0887:新天地での生活。
朝。借りている教会宿舎の自室の扉をノックする音が響きました。なにも問題はないので『どうぞ』とわたしが告げると、下働きの女性が顔を出してにっと笑顔を浮かべます。
「プリエールさんや、そろそろ時間だよ。体調は大丈夫かい?」
「はい! 体調はばっちりです。今、行きますね!」
豪快な声に私は答えて、外に赴く準備をしなければと座っていた椅子から立ち上がりました。共和国からアルバトロス王国へ研修に赴いて、既に十日も時間が経っています。
初日にアルバトロス王国の方々とのご挨拶を行いましたが、恐れ多いことにアルバトロス王との拝謁を賜ることができました。私と一緒に赴いた皆さまも凄く緊張したご様子で陛下との対面を済ませ、寝起きの場となる教会宿舎に赴いて荷物を纏めたのです。
皆さん、異国の地で未知の技術である『魔術』をきちんと習得できるのか、不安と希望を抱えながら荷解きを終えました。共和国からやってきた研修生十名と教会宿舎に住まう皆さまとの共同生活となりますが、部屋は個室となっているので個人的な空間をご用意くださったことには感謝しなければならないのでしょう。
初日の夜は教会の一室で歓迎会を開いて頂き、お世話になる方々とご挨拶を交わしました。その中にはミナーヴァ子爵さまもいらっしゃって、時折私たちの授業を見学することになったと教えてくださったのです。
貴族の方がどのような仕事をなさっているのか分かりませんが、きっとお忙しいはずなのに私たちにまで気を配ってくださるとは。お世話になるのは共和国の者だというのに、いろいろと気にかけてくださって『不便があれば教えてくださいね』と仰ってくれたのです。
子爵さまはマメな方だなあと心の中で囁けば、不穏な視線を感じ取りました。
私たちと行動を共にする研修生の方々からのものです。研修生候補の選出は国外に赴き魔術を習うことに抵抗のない者と共和国上層部から指定され、アルバトロスに赴いて技術を習い芽が出なくとも『薬草学』を学ぶと通達されておりました。魔力が多く備わっていても適性がなければ治癒魔術を扱うことが不可能となるので、一年間を無為に過ごすよりも別の方向で学べるようにとアルバトロス側から提案があったそうです。
そうして選出された一期生十名は全員が女性という結果となり、富める方々のグループと私たちのグループに別れてしまいました。共に行動をすることもあまり良く思われていないようで、富める方々のグループからは厳しい視線を向けられてしまうのです。富める者と貧しき者と分けられているので仕方ない部分もありますが、この一年という時間で皆さんと打ち解けられることを願わずにはいられません。
アルバトロス王国の皆さまにご迷惑を掛けることにならなければ良いのですが……少し心配をしております。
二日目は休養日とされ三日目はアルバトロス王都の街へ繰り出して、商業地区を案内して頂き日用品の買い出しやおすすめの食堂の紹介などを受けました。
勉強ばかりでは息が詰まるだろうと自由時間も設けてくださっておりますし、共和国政府の皆さま方の私財から私たち十名にお小遣いを頂いております。無駄に消費できないですし、アルバトロス王国で過ごす最後に、お世話になった方々に贈り物を買うための資金に充てようと決めました。
アルバトロス王国の王都は、共和国の首都よりも古い街並みですが、人々が多く行きかい活気があります。お店のご主人の呼び込みの声や、元気に走っている子供の声に女性の皆さまが輪になって楽しそうにお話をしている姿。共和国の街中も賑やかですが、異国の地の雰囲気は母国と少し違っていて新鮮でした。
四日目には初めて授業に参加して、魔力を体の外へ出す感覚と魔力を掴む感覚を覚えたのですが、教師の神父さまは私たちの筋が良いと褒めてくださいました。他の方々がどのように魔力の感覚を掴んでいるのか分かりませんが、褒めてくださるとやはり嬉しいです。あまり言いたくはありませんが……貧民の癖に、と厳しい視線を向けて罵られることもありません。
とはいえアルバトロス王国も平民の方々と貴族の皆さまにはっきりと別れております。きちんと振舞わなければ、問答無用で斬り殺されることもあるそうです。
共和国では誰かを殺めると罪に問われ罰せられますが、アルバトロス王国では貴族の方が平民を斬るのは問題はないそうです。悪評が立つこともあるので、そうそうないと教えてくださいましたが忠告されたということは気を払えということなのでしょう。
覚えなければならないこと、やらなければならないこと、気を付けること、やりたいこと……沢山ありますが、一年間を通してじっくりと学び、共和国で治癒師として道を立て政治家を目指せればと考えております。だから、今日も頑張らなければと両手を使って頬を叩き気合をいれました。
「みんな、早くしなー!」
先ほど、わたしを呼んでくれた下働きの女性が階下から大きな声を上げました。どうやらわたし以外にも準備をしている研修生が部屋にいるようです。
