0851:ご紹介。
翌朝。――警戒されているなあ。
女の子の姿を見て、まるでハリネズミのようだと苦笑いになる。赤子は少しざわついている子爵邸の玄関前ですやすやと眠っており、肝が据わっているなあと感心していた。ホールでみんなに彼女たちを紹介しなければ、と屋敷の中に入ろうとして大事なことを思い出す。
「あ、そうだ。もう一度自己紹介するね。ナイ・ミナーヴァです。説明を受けていると聞いたけれど、ミナーヴァ子爵家の当主を務めております。貴女の名前を教えてください」
私はまた名乗りを上げる。C国で自己紹介したけれど、少女が名前を教えてくれることはなかった。彼女の名前を知っているけれど、出来ればきちんと名乗ってから私も彼女の名を呼びたい。
子爵邸で働く方々が固唾を飲んで見守っている。少女の態度次第で、彼らも彼女との付き合い方を考えなければならず『名乗って!』『生い立ちを考えれば仕方ないが、状況を受け入れろ』と言いたいのだろう。
「…………アンファン……。先生が付けてくれた」
「そっか。貴族の家だから、守らないといけないことが多いけれど、慣れると過ごしやすいはずだよ。邸で働く人たちにアンファンと赤ちゃんのこと紹介するね」
むすっとした顔のままアンファンは名乗ってくれた。少し関係が前進したけれど、彼女の姿を見た周りの皆さまが『ひっ!』と声を飲む。おそらく彼女が私に対して敬語を使っていないことに、内心冷や汗を掻いているのだろう。
立場の教育はもう少し先だし、家宰さまにお願いして簡単な教育を受けられるようにしなければ。一通りの教育を終えれば、子爵邸で働きつつ彼女にやりたいことができたならば、進みたい道に進めば良い。
ご機嫌な副団長さまとお婆さまとエルたち家族がやってきて、エルとジョセとルカとジアがこちらへ歩いてきた。エルがアンファンと私を見て目を細めながら口を開く。
『ご挨拶をさせて頂いても宜しいでしょうか?』
「うん。お願いします」
許可を得れば、エルとジョセが二頭並んでアンファンの前に立つ。驚かれないようにゆっくりと視線を合わせて、いつものように天馬のギャブリエルとジョセフィーヌと名乗り、後ろで変顔を披露している息子と落ち着き払ってこちらを見ている娘も紹介している。
アンファンは天馬さまの存在を知らず、目を白黒させていた。翼が生えた喋る馬は珍しいようで、カチコチに固まった。
『驚かせてしまいました……』
『申し訳ないことを。今はまだ周りの皆さまが怖いのかもしれませんが、私たちは貴女と仲良くしたいのです。それだけは覚えていてくださいね』
エルとジョセが少し気落ちし、変顔を披露していたルカが鳴りを潜め、ジアは隣のお兄ちゃんになにをしているのやらと呆れている。ではまた、と言って去っていくエルたち一家に後でフォローを入れようと、クロの顔を見ると確りと頷いてくれる。
「中に入ろう。お婆さまと副団長さまはどう致しますか?」
「僕もお屋敷の中に入れて頂けると。産まれた仔たちの状態を見届けたいですし」
『私は戻るわね~代表たちに魔術師の魂がどうなったか教えなきゃ!』
副団長さまもお婆さまも自由気ままである。分かりましたと返事をすると、お婆さまはぱっと光って消えた。またアンファンが目を白黒させながら硬直して口をはくはくさせている姿に、子爵邸の皆さま一同『そうなるよな』『そうなりますよね』という顔をしている。
私は解せないけれど、いつの間にか不可思議生物が増えていたのだから仕方ない。というか、天馬さまと妖精さんで驚いているけれど、玄関を抜け中に入ったら彼女はどうなってしまうのか。少し心配になりつつ慣れて頂くしかないので、腹を括って歩を進めた。
「以前に通達しておりますが、今日から子爵邸に新たな仲間として加わります。特別扱いは求めておりません。自己紹介、できますか?」
こうしてアンファンと赤子を紹介をしている時点で特別扱いである。アガレス帝国の奴隷を引き取ったこともあるけれど、直ぐに託児所の皆さまに預けた。
今は文字も書け、簡単な計算もできるようになっている。時折、子爵邸の仕事を手伝っているので、この二年で彼らは成長した。春を迎えれば、子爵領へ移り住み田畑を得て仕事を始め自給自足の生活と少しの現金収入で生計を立てる。慣れない野良仕事を担うようになるけれど、領の方々の支援を受けられるので大丈夫だろう。
――って、今は目の前のことを。アンファンは緊張した様子で、目前に並んでいる大人たちを見ていた。大丈夫、と彼女の背中に手を当てて、半歩前に進ませた。
「アンファン、です。よろしくお願いします」
名前を言い、小さく頭を下げた彼女に安堵する。アンファンは私に対して憤りを抱いているようだ。そうであれば最悪は彼女と私が顔を合わせなければ良いだけ。子爵家で働く方たちは、自分の仕事に誇りを持っているから彼女と揉めたりしないだろう。とりあえず、アンファンは若手の侍女の方に預けて一旦別れることになる。
「では、彼女をお願い致します」
「承知致しました。――さあ、部屋に案内します」
侍女さんに連れられて、一つ頷いたアンファンは私に背を向けて廊下を進んで行き、少し遅れて護衛の男性も歩いて行くのだった。
◇
長い廊下を進んで行く。わたしの前には女の人が、後ろには男の人が付いている。
