくりと伸ばして、ヴァナルの顔に触れる。ヴァナルの目元を親指の腹でゆっくり撫でると、目を瞑って気持ちよさそうな顔をしている。右手だけでは物足りないかなと、左手も伸ばして同じように指の腹で撫でるとヴァナルの尻尾が更に揺れていた。雪さんたちも触って欲しそうだし、毛玉ちゃんたちもこちらに気付いて一斉に私に寄ってくる。
みんな触り心地が良いのでずっと触っていたいけれど、時間は無情にも過ぎていく。お迎えである教会騎士服を纏ったジークとリンが部屋の扉の前に立って、私を見ながら苦笑を浮かべていた。
「ナイ、そろそろ時間だ」
「行こう。治癒院参加は久しぶりだね、ナイ」
姿を現したジークとリンに毛玉ちゃんたちが新たな遊び相手を見つけたと、彼らに駆け寄って行く。桜ちゃんが一番に辿り着いてリンに頭を撫でて貰って幸せそうな顔を浮かべていた。そうして楓ちゃんと椿ちゃんもジークに撫でて貰い、松風と早風はリンに撫でて貰って満足したのか私の下に戻ってくる。
今日は午前中に執務室で事務作業を捌いて、お昼から教会が開く治癒院に参加する。プリエールさんたちも後学のために見学を行うそうだ。まだ病気の方々に治癒を施すのは早いので、聖女見習いとして参加ではなく見学になったそうだ。ただ、彼女たちは順調に治癒魔術を覚えているので、そのうち治癒院にも参加することになるだろう。
「ジーク、リン、護衛よろしくお願いします。今日は見学だけれど、忙し過ぎて捌けなくなれば、手伝いをお願いしますって教会からお願いされてる」
私は午後出勤だけれど、ロザリンデさまとアリアさまは朝から参加である。お二人は筆頭聖女候補に選ばれたことで、良い方向で気合が入っているようだ。
アリアさまは私には敵わないけれど、自分でやれることを地道に行って皆さんの役に立ちたいと気合を入れていたし、ロザリンデさまは以前より魔力量が上がっているので一日治癒院に参加しても魔力が枯れないと零していた。ロザリンデさまも私には敵わないけれど、聖女業が楽しくなっているので続けていきたいと仰っている。
真っ直ぐなお二人には負けていられないので私も頑張らなければ。侯爵位となったので治癒院に参加もなかなか難しくなっているが聖女の称号も保持したままだ。
治癒院へ来院した皆さまに嫌がられない限りは、聖女として参加したい気持ちがある。治癒院が忙しいイコール大変な思いをしている方が多いということなので、こんなことを望んでしまうのはおかしなことかもしれないが。
自室から廊下に出ると、ロゼさんとヴァナルと雪さんたちと毛玉ちゃんたちが私の影の中に入る。彼らに予定は伝えてあるので、お屋敷の中で自由に過ごすこともできるのだが一緒にくるようだ。外に出ると大騒ぎになるので出られないけれど、毛玉ちゃんたちは外に興味深々だし、ヴァナルと雪さんたちは仔たちになにかあった時のためについてくるのだろう。
見送りの侍女さんたちと、エルとジョセとルカとジアと番の竜さんたちとグリフォンさんと行ってきますの挨拶をする。卵さんは私のお腹の位置にあった。大きさは変わっていないが、グリフォンさん曰く順調らしい。
副団長さまとディアンさまとダリア姉さんとアイリス姉さんとお婆さまも『特に問題はない』と仰っていたので大丈夫なはず。彼らは更に劇的な変化が起こらないかと期待していた。また卵さんが分裂するとか騒ぎになるだけなので勘弁して欲しい。ソフィーアさまとセレスティアさまはお昼で仕事を終えて、それぞれのお屋敷に戻っている。
「ジークとリンは大変だけれど、偶には馬車移動も良いかも」
子爵邸の玄関前で私がぼやけば、ジークとリンが苦笑いを浮かべている。最近はロゼさんの転移に頼り切りなので、ゆっくりと王都の中を移動するのも悪くない。ジークとリンは徒歩移動だし、周囲に気を張らなければならないから大変である。乗り合い馬車で学院まで通っていた頃が凄く懐かしい気持ちになってしまった。
