0853:怒った気持ち。
俺の上司である家宰殿に戻ると告げた時間には、もう少し余裕がある。少し熱くなってしまった頭を冷やそうと庭に出ていた。
ナイが適当なお陰で、使用人でも誰でも庭をウロついても構わないと通達されている。天気が良い日には、侍女の人たちが休憩時間に東屋を使って茶を楽しんでいることもあった。厳しい貴族家で働く者たちは、庭に出ては駄目だと言い含められている所もあるらしい。貴族の当主と下の者との関係をあまり気にしないのがナイである。
もう少し屋敷で働いている連中には厳しくしても良いのではと思うこともあるが、不満らしい不満の声は聞いたことがない。あるとすれば女性陣から『太ってしまった』と小耳に挟むくらいである。声に上げてはならないし、耳に挟んだことも墓まで持っていくつもりだが。
「ったく、なんだよ。なにも持ってねえから『ナイ』って付けたって……」
はあ、と盛大に溜息を吐いて誰もいない東屋の椅子に腰かけた。ナイと初めて貧民街で出会ったとき、取っ組み合いの喧嘩になった。
理由は俺が彼女の食料を奪おうとしたのだから完全に俺が悪いけれど、ナイもナイで諦めの悪い奴だった。殴っても諦めないし、痛いはずなのに弱音も吐かない。チビの癖になんだコイツと心底腹が立った。貧民街の子供の中で俺が一番に力が強く、腕っぷしでどうにかしてきた。そして力で伏して徒党を組んでいた。なのにナイは俺の力に屈することもなく、逃げもせずがむしゃらに立ち向かってきたというのに。
「なにも持ってねえ、なんて嘘だろ」
ナイは貧民街で生き抜くための知恵と度胸は持っていた。俺より強かで、頭の回転が良くて、大人を相手に取引もできていた。今思えば、前世という記憶があるからだと思えるが、当時の俺はナイに嫉妬のようなものを抱えていたのだろう。それがいつの間にか、仲間の絆となっていたのだから不思議なものだ。
「クレイグさん?」
俺の名を呼んだ人物へと顔を向ける。そこには金糸の長い髪を揺らし小さく首を傾げているアリア・フライハイト嬢が立っていた。子爵家の別館で暮らしているから庭にいてもおかしくないが、どうして俺に声を掛けたのだろう。接点らしい接点はないし、彼女が別館で暮らことが決定した際に挨拶を交わしたくらいなのに。
「え、あ、ああ。どうも」
とりあえず、失礼になってはいけないと椅子から立ち上がる。俺も貴族の仲間入りを果たしているが、生粋の貴族というわけではない。
爵位は同じであれど、純粋なお貴族さまには敵わないし彼女は聖女の地位もある。リーム王国の聖樹に魔力補填を施したこと、王太子妃殿下の妹さまの傷跡を綺麗に癒したこと、実家で天馬さまが居着いていることが評価されており、アルバトロス王国の若手聖女の中でも頭一つ抜けている人だ。……ナイはぶっ飛び過ぎているが。
「すみません、お邪魔でしたか?」
「いえ。少し風にあたりたかっただけです。俺は屋敷に戻りますね」
俺はナイの言葉に腹が立っただけである。本気で怒っているわけでもなく、ナイのあの言葉が自分の中で呑み込めなかっただけの話だ。子供じゃああるまいし女々しく考えても無駄だと、彼女に頭を下げて場を去ろうとした。
「あ、あの! なにかあったのですか? 失礼かもしれませんが、いつものご様子と違いましたので……」
胸に手を当てた彼女が去ろうとした俺を引き留めた。どうやら俺の顔に機嫌がありありと出ていたらしい。
「……俺、そんなに分かり易いですか?」
ナイじゃあるまいし、と微妙に顔が引き攣った。アイツ、身内の間だと感情が駄々洩れである。そりゃ全てを見せていないけれど、飯は幸せそうに食うし、腹が空けば元気がない……あとは、なんだ……料理長が飯を作っているところを時折凄く嬉しそうに覗いている。