今、わたしが借りているお部屋の前の前の主はミナーヴァ子爵さまだったとお聞きしました。教会の聖女として貧民街から拾われ、魔力の多さと平民の皆さまに気さくに接して『黒髪の聖女』と二つ名を頂いたそうです。
三年前、とあることが切っ掛けでご活躍し、アルバトロス王国の貴族位を賜ったと下働きの女性が教えてくださいました。貴族出身の方で若くして当主の地位に就いたのだろうと考えておりましたが、身ひとつで今の地位を得たと。わたしにそんな才能はありませんが、以前の部屋の主さまに恥じないように進まなければと再度気合を入れて……。
「はーーいっ!」
と、大きく返事をして、部屋を出て階段を降りて行きます。今日は教会騎士団の訓練場に赴いて、治癒魔術の練習を執り行います。教会騎士という身内だから、失敗しても痛くしても問題はないとシスターさんが仰っておりましたが本当に大丈夫なのでしょうか。少し心配になりながら、他の方も合流して用意して頂いた馬車に乗り込み教会騎士の訓練場へ向かいます。
訓練場広場には教会騎士の方が大勢集まって、木剣で模擬戦を繰り広げていたり、徒手格闘戦を執り行っていて活気が凄くありました。聞き慣れない野太い声が上がり、励ます声や助言を述べている声に野次が飛んだりといろいろです。
時折、土煙が上がって模擬戦が本番さながらな様子で、少し驚いてしまいました。広場の片隅にはシスターと年配の聖女さまが控えております。おそらく彼女たちは騎士さま方の手当を担うのでしょう。
私たちの到着と同時に教会騎士のリーダーさんがやってきて、挨拶をくださいました。酷い怪我を負えば教会の聖女さまかシスターに治癒を申し出るけれど、軽い怪我であれば放置して治るまで耐えるそうです。今回は軽い怪我を私たち研修生が治すので有難いとリーダーさんは笑みを浮かべます。そうして私たちも彼へ頭を下げました。理由はどうであれ、お世話になるのは私たちなのですから。
「今日はよろしくお願い致します。まだ魔術に慣れていなくて、手間取ることもありますが精一杯務めさせて頂きます!」
「ええ、話は聞き及んでおります。急ぐ治療ではありません。ゆっくりで良いのでよろしくお願い致しますね」
酷い傷や怪我であればきちんと経験を踏んでいる方にお任せする、と話を聞いています。私たちも誰かに術を施すのは初めてですし、一番簡単な初級の治癒魔術しか教わっておりません。
手順を追って慣れて行き場数を踏んでから次へ移行しましょうね、と魔術師団副団長さまが仰っておりました。彼は私に魔力が多く備わっていると見抜いてくれた方ですが、なにを考えているのか分からない時があります。
ミナーヴァ子爵さまと懇意にしているようなので、妙な方ではないのでしょうけれど……ああ、駄目ですね。少しのお付き合いしかしていないのに、こうして判断するのは良くありません。誰にも分からないように小さく頭を振っていると、ふいに人影が差しました。
「少し時間が空きましたのでお邪魔させて頂きます。今日もよろしくお願い致しますね」
心の中で噂をしていれば、ご本人が登場なさったので胸の鼓動がばくばくと跳ね上がります。少し前までいらっしゃらなかったのに魔術師団の副団長であるヴァレンシュタインさまはいつ現れたのでしょうか。
先日の初授業の時と同じく、にこにこと掴みどころのない笑みを浮かべて私たち研修生に礼を執っています。銀糸の長い髪と金色の瞳が陽の光に透けて、美しい一枚の絵画を見ているような錯覚を引き起こしました。私の近くでは研修生の『きゃあ!』という黄色い声が上がり、特に富める方たちが嬉しそうに声を上げて頬を染めていました。
凄く格好が良くて品のある方ですから、彼女たちが盛り上がるのは致し方ないのでしょう。でも私たちは魔術の研修を受けにきた身です。共和国とお世話になっているアルバトロスの方々の期待を裏切らないように努めなければなりません。
よし、とまた気合を入れて、借りた魔術の教本を手に取って復習を始めました。私の出番は軽い怪我を負った騎士さんがやってきた時のみ。私と一緒の馬車に乗っていた方たちも揃って教本を開き、文字を目で追っています。初めて誰かに術を施すので、皆さんも私も緊張しているようでした。
「あまり気を張ると失敗してしまいますよ。まだ初手の段階です。術を受けた方に影響を及ぼすことはありませんし、慣れも必要となります」
副団長さまが、一年間という期限付きなので焦る気持ちも理解できますが時間は十分取っていますのでゆっくりいきましょうと仰ってくださいます。まだにこりと笑みを浮かべたままですが、私たちの心を軽くしようと気遣ってくれていました。先ほどは失礼なことを考えてしまったなと反省しながら、手当を望む騎士さんに魔術を施します。緊張して胸が煩さかったのですが、どうにか騎士さんが負った擦り傷を綺麗に治すことができました。
病気を治すための魔術は怪我を治すより難しいと聞いています。いずれ、教会が開いている治癒院へ赴き、病気の方に治癒を施すそうです。その時にきちんと対応できるかどうかが、治癒師としての分かれ道なのだとか。確りと基礎魔術に慣れて、次の段階に取り掛かれるようにと並んでいる騎士さんたちの傷を順に治していくのでした。