0832:揺れる想い。
――好き、なのだろうか。私の胸にある暖かな気持ちと、落ち着かない気持ちは。
アルバトロス王国に留学して随分と月日が経ち三年生三学期を迎えて、もう直ぐ留学も終わろうとしている。ナイさまとメンガーさまと一緒に過ごせる時間がどんどん少なくなっていることに寂しさを覚えていた。
お二人は『いつでも会えます』『またアルバトロスにきて下さい』と言っているけれど、聖王国に戻ればまた、大聖女として教会で大陸中から集まった信者さんとのお話や、治癒院に参加して忙しい日々が始まるのだろう。
アルバトロス城の来賓室で、用意された紅茶を一口飲み乾いた喉を潤した。
「フィーネお姉さま?」
「どうしたの、アリサ」
アリサが私に声を掛けた。はっと顔を上げて彼女に言葉を返したけれど、心配そうな表情で私を見ている。彼女は随分と落ち着いた。アルバトロス王国の聖女さま方とナイさまの実力を認められたことは大きかったのだろう。アルバトロスの教会に赴いて、治癒魔術について勉強をし直したり治癒院に参加して、術の腕前を随分と上げていた。
私も負けていられないので、彼女と一緒にアルバトロスの教会の治癒院に参加させて頂いたこともある。いろいろと取り入れるべき部分を見つけたし、新しい教皇猊下に治癒代を寄付として払って頂こうと進言して聖王国で取り入れるべきか協議中だ。
「いえ、浮かない顔をしておりましたので、お声掛けを」
「ごめんなさい、考えごとをしていたの。アルバトロス王国で過ごす時間も僅かなのねって」
嘘を付いても誤魔化しても仕方ないと素直に伝える。とはいえ表層の部分のみで、ナイさまとメンガーさまと別れることが寂しいとは口が裂けても言えなかった。
「そうですね。聖王国に戻る時間が近づいていますから。こちらで学んだことを教会で発揮できると良いのですが……」
「アリサ?」
彼女にしては珍しい表情だ。いつも自信に満ち溢れ明るい顔をしているというのに、一体どうしたのだろう。
「少し不安です。アルバトロス王国の聖女さまは、討伐遠征に参加して実地を踏んでおられ、怪我の具合の判断が早いのですが、私には即座に判断する力がまだ備わっておりません」
なるほど。真面目に学んだからこその悩みが湧いてしまったようだ。猪突猛進なところがあるので周りを見る目が養われたことは良いのだろう。
勢いが彼女の売りの部分もあるので少し寂しい気もするが、聖王国に戻れば成人し大人の仲間入りとなる。悩みを抱えるのは悪いことではない。答えを導き出せたなら、きっと彼女の中で大きな糧となり得えよう。
「でもアリサは大勢の方を一度に治癒を施すことができるでしょう。自信、あったのではなくて?」
ふふ、と笑みを浮かべて彼女の顔を見る。片眉を上げたアリサは苦笑いを浮かべて、私にこう言った。
「自信はありました。聖王国では多くの方に治癒を一度で施せる方は私以外に見たことがありませんでした。でもアルバトロス王国では魔力量さえ気にしなければ、大体の聖女さまが術を行使できると神父さまが教えてくださったのです」
生意気を言っていた頃の自分が凄く恥ずかしい、と言葉を付け足す。
「そうね。前のアリサより今のアリサの方が落ち着いているし、周りを良くみることができている。私が特進科の教室でアルバトロスの方々と話していても、口を出さなくなったのは凄く進歩した所だわ」
留学したばかりの頃であれば誰彼構わず噛みついていた彼女が、今では私の少し後ろで控えて話を聞いているだけである。そして不味い方向へ話が流れていくと、さりげなく用事があるように装って声を掛けてくれ話を切り上げることができていた。
本当に彼女は成長したと手放しで褒めてあげたいくらいだ。私に褒められたのが恥ずかしいのか、嬉しいのか、顔を赤く染めて『お姉さま……』と熱い視線を向けてくる。
思春期特有の憧れによって、私に向ける感情が明後日の方向にいっているだけだと放っておいた。同性愛は厳しく糾弾されるから、彼女の中に特別な気持ちがあったとしても隠し通すだろう。でもそろそろ、きちんと向き合うべき時期にきているし、彼女自身にも問題が降り掛かるのだから、先達として正しい方向へ導かないと。
「アリサ、聖王国に戻ればお見合いを受けるようになるのでしょう?」
聖王国における女性の婚姻適齢期は二十歳前後である。貴族家出身であれば、平民の方々より早く嫁入りか婿を取ることになっている。もちろん家の状況にもよるけれど、聖女であれば引手数多で相手先の紹介も多い。聖女であることは嫁入り先に困らず、玉の輿を狙っている家では相手を真剣に選び子供に紹介する。
「はい。父も教会も相手を探すと仰ってくださいますが……お姉さまもでは?」
「へ?」
彼女の言葉に私の目が丸くなる。言われてみれば、私も聖王国に戻れば大聖女としてお相手を探すことになるのだった。先々代の教皇さまにも両親にも、そして現教皇さまにも大聖女の相手にふさわしい人物を探してみせると息巻いていた。アルバトロス王国での生活が楽しくてすっかり忘れていたことを、アリサの言葉で記憶の奥から引っ張りだされた。
