1441:侯爵邸で働く人々。
俺がアストライアー侯爵家主催の剣技大会に出場し優勝を勝ち取ってから随分と時間が経っている。
まだまだ実戦には出せないと判断された俺は禁忌の森の調査メンバーに入れないままだった。今日も今日とて屋敷の庭の端で訓練に励んでいる。剣技大会で優勝して、ご当主さまの隣でカッコ良く立っている自分の姿を想像していた頃が懐かしい。
夢を叶えるにはまだまだ時間が掛かるだろうけれど、いつかご当主さまの隣か後ろで警護に就けるようになりたいものだ。そんなことを考えていれば、相手の木剣がひゅッと目の前を一閃した。
「いっ!」
一瞬のことでなにが起こったか理解できなかったが、身体が勝手に危ないと判断して背を仰け反らせていた。そして俺の目の前には背の低いご老体が一人不服そうな顔をして立っている。彼はフソウという国でニンジャとして高貴な方に雇われて隠密活動や諜報活動をしていたそうだ。歳を重ねて仕事を引退して隠居生活をしていたが、アストライアー侯爵家が隠密や諜報活動に長けた者を探していると知り志願したとか。
そうして目の前のご老体はフソウという北大陸にある小さな島国から西大陸中央南部に位置するアルバトロス王国へと移住した。
今ではすっかりと馴染んでアストライアー侯爵家の一員として、諜報活動員を育てる傍ら、侯爵家の騎士団と手合わせをしょっちゅう行っているそうだ。小柄で普段は緩慢な動きをしているのに、こと手合わせとなればしなやかな豹のような動きをしていた。
「ほら、声を上げている場合ではないぞ。戦場で気を抜けば直ぐに命を刈り取られる。お前さんには意地汚くとも生き残るという気概がない」
ハットリのご老体は戦場を舐めておるのかと言いたげに俺に言葉を放つ。決して舐めているわけではないのだが、戦場に一度も立ったことのない者に言われてもなかなか実感というものが湧かなかった。
テオ少年との手合わせに負けてから、厳しい訓練を課して欲しいと警備部長にお願いしたところハットリとフウマのご老体を紹介されて今に至る。機敏な動きにご老体二人は年齢を詐称しているのではというのが、周りの人たちの評価である。
「あ、あの……俺は騎士として侯爵家に雇われたので……」
そう俺はアストライアー侯爵家の騎士になるために厳しい訓練に励んでいるだけであって、奇抜な動きで相手を翻弄するのとは少し趣が違う。戦場で生き残るのは大事なことであるが、その前に仕える主人を守らなければならないのだから。俺が気を抜いて剣を降ろそうとすれば、ご老体が木剣を振り上げて剣に充てる。ガンという小気味良い音が鳴り、俺の手にジンと剣と剣がぶつかった勢いが伝わってきた。
「確かに聞こえは良いのじゃが、死んでしまっては飯も食えん。一度、戦場に立ち生き残ってから生意気を言うべきではないかのう?」
ご老体が言葉を口にしながら下から上に振り上げた木剣を後ろに引いて、次の手を繰り出そうとしていた。防がなければと俺は剣を確りと構え直せば、ご老体がにっと笑って動きを止める。どうやら彼は俺に戦意を喪失させるなと言いたかったらしい。
「疑問で返されましても。そもそもアルバトロス王国は平和なので戦は起こり辛いですし」
陛下が平和路線を標榜しているし、国に仕える貴族も武力に長けた家が多いそうである。近衛騎士団と騎士団と魔術師団と軍を編成している上に国境に魔力障壁を展開しているため、他国が攻め込んでくれば直ぐに対処できるようになっていた。引き籠もりのアルバトロスと揶揄されていた時期もあったそうだが、ご当主さまの知名度のお陰で今では周辺国から『手を出してはならない一番の国』という認識に変わっているそうだ。
「戦場と言ってもいろいろとあるじゃろ。魔物退治に参加して、強者が出てくれば一瞬にして地獄と化すぞい」