きょろきょろと周りを見渡していると、なにかがぱっと光ってぱっと消えた。驚いたわたしはびくっと身体を揺らしてしまう。そうすると前を歩いていた女の人がわたしに振り返り、小さく笑った。
「妖精だよ。このお屋敷には妖精が住んでいるの。最初は驚くけれどじきに慣れるから。他にも沢山驚くかもしれないけれど……慣れるから。うん、慣れは大事だね」
にこりと笑う女の人がなにを考えているのか分からず警戒してしまう。貧民街でわたしに笑みを向ける人はいなかったし、黒髪黒目の子供の前では丁寧な言葉使いだったのにわたしの前では口調を変えていた。きっとなにか裏があると私の服や小物を入れた鞄をぎゅっと抱いて、彼女に視線を合わせた。
「緊張してるかな? 知らない人ばかりだから仕方ないけれど、ご当主さまに失礼な態度を取っちゃ駄目。貴女の事情はみんな知っているから最初はそれで良いかもしれない。でも、今のままの君だと周りの人たちから反感を買うことになる」
そんなの言われなくても分かっている。今のままじゃ駄目だって。でも、あの子供は先生を殺したんだ。だからわたしを保護するというなら、子供を利用すると決めた。貧民街の大人たちのようにへらへら笑って、お金持ちの子供に媚びを売るなんてできない。
以前、お金持ちの子供が貧民街に住んでいた人たちに『犬のように媚びを売れ! 僕を満足させることができれば金をやる!』と、護衛を連れてやってきた。大人たちはお金をくれる、という一言で目の色を変え、良い服を着た子供にへこへこしてお金を貰っていた。わたしは物陰で様子を見ながら、あんなみっともないことはできないと場を去った。
あの時見た大人たちのように振舞えない。
これからわたしはこの家で過ごすことになっている。勉強を受けつつ、子供たちの世話や簡単な仕事に従事するって教えて貰った。赤ちゃんは大人の人が責任を持って育てると聞いている。先生の子供を取られてしまった。先生がわたしに赤ちゃんを任せてくれたのに……。
「ここが君の部屋だよ。最低限の必要な物はご当主さまが用意してくださっているわ。もし足りない物があれば、こちらで用意するから教えてね」
開かれた扉の前に立つ。中にはベッドと机と衣装箪笥が置かれていた。先生が取っていた宿の部屋より狭いし、飾り気のない部屋だ。入って、と促されたわたしは部屋の中へと足を進める。
「さて、お屋敷で過ごす注意事項を伝えるね。二階はご当主さまたちが生活なさっているから、上がっちゃ駄目だよ。――」
他にも一階にも立ち入り禁止の場所があって、食堂と来賓室とサロンには入ったら駄目と教えられる。図書室は本来入れる場所ではないけれど、子供の厚意で解放されているのだとか。わたしには、この家のどこにどの部屋があるのか分からず首を傾げていると、女の人が後で案内すると笑って教えてくれた。
「場所を覚えるのは大変だし、他の貴族家と違う施設があるから、子爵邸が一般的な貴族家と同じと思わないでね……?」
苦笑を浮かべた女の人が荷物をベッドの上に置いてと指示を出し、わたしの背を押して部屋の外に出た。廊下を歩いて、食堂――子供が使う食堂とは別の場所――とお手洗い場に生活に必要な場所を一通り教えてくれる。そうして庭に出ようとした際、黒い猫が目の前を横切り、何故かくるりと身体を返してわたしたちの前で止まる。
『なんだ、新人か?』
機嫌良さそうにゆらゆらと揺れる尻尾は三本生えていた。え、普通の猫は尻尾は一本だ。初めて、尻尾が三本も生えている猫を見た。
「あ、お猫さま。はい、新しく子爵邸に入った子です。ご当主さまから聞いていませんか?」
『最近、上階は危険が一杯なのだ! ペロペロと我を舐めるのは嫌なのだ! だからあ奴とはなかなか喋っておらん。ちと、寂しい……美味しい焼き魚を強請れない!!』
ゆらゆらと揺れていた尻尾が力なく床に垂れるし、猫の顔も下へと向いた。
「あ……そうでした。お猫さまが美味しいお魚を食べたいと仰っていたこと、ご当主さまにお伝えしておきますね」
『本当か!?』
女の人が猫に声を掛けると、黒い猫はぱっと顔を上げて尻尾が三本ピンと上に伸びた。
「はい、本当です」
『すまんの。礼に我を撫でても良いぞ!』
「お仕事中なので、後でも良いですか?」
『もちろんだ! あとで部屋による! ではな!!』
ふふん、と顔を上げた黒い猫が、てててと歩いて去っていく。あれ、猫って喋れたっけ……にゃあと鳴くのが普通だった気がする。
「託児所に行こうね」
嬉しそうに笑った女の人の後について行き、別館の前に立つ。こちらも立ち入りは禁止だそうで、名のあるセイジョさまが暮らしているのだとか。
セイジョってなんだろうと首を傾げていると、いずれ分るよと女の人が笑っている。そうしてまた別の建屋の中に入り、とある部屋に赴いた。扉を開けるなり、わらわらとわたしより小さな子供と同じくらいの年齢の子が笑顔を浮かべてやってくる。奥には背の高い男の人が、優しく笑みを浮かべてこちらを見ている。
「お姉ちゃん、遊ぼう!」
「遊ぼう!!」
子供に手を引かれて中に入れば、訳の分からないまま遊びの輪の中に入っていた。
「サフィールさん、後はお願いします」
「はい。任せてください」
私を案内してくれた女の人と部屋にいた男の人がやり取りをしている声を聞きながら、部屋の子供たちに促されるまま遊びに興じてしまっていた。