「フィーネお姉さまの実績を鑑みれば、聖王国で将来有望な殿方がお相手に選ばれるのでしょうね! 私は、私がお姉さまのお側にいることを許してくださり、普通の経済力と普通の容姿を持ち合わせた男性であれば特に気になりませんから」
いや、気にしよう。聖王国で聖女を担っているから生活には困らないが、うら若き乙女が普通の容姿と経済力があればそれで良いなんて悲しいじゃない。
アリサは可愛いのだから、格好良い男性を望めるし、聖女だからそれなりの地位にいる方を選べる立場を得ているのに。でも、生粋の貴族のご令嬢として育てられた影響なのだろう。私にはアリサのように、経済力と容姿が普通であれば良いだなんて割り切れない。
やはり好きな人と添い遂げるのが一番の幸せだし、そんな人と一緒にいられるのならば不幸になっても構わないと思えるほどの深い情を育んでみたい……なんて考えるのは夢を見すぎなのだろうか。
「猊下も先々代の教皇さまも他の方々も、大聖女であるお姉さまの伴侶に相応しい方をお探しになるのでしょう!」
アリサは手を胸の辺りに添えて、ぐっと力を入れ握り込んだ。私の相応しいお相手ってどんな方になるのだろう。聖王国が崩壊一歩手前になった二年前の件で、随分と金満貴族は粛清されている。
そんな家のご令息が私の相手に選ばれないことは安心できるけれど、貴族の政略的結婚に抵抗がある。だから先延ばしにして頂いていた所もあった。恋愛婚をしたいと聖王国上層部の皆さまには伝えてある。
だからタイムリミットを設けられ、二十五歳までお相手が見つけられなければお見合いをすることになっている。そして婚約者候補の中から興味のある男性と会食でもしてみては、という話も出ている。紹介状を見させて頂き、どの方も身分も顔も経歴も申し分のない方ばかりだった。でもビビッとくる方はいらっしゃらず、会食も未定のまま。
「待ってアリサ。盛り上がっているけれど、私の気持ちはどうなるの?」
私の相手を頭の中で想像しているアリサに待ったをかける。
「え、あ……申し訳ありません、一人で勝手に舞い上がってしまいました。でも、お姉さまのお相手はどんな方なのか凄く気になります」
「私もアリサがどんな殿方と婚姻を果たすのか興味があるわ」
暴走癖のある彼女を御せる男性って貴重なのでは、と失礼なことを考えてしまった。アリサはまだ若いから、あと二年か三年もすれば年相応の落ち着きを見せるだろう。
ゲームのヒロインだから可愛いのは間違いないし、根は素直な子だから男性にも受け入れ易いはず。私に対して重い感情を抱いているけれど、それも時間と共に薄くなっていくだろう。
「お姉さま、一つお聞きしても良いですか?」
「どうしたの?」
アリサがはっとしたような顔になり、私に問いかけたので先を促した。
「特進科のメンガーさま……お姉さまが気になっている男性なのでしょうか?」
彼女の言葉にどきん、と大きな鼓動が響き心臓が早鐘のように鳴り続ける。忙しなく動き始めた心臓によって、頭に血が昇ったのか顔がやたらと熱くなるのを感じ取った。
「なっ! なにを言うの、アリサ! き、気になってなんか、ないわ!!」
がたりと椅子から立ち上がって、したり顔のアリサを見る。確かに学院の教室でメンガーさまを見ると、胸が温かくなって今日も一日頑張ろうという気力が湧いてくる。
彼とお話ができた日の夜は、何度も頭の中で会話を反芻して眠れない。これが恋だというのなら、なんて甘酸っぱいのだろう。前世で気になる人はいたものの、メンガーさまに向ける気持ちの方がはっきりしている気がする。
「お姉さま、分かり易すぎます。でも聖王国とアルバトロス王国の関係を考えれば、悪くないお相手なのではないでしょうか?」
政治の話になって、熱かった顔は急激に冷めてしまった。
「メンガーさまは、ハイゼンベルグ公爵閣下とアルバトロス上層部の方々が重用されております。私なんて……候補にすら上がりませんし、そもそも私は聖王国の大聖女だから……」
聖痕が消えない限り、大聖女の座を退くことはできないのである。私のお臍の下にある複雑な紋様は薄くなることもない。
「なら大聖女の座を辞せば大丈夫ですね。好きな方との接吻で聖痕は消えると噂で耳にしましたよ」
本当なのでしょうか、とアリサが首を傾げた。そして私の記憶がぱっと蘇る。ゲームの中で主人公の友人ポジであるフィーネについて多くを語られることはなかったが、そんな一文を読んだ記憶があった気がする。いや、確かに読んだ。
「…………忘れてた」
私の声が聞こえなかったのか、アリサは不思議そうに首を傾げた。
「でも、好きな人とのキ、キキ、キキキ……ちゅうってどういうことなの…………!!」
政略婚が当たり前な世界で好きな人とのちゅうって難易度が難し過ぎではないだろうか。そして好きではない方と添い遂げれば、一生聖痕は消えることがないという事実に頭を抱えるのだった。
キスという言葉が恥ずかしすぎて言えないフィーネさま。