ご老体が呆れた様子で息を吐いた。確かに魔物の討伐を目的として出立すれば、そういう場面もあるかもしれない。でも……なあ。
「それはそうですが……禁忌の森の調査に俺は連れて行ってもらえませんでしたから」
そう。先日行った禁忌の森と呼ばれていた土地の調査に俺は選出されなかった。侯爵家に正式に雇われている騎士と違って俺はまだ中途半端な実力しか身に着けていないけれど、女神さまが嫌な雰囲気は感じないと言っていたそうだから特に問題はなかったのではなかろうか。
もし魔物が現れたなら実力を発揮できる場となっていたかもしれないのに。俺が残念そうな顔を浮かべれば、ご老体がもう一度息を吐いて木剣を握り直す。
「お前さんが弱いだけじゃろ。落ち込んでも仕方あるまい。日々、精進じゃ! そら!」
「あいた!」
ご老体が握り直した木剣が俺の脇腹に食い込む。木剣なので死にはしないが、割と力が込められていたし痛いものは痛い。
「まだまだじゃのう。今のままではお前さんはタダの金食い虫じゃぞ」
にやりと笑うご老体の声に『もう一手、お願いします!』と俺は声を上げれば、周りの人たちが『おお』と感心していた。こんなところでへこたれていれば俺の夢が叶うのが遅くなってしまう。まだ正式な騎士になれないことを悔やむより、前を向いて自分の実力を磨いた方が良いと考えを改めつつ、周りの人たちに俺の気概を示していたらご老体の木剣が目にもとまらぬ速さで動いた。
「気を取られ過ぎじゃ!」
「痛い」
今度は利き腕の肩を木剣で突かれ、俺は痛みに耐えられず声を上げてしまった。それを見ていた周りの人たちは『ははは』と笑い、ご老体が『まだまだ未熟者よ』と声を上げるのだった。俺がアストライアー侯爵家の正騎士になれるのはいつになるのか。
◇
お昼が過ぎて少し時間が経った頃。アストライアー侯爵邸、従業員食堂はわいわいとお喋りしながら食事を摂っている方が多くいる。
ご当主さまが成り上がりのお貴族さまということもあってか、貴族家出身の人と平民出身の人との壁が薄いというか。割と身分を気にしない方が多くいるような気がした。
かくいう私も貧乏貴族家の出であり、ご当主さまの家で働いていることが奇跡といっても過言ではない。ミナーヴァ子爵家が興った時に採用されたから、運が良かったとも言えるけれど。食堂のいつもの席に腰を下ろしてご飯を食べようとしていれば、友人であるエッダを見つける。私は手を挙げて彼女へ声を掛けようと口を開いた。
「おーい、エッダ。こっちこっち~一緒に食べよ!」
私の声にエッダが気付いてにこりと笑みを携えた。彼女はご当主さま付きの侍女だから、侍女仲間の間でも一目置かれている。騒ぎが起これば報告に向かう役目を彼女が負っているため、結構忙しくしているようだ。
彼女の座を狙っている人もいるけれど、ハイゼンベルグ公爵家のソフィーアさまとヴァイセンベルク辺境伯家のセレスティアさまと侍女長さまが目を光らせているため表立ったことになっていない。私は現在の担当――お茶淹れ担当――で満足している。というか身に余るほどの光栄だから文句なんて言えない。
美味しいと言ってお礼をくださるご当主さまに、言葉数は少ないけれど目を細めながら美味しそうにお茶を啜る西の女神さまと、ごちそうさまと律儀に告げてくださる南の女神さまがいらっしゃるのだ。お茶淹れ係の侍女としてこれほど幸せなことはない。
「あ、うん。時間、一緒になったんだ。貴女と食べるのは久しぶりかも」
エッダが食事を乗せたトレイを持って笑いながら私の目の前の席に腰を下ろした。最近、彼女と時間が会わず食堂で顔を突き合わせるのは久しぶりだ。
「ね。最近、ご当主さまが屋敷に滞在なされていることが多いからズレちゃうみたいだね。エッダは忙しいの?」
