0559:憂鬱なセレスティアさま。
2022.11.05投稿 3/3回目
――雨が降っていた。
子爵邸の執務室で決裁の書類に目を通して、判子を押していた。封蝋に近いもので、指輪にミナーヴァ子爵家の紋章が彫られたものを、蝋に押し付けるだけ。朱肉が欲しいなあと考えてしまうのは、日本の判子文化に染まっている証拠なのだろうか。不動産屋さんのことと王都の不動産事情の説明を簡単に受けてから、家宰さまとソフィーアさまとセレスティアさま、私の四人でもくもくと書類作業をしている最中だ。
クロはお猫さまと一緒に籠の中ですやすやと寝息を立て、ロゼさんは私の足元に、ヴァナルも側で丸くなって寝ている。ジークとリンは部屋で勉強中。雨の音が響く部屋で、忙しくも穏やかな時間が流れていた。
「ギャブリエル……ジョセフィーヌ……いつ戻ってくださるのかしら? ルカも元気でございましょうか……嗚呼、梅雨の時期でございましょう? 濡れて風邪でも引いて寝込んでいるのではと考えてしまいます……」
セレスティアさまが珍しく溜息を吐きながら……というか溜息を吐いたところを初めて見たかもしれない。窓の外に視線をやって、雨が降る子爵邸の庭を憂鬱そうな顔で覗いていた。そんな彼女を見たソフィーアさまも溜息を吐いて、視線を私に向けた。
「すまないな、ナイ。彼らが居なくなって、セレスティアはどうにも寂しいらしくてな。……ほら、仕事をするぞ、セレスティア!」
ソフィーアさまがセレスティアさまの肩を揺らして、彼女の意識を戻そうとしている。軽く揺らしてもどこ吹く風で、窓の外に視線を向けたままのセレスティアさま。
エルとジョセが暫く留守にしますと言い残して、子爵邸から去ってから結構な時間が過ぎていた。当初、二頭は直ぐに戻ってきますと告げていたのだけれど、帰ってくる気配がない。
自然に生きる生物なのだから、子爵邸に居付いているのが不思議なことだし、気にすると気になるから思考の外に追いやっていた。セレスティアさまはそれが無理だったようで、随分とアンニュイな様子だ。外は雨だし、梅雨の時期よろしく気分も落ちているのかも。
「セレスティア、いい加減にしろっ!」
ソフィーアさまが語気を荒げ、思いっきり彼女の肩を叩いた。ぺしん、とかなり良い音がなったけれど、セレスティアさまは何も感じていないのか微動だにしない。逆に彼女に良い一発をいれたソフィーアさまが、彼女を叩いた右手の手首を握り痛みに耐えていた。
ああ、うん。武闘派令嬢と名高いセレスティアさまと、万能型のご令嬢であるソフィーアさま。鍛えていた精度に差があったようで、ソフィーアさまが負けてしまっていた。
「……筋肉め」
ソフィーアさまがボソリと呟いたけれど、聞かなかったことにしておこう。ソフィーアさまとセレスティアさまの仲だからこそ言える台詞で、私がセレスティアさまに同じ言葉を発すればキレるだろう。
「嗚呼、ギャブリエル……ジョセフィーヌ!」
ハンカチを手に持っていれば、口に咥えて引っ張っていそうだなあ、セレスティアさま。はしたないと理解しているのか、やりはしないけれど。
エルとジョセの名前を付けたのは誰であろうセレスティアさまだ。思入れがあるのだろうし、暇さえあれば庭に出て二頭のお世話を買って出ていたから。鬣や体の毛の手入れをしているセレスティアさまの顔がヤバくて、子供たちに見ちゃ駄目と止めたこともあるくらいだ。
「重症ですね」
「みたいだな……はあ」
私がソフィーアさまに言葉を掛けると、彼女は深いため息をありありと吐いた。女性の問題には口を出す気はないのか、家宰さまは苦笑いを浮かべながら作業を続けている。サボる訳にはいかないと私も手を動かしているけれど、武闘派で名を馳せているセレスティアさまであるが、事務作業もそつなくこなすので、戦力が減っている状態。
このままでは予定の時間を過ぎてしまうなあと、書類の山に目をやった……その時。私の足元で寝ていたヴァナルが不意に顔を上げてむくりと立ち上がり、セレスティアさまへとすたすた歩いて行き彼女の隣に腰を下ろしてお座りの体勢になった。
屋敷の中ということでヴァナルの大きさは狼サイズだ。ヴァナル曰く、子爵邸の魔素が多いから割と好きなサイズに変わることができるとのこと。今のヴァナルは狼の成犬サイズが最小だそうで、最大のサイズは狼の十倍くらいになれるのだとか。時間が経てば更に大きくなれるらしく、一体何処まで成長する気なのやら。
『サミシイ?』
ヴァナルは椅子に座っているセレスティアさまの膝の上に顔をちょこんとおいて、上目遣いで彼女を見上げた。なんだかあざとい気もするし、上の空のセレスティアさまをどうにかしようというのがバレバレだけれど、簡単に騙される人がいた。そう、誰であろうセレスティアさまその人である。
「ヴァナル……わたくしを慰めてくださるのですか!?」
セレスティアさまは視線を窓からヴァナルに移して、すごーく嬉しそうな顔になっていた。ヴァナルはそんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、膝の上から顔を上げて首を傾げている。あざとい。
『ムレのダレカ、イナクナル。――サミシイ、カナシイ』
片言でヴァナルは告げた。そうしてまたセレスティアさまの膝の上に顔をちょこんと乗せて、息をふんと吐く。
ヴァナルがどうして生まれたのか、フェンリルになったのかは知らないけれど、ヴァナルはどうやら群れで暮らしていた記憶があるようだ。群れで暮らしていたなら、別れもあったのだろう。自然に生きていたならば、厳しい条件下で暮らしていただろうし。
『エルとジョセハ、モドル』
だから元気を出して欲しいとヴァナルは言った。そんなヴァナルの頭をセレスティアさまは撫でると、じっとしたまま受け入れている。尻尾がぱたぱたと揺れているから、嫌ではないようだ。
「……わたくしが悲しんでいても仕方ありませんわね」
セレスティアさまは機嫌を持ち直して、仕事に取り掛かった。現金だなと思わなくもないが、元気になったのならなによりだ。積みあがっていた書類が減っていくのが分かるし、これなら時間通りに終わるだろうと、私はソフィーアさまを見て苦笑い。
その日のヴァナルはセレスティアさまの傍を離れず、彼女が席を立ちどこかへ行こうとするとヴァナルは後ろを付いて歩き始める。魔獣が自分の後ろを付かず離れず一緒に歩いてくれることが嬉しかったのか、セレスティアさまは凄く上機嫌。セレスティアさまが仕事を終えて、辺境伯家のタウンハウスに戻る為に馬車に乗り込むその時。
『イッショニネル、ヤクソク、ハタス』
「!!」
ずっと後ろをくっ付いて歩いていたヴァナルがそんなことを言いだした。狼くらいのサイズならばいっしょに寝ることは可能だけれど、まさかベッドの中に潜り込む気なのだろうか。
少し心配になりつつ、セレスティアさまを見るととてもすごく嬉しそうな顔になっていた。私に顔を向けて確認を取るセレスティアさまに、小さく頷くとまた凄く嬉しそうな顔になり。そうしてヴァナルはセレスティアさまと一緒に馬車に乗り込んで、一人と一匹はタウンハウスへと戻っていくのだった。
辺境伯さまのタウンハウス、大騒ぎにならないかな……。