0493:なんじゃこりゃ。
――あと少しで新学期が始まる。
アガレス帝国で起きた顛末を纏め、報告書にしてお城に送ったのが昨日。お仕事としてアガレス帝国で動いていた件に関しては、これで終わりである。あとは補償の話と学院でメンガーさまとフィーネさまと私で転生者としてどう振舞うかを決めれば、私自身が動くことはない。
ふいーと息を吐いて、子爵邸のサンルームから庭を眺める。春先ということで、庭師の小父さまが丁寧に育てた花たちが咲いている。
蜜蜂が飛んで蜜を集めていた。庭師の小父さまが駆除しようか悩んでおり、必死で生きているのに人間の都合で殺されるのは忍びないと、危険がない限りは見逃して欲しいとお願いしておいた。子爵邸のメンバーで、虫が嫌いな方が居なかったのも功を奏した。
勉強に付いていけなくなるのは困るので、家庭教師さんを雇った。今回は公爵さまが手配した訳ではなく、自前である。
ソフィーアさまとセレスティアさまに教えを乞うても良いのだが、お二人は子爵家の侍女として雇っているのだから仕事の範囲外。ならちゃんと家庭教師を雇った方が良いだろうと、家宰さまと相談の上で決めた。人選は家宰さまに任せてある。これに関して私はよく分からないので、戦力外だった。
「ナイさま、本日からよろしくお願いいたします」
かっちりとした服を着こみ、はっきりとした声で家庭教師の方は告げた。初回は子爵邸のサンルームで簡単な挨拶と今後のスケジュール、苦手な科目や得意な科目を教えて欲しいとのことだったのだけれど……。私の対面に座って微笑んでいるその人は、よく見知った人だった。
「よろしくお願いいたします。ロザリンデさま」
言葉と同時に頭を下げて元の位置へ顔を戻すと、にっこりと笑うロザリンデ・リヒター侯爵令嬢さまの顔が。彼女は王立学院卒業生だし、侯爵令嬢さまなのだから知識に関しても確り習得しているのだろう。子爵邸の別館で生活している彼女なので、移動の際に警備面の心配をしなくて済む。
「聖女の仕事はよろしいのですか?」
私に教える暇なんてあるのだろうかと、湧いた疑問だった。一般的な貴族令嬢の一日の過ごし方なんて知らないけれど、ロザリンデさまは聖女であるし、お貴族さまとして夜会やお茶会に参加しているだろうし。
「城の魔力補填は二か月に一度。討伐遠征の依頼は、辺境伯領への大規模遠征から少なくなっております。後は指名依頼と治癒院に参加するくらい。ようするに時間を持て余しているのですわ」
ロザリンデさまは、アリアさまの勉強も見ていると聞いている。アリアさまの話によると、丁寧に教えてくれ分かりやすいとのこと。特進科出身だろうし、ある意味先輩だから心強いのか。知らない人に教えて貰うより、見知った人から教えを乞う方が気が楽である。
大規模遠征から討伐遠征の依頼が少なくなってきているのは、何故だろう。魔物たちのご機嫌が悪いのか、はたまた機嫌が良くて大人しいのか。真意は分からないが、教会に依頼が来ないということは平和な証拠。困っている人が居ないということでもあるので、妙な展開にならない限りは大歓迎だ。
「しかし、ナイさま?」
「はい」
「この状況……良く落ち着いていられますわね」
ロザリンデさまの視線が、私の肩の上に乗っているクロから膝上のロゼさんに移って、床に伏せて寝ているヴァナルへと下げられる。お猫さまは暖かいと言ってサンルームが気に入ったらしく、冬の間はこの部屋で頻繁に日向ぼっこをしていた。春先なので随分と暖かくなったが、お猫さまはサンルームによく現れる。
外ではルカが蝶々を追いかけ、その後ろをエルとジョセが見守っていた。妖精さんが偶に姿を現しては、消えてどこかに去って行ったりもしている。辺境伯領から遊びに来た幼竜も、クロと一緒に庭を飛んでいることもあるので子爵邸は賑やかだ。
私がアガレス帝国へ拉致されて警備は強化されている。意味があるのか不思議だけれど、念の為なのだそうだ。ジークとリンはいつも通りだけれど、王国から派遣されている騎士や軍の方が増員されていた。あと教会からも騎士の方が派遣されている。
子爵邸のお隣さんが引っ越したので、ミナーヴァ子爵邸の土地面積は広がったけれど、お貴族さまのお屋敷としての体面が保てていない。その為に王都のタウンハウスの改良がおこなわれるのだけれど、着工は子爵領の領主館が完成した後にということだ。