ご当主さまが創星神さまの使いを務められて以降、屋敷に滞在なさっていることが多い。すると対応しなければならない場面が多くなるので、必然友人とこうして食事を摂る時間が合わなくなってしまう。お仕事だから文句なんてないけれど、偶にこうして話のタネとして言い合うくらいは許して欲しい。
「ううん、全然。突発的にご当主さまに連絡を入れているくらいで、あとは普段通りだよ。そもそもご当主さまが侍女の手を必要としない方だし」
ふふふとエッダが私に笑う。確かに手の掛かる当主であれば頻繁に呼び出しを貰って、忙しなく動くこともある。その点、ご当主さまは必要最低限の呼び出ししかないので、時折心配になることもあった。
「あ、お茶をご自身で淹れようとしていたことがあるから、慌てて止めたことがあるなあ。最近はご当主さまも慣れてきて、私たちにお願いしてくれるようになったけれど」
そう。貴族になられた頃なんて、わざわざ呼び出すのは悪いからとご自身でお茶を淹れようとしたこともあった。ジークフリードさんとジークリンデさんはご当主さまのことを諫めないので、ソフィーアさまとセレスティアさまが諫めていたけれど。
少ししてようやく慣れてくださったのか、呼び鈴を鳴らしてお茶を用意して貰うということを覚えたらしい。私は貧乏貴族家出身だったけれど、令嬢として幼い頃からお茶を淹れて貰ったり、着替えの介添えには慣れている。やはり平民から貴族へと身分が変わったご当主さまには少し難しいことのようだ。本当に懐かしいとエッダと笑い合って、トレイの上の昼ご飯を見る。
今日はスープとパンというオーソドックスな品だ。でもスープの具材はお野菜がゴロゴロと大きく切られているし、贅沢にお肉も入っている。パンも焼きたてのようで、塗られた卵白がキラキラと光っていた。美味しそうと口を伸ばして私はエッダと一緒に『いただきます』と声を上げる。一口、二口とスープを嚥下して、パンをちぎって口の中へと運ぶ。甘い小麦とバターの香りが口の中に広がって幸せな気分になった。
「美味しいね」
「うん。パンも美味しいし、本当に侯爵家で働けることは幸せだよ。元の職場には悪いけれど戻るのは難しいなあ」
エッダが目を細めて笑い、私も肩を竦めながら笑う。今、元の職場に戻って欲しいとお願いされても、侯爵家の環境に慣れ過ぎて戻れない気がする。
従業員に対してご当主さまは施策をいろいろと打ち出してくれ、有給休暇や忌引きに病気休暇など本来ならば我慢しながら働かなければならない面でお休みを頂くことができる。託児所も他家にはないし、お弁当を買えることもない。本当に至れり尽くせりで幸せ者だと笑っていれば、エッダが不思議そうな顔をしていた。私が首を傾げると、彼女は口を開いた。
「本当に。今日は誰が作ってくれたのかな?」
「ディオさまが昼食をご担当なさったってよ……」
エッダの疑問に通りかかった騎士の小父さんが答えてくれた。彼とは食堂で席が一緒になって話すことがあるので、エッダの声を丁度耳にして答えてくれたのだろう。しかし。
「え」
「へ」
私もエッダも少し前に屋敷にやってきた神さまが作ったものだとは露知らず普通に食してしまっている。あ、コレ、良いのかなと食堂の方に二人で視線を向けると、帽子を脱いで胸に宛てて小さく頭を下げているディオさま――下級の神さまだそうである――がいらっしゃった。視線を元の位置に戻して『ははは』と二人で乾いた笑いを出せば、通りがかりの小父さんも顔を強張らせていた。
「心して食わねえとな……」
ぽつりと零して小父さまは少し離れた席に腰を下ろした。西と南大陸を司る女神さまが屋敷に滞在していることも驚きだけれど、まさか神さまが作ってくださった料理を食べることになるなんて。いろいろなことが起こって随分と屋敷の環境に慣れてきたと笑っていたのに、更に上の出来事が起こるとは。アストライアー侯爵家おそるべし……と遠い目になるのだった。