「ゆっくりできる時間もないとな」
「警備は任せて」
ジークとリンが私を見下ろしながら微笑む。短い移動時間だけれど、馬車の中は他の人の目がなくなる。もし寝落ちしても、ジークとリンにクロとロゼさんにヴァナルと雪さんたちと毛玉ちゃんたちに知られるくらいだから問題が少ない。確かに堂々とぼけーとできる時間だとジークとリンに感謝する。
「二人とも、ありがとう」
お礼を伝えて、リンのエスコートを受けて馬車に乗り込む。席に腰を下ろすとクロが顔をすりすりと擦り付けていると、かくんと小さく馬車が揺れて子爵邸の馬車回りを出ていく。正面門を抜けて貴族街の道を進み、外の景色を暫く楽しんでいると教会に辿り着いた。降りる時はジークのエスコートを受けるのだが、遠くからこちらを見ていた王都の皆さまが『黒髪の聖女さま!』『邪竜殺しの英雄!』と盛り上がっていた。
護衛の皆さまが控えているので彼らを出し抜いてこちらにくる猛者はいないけれど、少々気恥しい。ジークとリンも黄色い声を浴びているのに動じた様子はない。顔に気持ちが出ないのは羨ましい限りだとそっくり兄妹の顔を見上げた。
「早く教会の中に入ろうか」
「だな。行こう」
「変な人はいないけれど、騒ぎになる前に入ろう」
ジークとリンに守られながら教会の中へと足を進める。平民と貴族では天と地ほどの差があるため、黄色い声を上げている方々に手を振って答えることはない。おそらく建国祭の陛下と一緒に王都の皆さまにご挨拶をする時くらいではなかろうか。教会の扉を入って直ぐ、見知った二人が私のお迎えを担ってくれるようだ。
「アストライアー侯爵さま。ようこそ教会へ」
「陞爵、おめでとうございます。侯爵閣下」
シスター・ジルとシスター・リズが恭しく私に頭を垂れる姿に違和感を覚えてしまう。ゆっくりとお二人が頭を上げるのを待って私は口を開いた。
「シスター・ジル、シスター・リズ。ありがとうございます。可能であれば、私的な場では以前のように接して頂けると嬉しいです」
シスター・ジルとシスター・リズにはお世話になっていたから、できれば今まで通りに接して欲しい。とはいえ侯爵位を持つ人間に私的な場であってもなかなか難しいような気もする。私が二人の立場になれば『え、無理』と言いたくなる。
「善処いたしますね」
「なかなか難しい注文ですね」
二人から返ってきた声を聞き、やはりかと苦笑いを浮かべた。致し方ない部分かなと考えながら治癒院を開いている部屋へと案内して頂いた。
治癒院は毎度のことながら盛況で、王都の皆さまが多く来院されている。病気であったり怪我であったり、いろいろな症状の方がいるはず。聖女さま方が治癒を施している手前の部屋で、人がごった返している部屋を覗いていた。
聖女さまがいらっしゃる所にはロザリンデさまとアリアさまがいて、手際よく患者さんに治癒を施している。アリアさまもロザリンデさまも何度も治癒院に参加しているので慣れたものだ。先輩面ではないけれど、アリアさまが討伐遠征参加が初めての時にアドバイスをしたし、ロザリンデさまともいろいろあった。
私たちがいる部屋の少し離れたところでは、共和国の研修生たちが騒がしい治癒院の様子に驚きながらも、確りと聖女さま方の動きを目で追っている。プリエールさんも夢中で覗いており、私がやってきたことに気付いていない。邪魔をしては悪いから閉院してから声を掛けようと、隣の部屋に視線を戻そうとした時だ。
ふいに共和国の研修生の一人と視線が合った。流石に無視を決め込むわけにはいかず目礼を執る。確か彼女は副団長さまに黄色い声を上げていたうちの一人で、歓迎会の際に私に声を掛けてきた人だ。見学中にこちらへとくる気はないようで、相手の方は直ぐに視線を戻した。
視線が合ったのは偶々かなと気を取り直して、シスターと神父さまに『ヘルプに入って良いですか?』と許可を貰いに行くのだった。