「慣れました。ロザリンデさまは慣れましたか?」
慣れたというか状況を諦めたと言った方が正しいけれど。子爵邸に初めてやってきたお客さんは、庭の騒がしさに驚いて白目をむくこともある。食材を納品している業者さんや屋敷の修繕で訪れた職人さんが、腰を抜かすことが多々ある。
一応、子爵邸には竜とフェンリルと天馬さまが居るけどびっくりしないでねと伝えてはいる。冗談で受け止めた人は、本当に居たことに驚く訳だ。城からの使者さまは情報が正しく伝わっているようで、腰を抜かす人は居ない。ただ苦手な人は顔を真っ青にして怯えている。みんな大人しいし手だしなんてしないのだから、怯えなくともと言いたくなるが、犬が意味もなく苦手な人だっているのだから、意味もなく幻獣たちが苦手な人が居ても仕方ない。
「ミナーヴァ子爵邸で生活をすると決めた時に話は聞いておりましたが……――」
聞いていないことがあったので、本当に驚いたそうだ。妖精さんが飛んでいるとは思わなかったし、お婆さまも時折姿を見せる。どうやら妖精さんたちは別館でも姿を現しているようで、アリアさまとロザリンデさまに懐いている子も居るらしい。
悪戯で驚かされたこともあるし、花を差し入れで持ってきてくれたこともあるそうだ。庭でお茶を嗜んでいると幼竜が挨拶にきたこともあれば、エルとジョセとルカも普通に話しかけてくる。
興味が湧いて家庭菜園を覗くと、畑の妖精さんが『シゴトクレ』『タネクレ』と迫ってくる。……自分の目で見ていると慣れて普通となってしまったけれど、他の方から改めて話を聞くと子爵邸の異常さがヤヴァイ。
王都の空を竜の方が頻繁に飛ぶようになっていて、王都の街の皆さまは『竜使いの聖女に竜の方々が会いに来ている』と噂をしているのだとか。竜の方は私に会いに来ているんじゃなくて、クロに会いに来ているだけだ。それなのに勘違い甚だしい噂が流れているだなんて。風評被害が凄いなあと目を細める。
「さあ、お話はここまでに致しましょう。ナイさま、一学年の時に苦手な教科や難しかった所を教えてくださいませ」
無駄話は止めて、本題に入るようだ。ならばと姿勢を正してロザリンデさまの質疑に答える。割と事細かに聞かれ、これからの予定を組むそうだ。大規模討伐遠征の横柄な態度の彼女はどこに行ってしまったのやら。良い方向へ改善されたのだから、本当に良かった。
ソフィーアさまの言葉を受け入れたことが良かったのだろうなあと目を細めると、今日はここまででと声が掛かる。初回は顔合わせのようなものだから、短い時間で切り上げた。サンルームを去って行くロザリンデさまの背を見送り、椅子から立ち上がる。
「さ、行こうか」
警備に就いてくれているジークとリンに声を掛けた。
「ああ」
「うん」
これから城の魔力補填に向かう。拉致されてから今まで忙しかったから、取り止めていたけれど今日から週に一度の補填が再開される。頑張ってお仕事を務めてお金を稼がないと。子爵邸の維持をしなくちゃだし、やりたいこともあるからお金は大事。
消費する一方なので、なにかしら事業でも起こした方が良いのだろうかと最近考え始めている。儲かりそうなネタは沢山あるので、あとはどう軌道に乗せるかが勝負かな。ただ商売人としては素人同然なので、その手の知識に詳しい方に相談しなければ。子爵邸の地下室にある転移魔術陣へと移動して、直ぐに王城へと辿り着く。
最近、顔パスで警備の方々に通されてしまうので微妙な心境になりつつ、障壁を張る魔術陣まで移動して。ジークとリンにクロや皆を預けて行ってきますと告げ、部屋の中へと入った。
魔術陣の上に立って、起動詠唱を唱える。
音のない静かな時間が流れつつ、自身の魔力が魔術陣へと流れているのを感じ。最初こそ倒れそうだったけれど、慣れるものだ。今ではお腹が空いて少し眠くなるくらいで済む。五年間、聖女として勤めているけれど、少しは成長したのだろう。さて、そろそろ補填が終わるなあと考えていると妙な音が聞こえた。ピシっと何かに罅が入るような音。
「え……?」
感じた異変に、魔力を練るのを止める。目を開けて周りを確認すると、四六時中ぼんやりと光っている筈の魔術陣に灯りが灯っていない。なんじゃこの事態と首を傾げつつ、やべえやっちまった気がすると急いで部屋を出てジークとリンに伝えて、ひとっ走りしてもらう羽目になったのだった。