0400:【後】空の旅。
2022.08.10投稿 2/2回目
――死を覚悟した。
黒髪黒目の聖女さまから賜った人参が箱から飛び出し、飛空艇の床を叫びながら所狭しと走り回る。船体の前へ抜けた人参は操縦席へと入り、操縦士を気絶させ驚いた同乗者が慌てて私に報告したのだ。
「叩いて起こせっ! ――緊急事態だっ! 身分など構っておられん。手が空いている者は人参を確保せよ!!」
「は、はい!!」
私の下へ報告しにきた者は、操縦席へと急いで走っていく。己の命が掛かっているのだから、必死こいて起こすだろう。
人参は残った者で捕まえるしか他ない。だが、念の為だ。状況確認の為に私も操縦士の下へ行くかと、歩き始めると服の裾を掴んだ者が居た。
「えっ……触っても大丈夫なのでしょうか?」
お前、男だろうに。そのくらいで慄いてどうするのだ。私は皆の命を預かっているという責任がある。
だからこそ、一刻も早く操縦席に向かい操縦士を叩き起こす使命があるというのに、なぜ副官は目に涙を貯め込んで、やや上目遣いで私を見ているのだろう。もう一度男の癖に情けないと心の中だけで唱えた。
「大丈夫だろう、死にはせん。――それよりも墜落の危機なのだ、手を放せ!」
副官が握った服の袖を振り払って、操縦席へと急ぐ私。
「――……逃げたな」
副官がぼそりと呟いた言葉は私には聞こえず。操縦席の扉をバンと力強く開けると、操縦士が一人気絶し、もう一人の操縦士が顔を青くして操縦桿を握っていた。
「副操縦士か? 良かった。操縦できる者が居るではないか」
ふうと安堵の息を吐く。顔が青いのは、まだ操縦時間が短いのだろう。年若い操縦士によくあると聞く。訓練を日々受けている彼らだから、もう任せてしまっても大丈夫か。
「は、はいっ。しかし私はこの飛空艇の操縦には不慣れでして! 練習ついでに気楽に乗っていれば良いと、機長に言われて同乗したに過ぎないのです!」
気絶しているのが機長なのだろう。責任を放棄して気絶するとは、帝国臣民として情けない。帝国に忠誠を誓うならば、こんな些末事で驚いてどうするのだ。操縦席の窓から地上を見ると、随分と地上と飛空艇の距離が狭まっている。
「なっ! 高度がどんどん落ちているではないか! どうにかして高度を上げろっ!!」
このままでは本当に墜落してしまう。この飛空艇は長距離艇なので、船体強度はあまりよろしくないと聞いている。
「む、無理なんです! この飛空艇自体が特殊で、計器類や操縦の特性を熟知しているのは限られた人だけなんです!」
そういえば出発の際、操縦士の選出に随分と時間が掛かっていた。もしかして時間が掛かっていたのは、この飛空艇の特殊性ゆえかと、頭を抱える。
「まさか、今気絶している者がそうだというのか!?」
熟練であるはずの操縦士の方が気絶するなど、なんて事態だ。
今必死で操縦桿を握っている若者は、見るのも苦しくなるくらいに恐怖で歯をカチカチと擦り合わせていた。
人参に対しての恐怖なのか、墜落に対しての恐怖なのか、どちらか分かる由もないが。
「は、はい! ですから早く起こして下さい!!」
「おいっ! 身体を起こせ!」
近くに居た者に声を掛けると、慌てた様子で気絶している操縦士の体を起こした。その時何故か人参が気絶した操縦士の肩に乗って耳元まで近づく。
『びゃあああああああああああああああああああああ』
「ぎゃあああああああああああああああああああああ」
見事な断末魔を上げたと同時に、気絶した操縦士も断末魔を上げた。人参の叫び声で目を覚ましたらしい。
「はっ! ――こ、ここは?」
目が覚めたばかりの操縦士が情報を得ようと、きょろきょろと周りを見渡す。私や副操縦士を見て記憶が蘇えり状況を把握し始めているようだったが、念の為の情報を操縦士に渡そうと口を開く。
「飛空艇の中だ! 早く操縦桿を握れ!! 落ちるぞっ!!」
本当に。まだ死にたくはないのだ。やり残したことは沢山あるし、黒髪黒目の少女さまが引き起こすであろう奇跡をこの目でみてみたいという思いもある。だからまだ死ぬわけにはいかないと、操縦士をしっかり見据えた。
「先輩、早く助けて下さいっ!! 僕ではこの飛空艇を御せませんっ!!」
ひーひー言いながら副操縦士の青年は、操縦士に必死に声を掛ける。
「あ……ああっ! そうか俺は叫び声に気絶して……!」
その声と共に、もう一つある操縦桿に手を伸ばした操縦士。力なかった目に色が灯って、確りと操縦席の前の窓を見て一つ頷き。
操縦桿をぐっと手前に引き寄せると船首が上がり始め、様々な計器類を見ながらいろいろと操作していた。素人の私にはこれっぽっちも分からないが、どうやら墜落の危機は脱したようだと安堵の息を吐く。
「これで一先ず安心だな」
操縦席に居るのは邪魔だろうから扉を出ようと足を向けたその時。
『びゃああああああああああああああああああああ』
「ぎゃああああああああああああああああああああ」
また人参が叫び声を上げ、操縦士も同時に叫び声を上げたので、私は覚悟を決める。叫んでいる人参を手掴みし扉を出て叫ぶ。
「誰か、鍵が付いている箱を知らないか!?」
人参の叫び声と及び腰の者たちの捕り物劇はまだ続いているようだ。手に人参を持っている者も居れば、恐怖からなのか触ることを嫌っている者も。
「閣下、こちらに!」
「でかした! ――捕まえたらこの中に入れろ!」
どうにか動いている人参とまだ大人しい人参を鍵付きの箱の中へ全て入れ込んだ。
『鑑定書は読んでおいた方が良いぞ』
ハイゼンベルグ公爵が別れ際に告げた言葉を思い出し、鑑定書に目を通す。最初の一枚は鑑定書だ。黒髪黒目の少女が育てたという保証と人参がどんなものかを記している。
一枚に目を通しておけば良いだろうと、私たちは続きを読まなかったのだ。二枚目以降は『マンドラゴラもどき』の栽培方法や歴史がびっしりと丁寧な文字で書き記されており、書いた者は『ハインツ・ヴァレンシュタイン』と言うらしい。
細かな所まで丁寧に書かれている所に感心しつつも、我々にこんな情報が必要だったのかと疑問に思い始めた時。最後の一枚となり、上から下へと速読していく。何も有益な情報はないなと、最後の一文に目を通した。
――叫び声を上げて走り回るので気を付けること。
何故かその部分だけが小さく書かれており、筆の質が嫌に強い。 もしかして書いた者が違うのかと首を傾げるが、事実を知る者は遠い異国の地に居るのである。
国の貴族、しかも公爵という位の者が我々に差し出したのだから、謀った可能性は低いだろう。このマンドラゴラもどきは、叫びながら走り食用として食べることが出来ると書かれてあった。まさかアルバトロスの人間は好んで食しているのだろうか。『びゃああああ』と叫けぶ人参を口にする黒髪黒目の少女さまを頭の中で思い描く。
これを食せば、彼女と同じ位置の人間として認めて頂けて、私の格が上がるのではないだろうか。そうなれば帝国での私の立場も盤石なものとなる。意を決して食べてみるのもまた一興なのかもしれないと、にやりと口が伸びてしまうのがはっきりと分かるのだった。