「そういうわけではありませんが……普段より元気がないな、と」
「病気とかではないです。ただ、ちょっと腹が立つことがあっただけで」
あれ……俺なんで目の前の子に自分の内心を語っているのだろう。いつもなら、あまり知らない相手には誤魔化して場を去っているのに。
「怒っているのに、元気がなかったのですか?」
「あ……まあ、それはそうですね」
しまった、気を抜いていたのか。彼女に矛盾を指摘されても致し方ないと後ろ手で頭を掻く。待て、この状況不味いな。貴族の年若い男女が二人でいるのは頂けない。目の前の彼女は俺に気を取られていて気付いていないし早く場を去らないと。
「心配してくださってありがとうございます。俺はこれで失礼します」
フライハイト嬢に頭を下げて東屋を今度こそ後にした。ナイが皮肉で名前を付けたことは俺がどうこう言えることじゃない。
腹が立ったのは、いつまでも俺たちを子供扱いしていること、自分は二の次にするところにだ。貧民街でも、ナイは自分より俺たちのことを優先させようとしていた。ナイの賢しさがあれば、アイツ一人でとっとと貧民街を抜け出ていただろう。でも、俺たちがいたから。俺たちがちゃんと生きて行けるようにと、ずっと一緒にいてくれた。
――どう報いれば良いのだろうか。
独り立ちすれば、仲間だった関係は薄れていくはずだった。でも、今でも途切れていない。それは、俺にとって喜ばしいことであるが、ナイには重荷になっているのではと時折考えることがある。でもアイツの場合……なんてことはないと笑って、俺たちをずっと引っ張って行ってくれるのだろう、という確信めいたものもある。
「本当に馬鹿だよ、ナイは」
歩きながら一人言葉を零して、仕事に戻るのだった。
◇
クレイグが部屋から出て行って少し時間が経っている。微妙な空気が流れたまま、サフィールとジークとリンと私に、クロとロゼさんとヴァナルと雪さんと夜さんと華さんに仔たち五頭で他愛ない話を続けていた。
「へくしょいっ!」
鼻がむずむずして、くしゃみが出てしまった。寝ていた仔たちがぴくん、と身体を動かして顔だけを上げ私を見たあと、またすやすやと眠りに就く。
サフィールが抱いたままの赤子も彼の腕の中で気持ちよさそうに眠っているのだが、寝返りやハイハイはできるのだろうか。目が覚めたらちょっと試してみるのもアリだなあと、サフィールに視線を向ける。――あとで、もう少し先の話と言われてしまったが。
「ナイ、大丈夫?」
サフィールが片眉を上げて軽く笑う。私がくしゃみをしても赤子は起きる様子もないので、寝入っているのか、耳が遠いのか。小さいからこういうことは大きくならないと分からないし、本当に赤子の成長を見守るのは難しい。
「うん、平気。あと失礼しました。誰かが噂しているのかな……」
ずびっと鼻を啜って笑えば、ジークとリンは大丈夫かという顔になっている。肩の上にいるクロは、ぺたんぺたんと尻尾を私の背中に打ち付けていた。
「ナイの噂はひっきりなしにされていると思うよ?」
「じゃあ、悪口か」
私の噂をひっきりなしにされても困るし、もしそうであれば四六時中私はくしゃみをしていなきゃいけない。私の噂よりも、悪口を言われる方が気楽だ。私のことが嫌いであれば、お互いに距離を取れば問題ないのだから。
「そうは言っていないけれど」
困ったように笑うサフィールに、丁度良いかと聞きたいことを聞いてみることにした。
「ねえ、サフィール」
「うん?」
「クレイグがさっき怒って、部屋から出て行ったでしょ?」
「そうだね。クレイグのことだから引きずらないと思うけれど、どうしたの?」
サフィールは、明日には機嫌が直っているんじゃないかなと柔らかい声色で言う。ゆらゆらと身体を揺らしながら寝ている赤子を抱いたままの彼の顔は二年前より幼さが抜けている。ジークとリンも顔立ちが更に確りしているし、背も伸びている。
変わらないことなんてないけれど、私の身体の成長が鈍いことでみんなに置いていかれているように感じることもあった。
「私は、自分のことを後回しにしているつもりなんてないけれど……クレイグはそう感じてたってことだよね。子供扱いするなって言っていたし」
むー、と私の口が伸びるのが分かる。まさか自分で皮肉った名前を付けたことで、誰かが怒るなんて全く考えていなかった。
「クレイグは僕たちの中で一番気が強いし、自立心も高いからね」
貧民街で私たちと合流して、しばらく時間が経った頃、ご飯を調達できる回数が増えたことをクレイグはリーダーとして思い悩むこともあったらしい。女に負けた、と零したこともあったとか。そうして暫く一緒に過ごして、ジークとリンも仲間に加わった。
「子爵家で働かせて貰っていることは感謝しているよ。お給金も良いし、一緒に過ごしたみんながいるから毎日が楽しいよ。でもナイは当主として頑張っていかなきゃいけないでしょ?」
沢山背負わなきゃいけないものもあるし、無茶はしないで欲しいとサフィールが告げた。そしてクレイグも同じことを伝えたかったのかもしれないよ、と小さく笑う。そしてジークがいつの間にか私の隣に腰を下ろして、顔を覗き込んでいた。
「ナイ。ナイはずっと俺たちを引っ張ってくれている。俺たちより知識と経験があって、そう立ち回ってくれたことを分かってる。背負ったものが重ければ教えてくれ。頼りないかもしれないが、ナイが重いと感じたものを肩代わりすることくらいできる」
「私はナイの手を引っ張ることは難しいけれど、手を繋いで一緒に歩くことはできるよ。頼りないかもしれないけれど……」
リンも私の隣に腰を下ろして、少し泣きそうな顔で告げた。
「ありがとう。側にいてくれるだけでも十分だから。家族って良く分かっていないけれど、みんなのことは大切な仲間で家族だって思ってる。だから一緒にいられるなら、ずっと一緒にいたいんだ……」
横からリンの腕が伸びてきて、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた。いつものことだけれど、万力で締め付けられているような気がするのは、気のせいではない!
「リン! 強い! 力、強いから!! 締まる、締まるっ! 締まってるぅ!」
私が声を上げたことに、仔たちがぱちっと目を覚ましてどうしたどうしたと私とリンの周りをくるくる回り、気がすむと匂いをすんすん嗅いでいる。
「あ、ごめん……ナイ」
「ふひぃ……リン、前より力が強くなっていない?」
リンの力を緩めた腕に手を添えて彼女の顔を覗き込む。ここ最近で一番キツく抱きしめられたのだが、前の遠慮のない抱擁より力が強くなっていた。
「ナイが可愛いから仕方ない」
ふふふ、と笑うリンの膝の上に乗せられて、私のお腹に彼女の腕が回る。そうして目敏く黄色ちゃんが私の膝の上に乗って、顔をべろべろ舐めてくる。
ついでとばかりに赤色ちゃんと白色ちゃんも、せっせとどこからともなく顔を近づけてぺろぺろ攻撃が始まった。青色ちゃんと緑ちゃんは、首をこてんと傾げてくすぐったいと笑う私を見ている。ヴァナルと雪さんたちは助けてくれないし、リンはペロペロ攻撃を受けていない。何故、理不尽に私だけが……とジークに助けを求めた。
「すまん、耐えてくれ」
「酷い!」
さっきカッコいいことを言っていたのに、見捨てられた! と声を上げると、ヴァナルがようやく私を助けてくれるのだった。